第42話 昔の女

「ただいま戻りました」

 扉を開けたティアナの声で異変に気が付いた。いつもの弾むような声音は見る影ももなく、ひどく元気がない。振り返るとなんとか笑顔を作ろうとしているのが見て取れる。手足に血が滲んでいた。


「どうしたんだ?」

 立ち上がった拍子に椅子がガタンと倒れた。近くに駆け寄るとティアナは体を縮こまらせて頭を下げた。

「ご主人様。申し訳ありません。せっかく買った卵を割ってしまいました。私に貰ったお金で弁償……」


「そんなことはどうでもいい。怪我をしているじゃないか」

 膝をついて左の手足を改める。広範囲に血が滲んで、砂が入り込みひどく痛そうだった。まずいな。これはきちんと処理をしないと肌に跡が残りそうだ。まずは汚れを落とさないと化膿したらもっとひどいことになる。


 買い物かごはその辺りにそのまま置かせて、右手をつかんで裏庭に連れて行く。井戸からきれいな水をくみあげた。

「少ししみるが我慢しろよ」

 手桶でティアナの手足にかけて砂を洗い流す。すぐに血の玉が浮き出てきた。かなりひどい怪我だ。


「どうした?」

「転んでしまいました。荷物を持っていたのでそのまま擦ったみたいです。すいません」

「謝ることはない。とても痛いだろう? すぐに神殿に行こう」

「そんな。この程度の怪我ですし大丈夫です」

「だめだ」


 あっけにとられるジーナ達を残しティアナを抱きかかえるようにして神殿に行く。すっかり顔なじみになった受付の神官に咳き込むように言った。

「この子の傷を治して欲しい」

「ああ。これは痛そうですね。こちらへ」


 若い神官が傷を聖水で清めてから治癒の呪文を唱え始める。ほどなく詠唱は終わってティアナの傷は塞がった。傷は残らないでしょうという言葉に安堵し、礼を言って部屋を後にする。

「余計な出費をさせて申し訳ありません」

 ティアナが頭を下げる。ああ、そうか会員証のことは知らないんだったか。


 今回無料だったことを話されて、毒蛇の解毒薬を譲ったのにはそういうカラクリがあったとジーナに知れるのも面倒だ。ティアナには少し離れたところで待つように言い受付に寄る。

「今回の治療にはいかほどかかるものなのですか?」

「え? ああ。通常だと銀貨1枚ほどですね」


 俺は懐から銀貨を取り出す。昨日の指導料2枚のうちの一部だった。有無を言わさず銀貨を受付の人に押し付ける。とまどった顔をしていたが、急に笑顔になって、その銀貨をしまった。

「ありがとうございます。ご寸志かたじけなく頂戴します」


 しきりと恐縮するティアナを連れて道を歩いているとぱったりとムーアに出会った。先日、ギルド長と一緒に和解の手打ちをして以来だ。

「ど、どうも。ハリスさん」

「ああ」


 ムーアはすっかり委縮していた。冒険者をしていた者としては引退した身の上であっても、ギルド長は頭の上がらない存在だ。そのギルド長であるサマードから厳しい口調で俺に罪を擦り付けようとしたと断罪されては自分の立場が分からない方がおかしい。


 何か口を開こうとしていたが、俺は会釈をしてティアナを連れてさっさと通り過ぎる。ムーアはもう障害ではないと判断していた。ただの貸家業の親父が町の実力者を敵に回す選択をするとは思えない。それなりの生活基盤をもっているだけになおさらだ。その後町を出たゾーイの方が問題だろう。若い分、感情のままに行動する危険がある。


 家に帰ってみると買い物かごはきれいに片付けてあった。汚れた食材は洗って、割れた卵の中身もできる限り回収してボウルに入れてあると言う。さすがは節約が身についた主婦といったところか。ティアナはもう平気だと言って食事の支度を始め、二人も手伝い始めた。俺の居場所はなさそうなのでソファでグダグダする。


 昼食後にティアナが洗濯物の片づけを始めたのを機に話の続きをする。

「あの子ほどは料理は上手ではありませんが、下ごしらえとか、お手伝いならできます。家事もひととおりは出来ますから、ここに置いてもらえませんか? お願いします」

 ミーシャが熱を込めて言った。


 俺はジーナに質問する。

「部屋を借りていた時の家賃は月に銀貨3枚ってとこか?」

「大体はそんなところね」

 俺は腕組みをして考えた。


 あまり甘い顔をすることもできない。分不相応に広い家だったし、まだ使っていない空き部屋はある。とは言ってタダで住まわせるということをしていたらキリがない。話を聞いて似たような境遇の者が次から次へとやってくるかもしれない。全員を住まわせるなんて無理だ。


「なあ。一つ聞いていいか。この俺のところに住むということは世間的にはどう見えるか、その覚悟はあるのか? 俺の評判は聞いたことあるんだろ? だから、ギルドでここへ来るのをためらった。昔一緒に住んでいた女が散々言いふらしていった話さ。金と暴力で女を支配するロクデナシってな」


 別に俺は声を荒らげたりはしなかった。その時の心の傷を思いだすと今でも叫びだしたくなることがあることを考えると奇跡的に冷静な対応だ。ほんの一時期、一緒に住んでいたアイシャ。偶然ふらりと立ち寄ったゼークトがあの女だけはやめておけと言った相手。しかし、その忠告は俺には届かなかった。


 いい女だった。容姿も良く、体の相性もばっちりだった。こんな女がなぜ俺と一緒に居るのかと何度も首をひねった。当時はまだ遺産が残っていたので、アイシャのために景気よく金を使ったものだ。俺に甘い言葉をささやく同じ舌で、外では巧みに俺がいかにひどい男かを吹聴していた。ダンジョンでの怪我の跡も俺に暴力を振るわれたのだと言っていた。


 天使だと思った女が本性を現した時はもう何もかもが手遅れだった。新たにパーティを組んだ戦士と手と手を取り合って出奔した後に残ったのは、あの女が俺名義でこさえた多額の借金と耳を覆いたくなるような俺の悪評だけだった。もう3年ぐらい前のことだろうか? 心のかさぶたがはがれ、血が流れ出すのを感じていた。

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