第41話 もっと役立ちたい

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 目を開けるとご主人様の顔が想像以上に近くにあった。眉間にしわを寄せている。浅い息にはちょっとお酒の匂いが残っていた。昨夜の記憶がよみがえってくる。ソファに寝転ぶご主人様の横の隙間に潜り込んだのだった。今は体の半分近くをご主人様の胸に乗せている。


 はっとして体をずらす。ご主人様の額からしわが消えて、呼吸がゆったりしたものに変わった。私が胸を圧迫して苦しかったんだ。ごめんなさい。このまましばらくこの温もりに浸っていたいけれどそうもいかない。もう夜は明けているし、朝食の支度をしなければ。


 今日は5人分の食事を用意する必要があるので、いつもよりも時間がかかりそうだった。起きようとするがそこで困ってしまう。私はソファの背もたれとご主人様の間にぴったりとはまってしまっていた。下手な動きをしたらご主人様が目を覚ましてしまいそうだった。


 少し面やつれした顔を見ればご主人様に睡眠が必要なのは間違いない。昨夜もうちにやってきたミーシャさんと額を寄せ合って難しそうな話をしていた。私はタック坊やの体を洗っていたので詳しい話は聞けていない。でも、ご主人様もお姉ちゃんも笑ってはいなかった。


 さて、どうしたらいいだろう。ご主人様の体のどこかに手をつけば上半身は起こせそうだ。だけど、それはダメだ。じりじりと体を回転させて背もたれの方を向く。背もたれに右手をかけて力を込める。なんとか上半身を起こして、それから隙間に立ち上がることができた。


 そろりそろりとご主人様の足のある方に移動していき、ひじ掛けを乗り越えて床に下りる。お行儀が悪いけれど、ご主人様をまたぐよりはいいだろう。声を出さないようにして思い切り伸びをする。やっぱりベッドと違って体のあちこちが強張っていた。床に直に寝ていた頃を思い返せば、それでも恵まれているはずなのに、体は楽なことにすっかり慣れてしまっている。


 イヤリングをつけた。慣れたのでもう鏡が無くても平気だ。もう一度ご主人様の様子を伺うとゆっくりと息をして寝ている。床に落ちていたマントをそっとご主人様にかけ、足音を立てないように台所へ行った。台所の隅からニックスがのそりと起き上がってくる。撫でてやると尻尾をパタパタ振っていた。


 やっぱり台所は寒い。すっかり冷え切っている。藁の中に潜り込んでニックスを抱きしめて寝ればそれほど寒くはないのかもしれないけれど、石の床から這いあがってくる冷たさは相当厳しいだろう。裏口から外に出て、井戸から水をくむ。手と顔を洗ったらすっきりした。さあ、今日も頑張らなくっちゃ。


 腕まくりをしてエプロンをつける。灰の中のうずみ火をひかき棒で取り出し、藁から薪へと火を移した。今日はソテーしたキノコを入れた穀物粥にしよう。この間、怖い思いをして採ってきたキノコからはいい味が出る。ジュージューと音を立てるフライパンからはいい匂いが漂い始めた。


 背後の気配に振り返るとご主人様が台所の入口に立っている。少し長めの髪の毛が絡み合ってまるで鳥の巣のようだ。

「お早うございます」

「ああ。お早う。今朝はあのキノコか?」

「はい。もう少しでできるのでお待ちください」


 外に出て戻ってきたご主人様の髪の毛は落ち着いていた。そろそろ切った方がいいんじゃないかしら。起きてきた他の人も一緒に朝の食卓を囲む。男の子が1人いるだけでとても賑やかだ。私も注意するのについつい大きな声を出してしまう。でも、タックは騒々しいけど悪い子じゃない。


 朝食を食べ終わるとご主人様たちは額を寄せ合ってまた話を始めた。私は食器を片付け、ご主人様のベッドのシーツを外して新しいものをセットする。外したシーツを他のものと一緒に洗うことにした。今日は気温が高くないが穏やかに晴れて微風もあり絶好の洗濯日和だ。物干しざおにきれいになったものが並ぶ様子を見ると気分がいい。


 中に戻ってみるとまだ話は続いていた。

「あの。お話し中すいません。買い物に行ってきますが、お食事は5人分でいいですか?」

 ご主人様は天井を見上げてから返事をする。

「そうだな。とりあえず昼は5人分だ」


 外に出て掃除をしていたオーディさんとちょっと立ち話をする。

「教えて頂いた料理、ご主人様にも喜んで貰えました。ありがとうございます」

「いやいや。役に立てたようで良かった。それで、子供の声がするが?」

「ちょっとお客さんが来ているんです。ご迷惑でした?」


「いんや。人数が増えて大変じゃろ」

「それだけやりがいがあります」

「そうかい。それじゃあ、また今度新しい料理教えてやろうかの」

「ぜひお願いします」


 食料品店で品物を選ぶ。小さい子だと何を喜ぶだろうか? 迷っていたら卵を見つけた。中にベーコンと野菜をいれてミルクと一緒にふわっと焼いたらいいんじゃないかしら。夕食の食材も選んでお店を出る。

「転ばないようにね」

「はい。気をつけます」


 道々、うちに来たミーシャさん達のことを考える。ろくにご飯を食べていなかったそうだ。私も経験したから分かる。お腹が空いたらもう死んじゃおうかななんて、変なことを考えちゃうこともある。私の料理で元気になって貰おう。うーん、私のっていうのはちょっと違うかも。この材料代はご主人様が体を張って稼いだものだ。


 ちょっとした家事をするだけで、ベッドに寝られてご飯がちゃんと食べられるというのは恵まれている。私が居なくてもご主人様は困らないけれど、その逆だと私はすぐに大変なことになるに決まっている。何かきちんとお役に立てるといいんだけど私に何ができるかな? お姉ちゃんに相談してみようか?

 

 人の気配がしたと思ったら、どんと突き飛ばされて地面に倒れた。肘とひざがひりひりする。あ、それよりも買い物かごは? 衝撃で離れたところに落ちた籠を覗き込むと卵は全部割れてしまっていた。顔を上げると私と同じくらいの年の身ぎれいにした女の子が顔を歪ませている。走り去りながら憎々し気に叫んだ。

「奴隷のくせに生意気なのよっ!」


 割れた卵が嫌な記憶を呼び覚ます。うっかり卵を割ってしまい、2番目のお父さんにひどくぶたれたんだった。ひりひりとする手足よりもその嫌な思い出の方が私を責めさいなんだ。

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