第90話 物乞い

 ゴーンゴーンと城の鐘楼の鐘が鳴り始めた。新年の到来を告げる音に挨拶の言葉がかぶさる。

「ハッピーニューイヤー。リーダー、今年もよろしく」

「こちらこそよろしく頼む」


「ご主人様。おめでとうございます」

「ああ。おめでとう」

 店のテラスから俺達は広場の方を見下ろしていた。下では酒のジョッキが掲げられ大騒ぎをしている。


 ティアナは昼のように明るい光景をみながらつぶやいた。

「こんなに賑やかで華やかな世界もあるんですね」

「まあノルンは田舎町だからな」

「私の住んでいた村に比べたらノルンも大きな町です」


「まあ町ではあるな」

「ご主人様のお陰で色んなものを見せて貰いました。ありがとうございます」

「なんだよ改まって」

「いつも感謝していますけど、こういう時はちゃんと口にするものでしょう?」


「それを言うんだったら俺の方が礼を言わなきゃな。お前が来てくれてから運に恵まれている気がするよ。俺にとっちゃ幸運の女神さまだ」

 ティアナはくすぐったそうな顔をする。

「からかうのはやめてください」


 そこへやってきたタックが目を擦りながら不平を言う。

「なんだ。新年っても何もないんだ。つまんないの」

「だからそう言ったじゃねえか」

「だって皆起きてるから面白いことがあると思うじゃないか。もう帰ろうよ」

「じゃあ、帰るとすっか」


 俺達はゼークトが手配してくれていた店を後にする。昼の店よりは庶民的な店だが立地がいいので結構高いはずだ。会計はゼークト任せなので実際のところは知らない。その本人はお姫様と一緒に王城だ。今頃は正式に婚約が発表されていることだろう。


 人でごった返す広場とは反対側の出入り口から外に出た。こちらも人通りはあるが比較的に空いていた。警邏隊が辻々に立っている。見回りをしている騎士ともすれ違った。キャリーが道を選んで歩いていく。タックは眠くなったのかミーシャに抱きかかえられていた。変わろうかと思ったが不測の事態に備えて手は空けておきたい。


 キャリーは裏道に入る。すぐ向こうに明るい通りが見えた。ほんのわずかな距離の道だが地面に座り込んでいる数人の人影が見える。物乞いの類のようだ。人影があるのとは反対側を足早に進む。

「だんなぁ。めでたい新年だ。ちょっとばかりの……あれ? ハリスさんじゃないですか?」


 不意に呼びかけられて驚いたが、薄明かりに透かして見るとどっかで見た顔だった。

「やっぱりハリスの旦那だ。もうお忘れですか? 旦那に助けて頂いたマルクですよ」


 銀の廃坑で働かされていた鉱夫の一人で、レッケンバーグへの帰り道に俺にしきりと話しかけてきた男だった。手をつないでいたティアナの体が強張るのを感じる。

「心配しなくていい」

 耳にささやいて前に出る。


「こんなところでどうした? 故郷に帰ったんじゃないのか?」

 鉱夫達はレッケンバッハ伯爵が帰りの辻馬車代を出して送還したはずだった。何も善意でというわけじゃない。町の近くを集団でうろつかれると治安上の問題があるとの判断だ。


「へへ。稼ぎがないままじゃ帰れないんで、ここでもうひと踏ん張りしようとしたんでさ。バザールのお陰でそこそこ仕事はあるんですがね、宿代が高騰しちまって、このざまですよ」

 マルクは下からすくいあげるように俺達を見る。


「旦那もキレイどころをそれだけ連れて羽振りがいいですね。あっしにもちょいとお裾分けを頂けないですか?」

 後ろに回した手からはティアナの震えがまだ伝わってくる。マルクはそれほど身ぎれいではないが、そんなに怯えるような面体ではない。チラと振り返り、ティアナと目が合った瞬間に俺は唐突に理解した。


「銅貨の1枚でも結構なんで。故郷にゃ腹をすかせた女房と子供が首を長くして待ってるんです」

 俺はため息をつくと懐の財布から銀貨を2枚取り出す。ティアナをキャリーの方に押しやると俺はマルクに近づき、投げだした足の間の帽子の中に投げ入れた。


「達者でな」

 言い捨てるとマルクの感謝の言葉を聞き流してティアナ達のところに戻って歩き出した。ミーシャはタックを抱きかかえていてそれどころではなかったが、キャリーは俺に何か言いたそうにしている。


 ゼークトの屋敷に戻り、それぞれの客間に引き上げた。それまで黙っていたティアナは部屋に入ると深々と頭を下げる。

「ご主人様。どうもありがとうございました」

「あんな目で見られちゃな」


「すいません」

「謝ることはないさ。ただ……恨んでないのか? あいつ、お前を売った継父ままちちだろ」

「はい」

「俺には分からねえ。あの男に金をくれてやる義理はないだろ?」


 ますます理解しがたいことにティアナはほほ笑んだ。

「確かに一時期は悲しかったです。でも、私はあの人が可哀そうだと思いました。寒空に物乞いをするのは楽じゃないですよね。あの人がこんなことをしてまで私達を養っていたのを知りませんでした」


 頭を棍棒で殴られたような衝撃が走る。テラスで飲んでいた温葡萄酒の酒精分が抜けた。

「こんな暖かい上着も買っていただいて、不自由なく暮らせています。ご主人様のお陰で私は幸せです。幸せは一人占めしたら逃げていくんだって聞きました。なので、そのお裾分けです」


「そうか」

 俺はそれだけを言うのがやっとだった。俺がティアナの立場だったらきっと自分の正体を明かして、いかに恵まれている生活をしているのか自慢をするか、唾を吐きかけるかぐらいはしただろう。


 俺は今さらながらとんでもない娘を買ったことに気が付いた。これほど純粋な魂の持ち主を俺は他に一人しか知らない。急に正視しがたい気分になり視線をそらしてしまう。

「あの。ご主人さま?」

 ティアナが不安そうな顔をしていた。

「私、何か変なこと言ってしまったでしょうか?」


「いや。ちょっと急に視界が眩しくなってな。飲み過ぎたのかもしれない」

「大丈夫ですか?」

「ああ。大丈夫だ。お前はそうだな。確かにちょっと変わっているかもしれないな」

 正面から変と言われて、さすがにティアナは不満そうに頬を膨らませる。その姿は年齢相応の子供っぽいものであることに俺はちょっと安心するのだった。

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