第63話 ステラの店
気づかないうちに馬車の中に何かが侵入してたのか? 心配する俺の耳にか細い声が聞こえる。
「頭がぐるぐる回って吐きそうです……うえ……」
はあ?
とりあえず、いつまでも抱いているわけにはいかないので、手近な岩の上に腰掛けさせた。事情を聴くとなんということはない。最初のうちはぼーっとしたり、うとうとしたりしていたが、退屈なので、馬車の中で蝋板を取り出して字の練習をしていたというのだ。そんなことをすれば気持ち悪くなるに決まっている。
背負い袋の中から葡萄の蒸留酒を取り出して嗅がせた。芳香が辺りに漂う。横に座り俺の肩を貸してやった。
「すいません」
「気にするな。人に体を預けていると気分が良くなる」
「……はい。そうですね」
しばらくするとティアナの顔色が良くなった。ニックスが寄って来てティアナの足元にじゃれつく。下馬したゼークトがやってきて眉を上げる。おかしそうな顔をしたが口に出したのは幸いなことに冷やかしの言葉では無かった。
「さあ。ひと踏ん張りだ。町でゆっくり休もう」
ゼークトが指し示す彼方に何かの尖塔が見えた。
ティアナはもう馬車には乗らないというので、コンバとエイリアを乗せる。町につくまでには完治できそうだと言ってエイリアが乗り込んだ。
「コンバさん。怪我したんですか? ご主人様は?」
「心配するな。エイリアさんが治療した。最後の仕上げをするだけだよ」
俺は怪我をしてないことを告げ、しばらく周囲の警戒に専念した。街道に出たので、もう神経を張り詰めることはないと、ティアナにトンネル内のことを話してやる。意外なことに一番怖がったのは蜂だった。他のものは想像しにくいのかもしれない。
「そういえば、なんで俺に蜂が群がったんだろうな?」
「たぶんそれは、ニックスのせいじゃないかしら。狩り蜂は主に犬とか猫とかの小動物を獲物にしているらしいのよね。あの子はハリスにくっついているから匂いが移ったんじゃない」
間抜け面で尻尾をふりふりティアナの横を歩いているニックスを見下ろす。最近は関係改善出来ていたつもりでいたが、よく考えたら、こいつとは初対面のときに噛まれたし、実は俺に仇為す存在なんじゃねえか?
「やあねえハリス。わざとやったんじゃないし、そんな顔やめなさいよ」
だらだらと歩いてレッケンバーグの町にたどり着いた。まだ日は高かったがゼークトを除く全員が疲労困憊していたので早めに宿を取る。男女別に2部屋借りてそれぞれ部屋に入った。ゼークトがレッケンバッハ伯爵に挨拶をしてくると言って出かけるのを見送ると俺とコンバはベッドに潜り込む。
泥のように眠って目を覚ますと夕刻だった。
「おい。ハリス。夕食だ。起きろ」
疲れをみじんも見せない男の声で起こされたが、まだ頭の芯がぼうっとしている。
「レディたちを待たせるのか? ほら、起きた起きた」
下に降りていくとティアナが心配そうに寄ってくる。
「ご主人様。大丈夫ですか?」
「ああ。まだ眠いだけだ。しかし、みんな元気だなあ」
それだけ若いということだろう。あれだけ大けがをしたはずのコンバもケロッとしていた。
連れだって、ステラの店に移動する。
「しかし、ステラ殿とティアナ嬢が旧知の間柄だったとはな。世間は狭い」
ゼークトが感嘆の声を上げる。
「というより、ゼークト。お前がなんで市井の食堂の主と懇意なんだ?」
「ああ。伯爵ご推薦の店でね。ときどき本人も食事をすると言っていたな」
「領主が町中の店で食事するのか?」
「気さくな人柄だからな。なかなかの人物だ。それに剣の腕も貴族離れしてるぞ。練習試合で俺から3本に1本取れる」
俺は肩をすくめる。確かにそれは凄いが俺には関係ない世界の話としか思えない。
話をしているうちに店についた。店構えは大きいがごく庶民的な雰囲気で、スウィングドアの奥からがやがやと喧騒が聞こえてくる。とても領主がやってくるような高級店といった佇まいではない。ただ、むしょうにいい香りが流れてやってきて、腹の虫が鳴る。
中に入ると客でいっぱいだった。忙しそうに動き回る給仕を捕まえて6人と告げると運よく奥のほうに1テーブルだけ空いているという。ジーナと同じぐらいの年頃の割と美人な給仕が来て注文をとった。ゼークトがまとめて注文をする。給仕は無遠慮な視線をゼークトに浴びせていた。
「お客さん。前も来てくれたことあるよね?」
「ああ。そうだ。良く覚えているな」
「そりゃ、お客さんほどのいい男忘れるはずがないじゃない」
給仕はいけしゃあしゃあと言ってのける。
「アリスっ。お客さんとくっちゃべってんじゃないよ!」
厨房の方から威勢のいい声が響く。その声を聞いてティアナの顔がぱっと輝いた。
「あの……。おかみさんはお元気ですか?」
「元気も元気だね。聞いての通りさ。あれ? お嬢ちゃんもこの店に来たことあるのかい?」
「アリス。いつまで油売ってりゃ気が済むんだい?」
気が付けば逞しい腕をした女性が近くで仁王立ちしていた。昔はそこそこ男にもてたんじゃないかという名残がある。なんとなくうちのギルド長サマードと同じような匂いを感じた。
ティアナがぴょこんと立ち上がると深々と頭を下げる。
「あの……あのときはお世話になりました」
初老の女性はいぶかし気な表情をした。
「ちょいと顔を上げとくれよ。あたしには身に覚えが無いんだけどね。お嬢ちゃんみたいな子は記憶にないねえ。人違いじゃないかい?」
ティアナは顔を上げる。
「いえ。ステラ様に食事を頂きました。その時はここに傷があったので印象が違うかもしれません。もっと痩せてたし、足も引きずってました」
ステラは左上に目線を寄せて何かを思い出そうとする。
「ティアナっていいます」
「あ……。半年ぐらい前の!」
ステラはガバとティアナを抱きしめる。
「すっかり見違えたよ。きれいになって。どこかのお嬢様みたいじゃないかい」
ティアナはステラが抱きしめる力が強すぎるのかもぞもぞした。それに気が付いてステラが抱擁を解くと、ティアナは肩から下げていた鞄から暗緑色のスカーフを取り出す。
「こんなものしか用意できなくて……。ほんの気持ちです。気に入って貰えるといいのですけど」
ステラはティアナの手にしたスカーフをまじまじと見つめる。大きな手でそっと受け取ると表面を撫でた。急に下を向いたと思うとくるりと向きを変えて、無言で厨房へと戻っていく。残されたティアナは茫然としていた。
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