第72話 許せないこと
♡♡♡
「急にめまいがしてさ。倒れそうになったのを支えて貰ったのよ。ハリスさんてティアナちゃんの言う通りの紳士だね」
アリスさんはご主人様から体を離す。
「それじゃあ。さっきのこと考えてみてよ」
アリスさんはご主人様の頬をさっと手でひと撫ですると私に手を振って階段を下りて行った。ご主人様を廊下に立たせたままにするわけにはいかないので部屋に招き入れる。見た感じではどこにも怪我などをしたようには見えないけれど、顔には疲れが滲んでいた。
ほんの数日離れていただけなのになんだかご主人様が別人になったような気がする。何か心配事でもあるのか眉間にしわを寄せていた。何かいい香りがすると思ってご主人様に近づくと花のような匂いがする。どうやらアリスさんの香水が移ったらしい。
先ほどの光景が目の前にちらつく。倒れそうになったのを支えて貰ったといっていたけれど、残り香がするほど長く支えていたのかな。急にご主人様を取られてしまったような気がした。なんか嫌だ。体が勝手に動き気がついたらご主人様に抱きついていた。顔を見られないように胸に顔を押し付ける。
「ご主人様。お怪我とかはありませんでしたか?」
「ああ。ゼークトにはこき使われたが、剣を交えるようなことは無かったからな」
「それなら良かったです」
ご主人様の顔を見上げて、私は安心すると共にちょっとだけ寂しい気持ちになる。
それが表情にでてしまったのかもしれない。ご主人様は怪訝そうな顔をした。
「なんかあまり嬉しくなさそうだな?」
ご主人様の顔が曇る。
「いえ。そんなことは無いです。でも、ちょっと残念かも」
ご主人様が無表情になった。あ、これじゃ、まるでご主人様が無事なのが残念というように聞こえちゃったかもしれない。
「あの。ええと。そうじゃないんです」
「何がそうじゃないんだ?」
私は頬が赤くなるのを感じる。恥ずかしいけど、ちゃんと言わないと。
「あの。ご主人様が出かけるときなんですけど、いつものように、あの……おでこにおまじないしなかったですよね」
「ああ。しなかったな」
ご主人様の声が尖る。
「その……。なんか恥ずかしくなっちゃっておまじないができなくてすいませんでした」
「それがどうしたんだ?」
「おまじないをしなくても無事だったというか、私のおまじないなんて意味が無いのかな、ってのがちょっと残念で……。いえ、無事で良かったです。ずっと心配で」
ご主人様は私のことをまじまじと見ていた。顔の険しさが和らぐ。
「それでも、お前はずっと心配してくれていたんだな。だったらおまじないをしたのと一緒だろ。それじゃ、支度をするんだ。宿に戻るぞ」
ご主人様は私の頭をくしゃくしゃっとした。なんだかニックスと同じ扱いをされてるみたいだ。私は急いで支度をする。
下に降りるとステラ様は出かけているとのことで挨拶ができなかった。
「この町を離れる前にはきちんと挨拶するさ。俺だってお前を預かってもらった礼をちゃんと言わなきゃならないしな」
ご主人様はアリスさんに伝言を頼み、私たちはお店を後にする。
冷たい風が吹きつけてきた。ずっとお店の中にいて気づかなかったけれど、急に気温が下がっている。思わず体をすくめるとご主人様がマントを外して肩から掛けてくれた。
「へ、平気です」
「そんなことを言っているが震えてるぞ」
「でもご主人様が」
「俺は大丈夫だ。お前の縫った肌着を着ているからな。あれは結構暖かい。お前にも冬用の厚手の服を買わないといけないなあ」
ご主人様のマントは買ったばかりのものでまだ名前の縫い取りができていない。申し訳ない気持ちがするけれど、体に巻き付けると寒さが和らいだ。
「本当にすいません」
「ああ。気にするな」
道を歩きながら悩んだ。気になっているアイシャさんのことを聞こうか聞くまいか。斜め前を歩くご主人様の横顔を盗み見る。やっぱり、何か今までとは雰囲気が違う。私なんかが力になれることはないけれど、お話を聞くぐらいならできるはずだ。あの女性のことを吐き出したら少しはすっきりするかもしれない。
「あの。お聞きしてもいいですか?」
「なんだ?」
「先日、食事の最後に途中でお店を出て行かれましたよね。あの時の女性、綺麗なかたでしたけど、ご主人様とどういう仲なのですか?」
「お前には関係ない話だ」
ご主人様が歯を噛みしめた。顎のラインが強張る。
「すいません。私にできるのはお話を聞くことだけですけど、それで気がまぎれるかもしれないです。私もお姉ちゃんに悩みを……」
ご主人様が私の方を向く。今まで見たこともないほど怖い顔をしていた。
「お前も本当は聞いて知っているんだろう? ノルンの町の連中から吹き込まれたはずだ」
「なんのことですか?」
「本当にアイシャのことを聞いてないのか?」
ご主人様は疑いの目を向ける。
「はい。聞いたことはないです。ノルンに居たことがある方なんですね?」
「ああ。そうさ。一時期一緒に暮らしていた」
「お部屋を貸していたんですね」
ご主人様が半口を開ける。
「は?」
「違うのですか? ミーシャさんみたいにお部屋を貸していたんですよね?」
あれ? でもそれならどうしてあの時睨みつけていたんだろう?
ご主人様はふーっと息を吐く。
「でも、今は仲違いしてるのでしょうか? 何か怒っているようでしたけど」
「あいつが俺の悪口を言いふらしたのさ。だから、お前が来るまでは俺は町の連中から毛嫌いされていた」
私に意地悪をしていたリリーみたいな子が注意されないで大人になるとあんな女の人みたいになるのかな。綺麗な人だったけど、悪い人だったのね。ご主人様のことを悪く言うなんて許せない。ご主人様と最初に会った時、とても怖い顔をしていたのはそれまで辛い思いをしてたからなんだ。
「ひどい!」
思わず大きな声が出る。すれ違った人が目を丸くしていた。
「ご主人様のような方を悪く言うなんておかしいです。分かりました。今度会ったら私も文句を言ってやります。ご主人様に謝らせますから。見ててください」
ご主人様も私が大きな声を出したのに驚いたのか目を大きく見開いていた。
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