第64話 アイシャ

「ああ。ティアナちゃんだっけ。そんな顔しなくて大丈夫だから」

 アリスと呼ばれていた給仕がティアナの顔を覗き込む。

「別に気に入らなかったとかじゃないよ。婆さんもさ、年を取って涙もろくなってて。人に泣いてるところを見られたくないのさ。笑えるよね」

 あはは、と陽気にアリスは笑う。


「さあさ。座って座って」

 アリスはティアナの椅子を引いてやる。

「婆さんにはもったいないようないいスカーフだよね。ブルネットだから良く似合うんじゃないかな。まあ、見てなって。次に出てくるときは頭に巻いてるから」

 

 俺を含めてテーブルについた皆は、ステラを婆あ呼ばわりするアリスに圧倒されて口がきけない。

「お嬢ちゃん。覚悟しておきなよ。腹がはちきれるほど食べさせれられるからね」

 アリスはくっくと笑う。


「じゃあ。私も行かないと。さすがにこれ以上しゃべっていたら、首を引っこ抜かれちゃうからね。あ、でも、カッコイイお兄さん。また後で来るから」

 ゼークトにウィンクをしてアリスが去っていくのを見送り、俺は周囲を見渡すが誰もこちらに注目しちゃいない。俺達をチラリと見てもいつもの光景と言った感じですぐに自分たちの会話に戻っていった。


「なんか凄いっすね」

「なかなか面白い方でした」

「私はちょっと苦手かな。ああいうタイプ」

 ぽつぽつと仲間内の会話が始まる。


 ティアナは不安そうに厨房の方を気にしていた。

「心配するな。あのアリスってのも馴れ馴れしいが人は悪くなさそうだ。たぶん、言ってる通りだと思うぜ」

「ご主人様。そうでしょうか?」


 まず、飲み物が運ばれてきたと思ったら、次々と料理が運ばれてくる。新鮮な野菜に砕いたチーズをかけたサラダ、木の実と獣肉をゼリー寄せにしたもの、茹でザリガニの香草あえ、川魚のフライなどなど。しかも量がそれぞれ人数分はある。ゼークトに視線を向けたが奴も困惑していた。


「俺はこんなに頼んでないぞ」

 内臓と豆の煮込みを運んできたアリスがテーブルに置いた。

「もう、婆あったら凄く張り切っちゃってるから。こんなになったのは領主さまが来た時以来かな。まあ、遠慮なく食べてね」


「せっかくの厚意だ。出来立てを食おうぜ。ティアナ。何が欲しい? 最初はサラダか?」

 俺が取り分けてやるとティアナが慌てる。

「ご主人様。私がやりますから。そんな……」


「近くにあったからやっただけだ。それに」

 俺は声を潜める。

「お前に取り分けさせて俺がのうのうと食っててみろ。ステラさんに俺の首がねじ切られちまう。まあ。それぞれが近くのもの取ってやるってことでいいだろ。ジーナ。その旨そうなザリガニちょっと取ってくれ」


 大トンネル内で花を摘みにいかなくて済むように飲食を控えていたので、全員腹が減っているのは一緒だった。すぐにめいめいが気に入ったものを食べ始める。このメンバーに小食な者はいない。一番上品なエイリアですらいい食べっぷりだった。山のような料理だったが、手を付けられない皿が侘しく残っているということはない。


「これもどうだい」

 ステラが大きな鉢を持ってくる。頭にはティアナがプレゼントしたスカーフを巻いていた。ほんのわずかに眼のふちが赤いような気がする。鉢の中身は野菜とたぶん鶏肉と思われる肉を柔らかく煮たものだった。華やかさには少々欠けるその料理を見てティアナは顔を綻ばせる。


「これはあの時の」

「そうさ。ステラ特製の健康スープさ」

 自分の器によそってもらったスープを匙で口に運んだティアナの横顔を見る。幸せな笑みを浮かべていた。

「おいしいです。とっても」


「当然さ。そうそう、スカーフありがとう。大切に使わせてもらうよ」

 ステラは目じりの皴を増やす。

「さあて。もうお腹一杯とは言わないだろうね。まだまだ食べて欲しい料理がいっぱいあるんだ」

 ステラは空いた皿を手に厨房に戻っていく。


「良かったな」

「はい」

 ティアナの嬉しそうな顔を見て俺も内心ほっとする。ステラがそっけない態度を取り続けるなら、立場上文句を言わなければならないところだ。あの迫力ある女性と渡り合うと思うと気は進まない。


 美味しい料理とたっぷりの酒を堪能した。最後に果物を使ったお菓子と薫り高い謎の暖かい飲み物が供される。まるで琥珀のようなお菓子の美しい色合いにティアナは弾んだ声をあげた。誰もが満ち足りた顔をしており、まさに幸せを絵に描いたような光景だ。俺が菓子に手を伸ばそうとしたときに信じられない声が俺の耳を撃った。

「あら。さすがに繁盛しているわね」


 まさかと思いながら俺は後ろを振り返る。首を巡らせた視線の先で、豪華な衣装に身を包み目元をマスクで隠した女性が、屈強そうな数人の男に囲まれて店の中を見回していた。操り人形のように俺は席から立ち上がる。

「ご主人様?」


 十数歩の距離をおいて、俺とその女性の視線が交錯した。長い間忘れようとしても忘れられなかったその顔は半分マスクに覆われていても見間違えようがない。3年経ったその口元は相変わらず美しく、妖艶さを加えていた。その口が驚いたように開かれる。俺の口から懐かしくも憎いその名が漏れた。

「アイシャ……」


 見つめあっていたのはほんの一瞬だったかもしれない。アイシャの口元に笑みが浮かぶ。

「混んでいるようだし、またの機会にしましょう」

 アイシャはくるりと向きを変える。


 護衛が押さえるスイングドアの向こうにアイシャが消えるまで俺は金縛りにあったように動けなかった。護衛のうち残っていた2人が俺の方に不審の目を向けたが外に出て行った。

「おい。よせ」

 ゼークトの緊迫した声が俺の金縛りを解く。


 俺は制止の声を振り切って表に向かって走っていった。この間の嫌な思い出が一気に溢れて、体内の血が沸騰したように滾る。折角の料理が胃の中でムカついた。たたきつけるようにしてスイングドアを押し開け外に出る。アイシャが馬車に乗り込むところだった。

「待てっ!」


 アイシャは仮面を取ると蔑みの視線を向けてから車内に消え、俺の声に反応して腕の立ちそうな護衛たち4人が身構える。

「なんだ貴様は? 無礼者め!」

 俺の手が腰に伸び、護衛たちの顔色が変わった。

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