第20話 泣きたいぐらい

 ♡♡♡


「はーあ」

 私は井戸からくみ上げた桶の水をたらいに移すと深いため息をついた。ご主人様に嫌われてしまったかもしれない。そう思うとまた涙があふれてきて視界がぼんやりとする。


 そんなつもりは無かった。でも、結果的にご主人様を危険にさらすようなことをお願いしてしまった。直接にお願いしたわけじゃない。だけど、私がしたことはほとんど同じことだ。あの時は猫が心配なのと女の子が可哀そうというので、他に何も考えられなかった。


 レンガが落ちて来て、粉々に砕け散ったときのことを思い出すと今でも胸がきゅっとする。あれがご主人様だったらと思うとぞっとした。昨日は自分の身を省みずに解毒薬を他人に譲ったことでご主人様を責めたくせに、別の危ない目に合わせた私は最低だ。


 昨日は他にも、ご主人様に確認せずに勝手にジーナさんを家に招くようなことをしてしまったのに。本当なら出しゃばった真似をするなと叩かれてもおかしくないぐらい無礼なことだ。ご主人様はまったく気にするそぶりは無かったけど。そんなご主人の寛大さに甘えている自分が本当に嫌になる。


 そのご主人様とジーナさんの会話が気になって、昨夜はちっとも針仕事が進まなかった。私の知らない世界のことを仲良さそうに話をしている姿を見て胸がざわついた。解毒薬を譲ったのは単にご主人様の心が広いからだけじゃないのかもしれない。きりっとしてカッコいいジーナさんを気に入っているのだろう。


 私なんて針仕事は下手くそだし、字の読み書きもできないし、ガリガリで男の子みたいだ。その点、ジーナさんは魔法が使えるし、大人の女の人だ。私は足元にも及ばない。そんな凄いジーナさんが私に字を教えてくれるようにご主人様は手配してくださった。神殿から帰るときに子供たちのことを羨ましそうに見ていたのバレていたんだ。


 奴隷に売られる前は、字を習いたいと言っても相手にしてもらえなかったんだっけ。弟や妹たちの世話をして、食事の支度をしたり、掃除をしたりでそんな時間はない。でも、周囲の同年齢の子供たちが村の礼拝所で習っていることが羨ましくて仕方なかった。


 お父さんが生きていたら、通わせてくれたかもしれない。新しいお父さんは無駄だと言い切った。まともに家事もできない女に勉強は必要ないとひどく怒る。それが原因かは分からないけど疎まれて、最後の方は自分が作った食事なのに私はあまり食べさせて貰えなかった。


 あの頃に比べたら、今はとても幸せだ。たらいの水面に映る顔の頬に傷はまったく見えない。鏡の前で目を凝らせばうっすらとは分かるのだけど、ほとんど消えている。そして、耳の下に揺れる青い宝石のイヤリング。まるで、どこかのお嬢様のように見えた。こんな素敵なものを持っていた子は村長さんのところの娘さんだけだったと思う。


「おい。茶を入れてくれ」

 振り返ると裏の戸口のところから、ご主人様が顔を出していた。口調や表情からは相変わらず感情が読めない。

「はい。すぐにお入れします」

 涙を袖でぬぐうと台所に入って行き、お湯を沸かす。


 ポットに茶葉を入れてお湯を注ぐと、カップと一緒に居間のテーブルまで運んでいく。テーブルの上には見慣れない箱が置いてあった。ご主人様の前にお茶をご用意して下がろうとする。

「もう一つカップを持ってくるんだ」


 お替りを用意していけということだと理解して、2杯目をご主人様の前に置いた。

「違う。それはお前の分だ。そこへ座れ」

 ああ。お叱りを受けるんだ。まあ、それだけのことをしたんだから仕方ない。お小言の後に鞭で打たれるのかな……。神妙に向かいの席に腰を下ろす。


 ご主人様の手が伸びて、見たことのない箱のふたを開ける。中には熟した麦の穂の色をしたものが並んでいた。

「猫を助けた家から届けられた菓子だ。お前も食べるがいい。さっき、先に一つつまんだがなかなか旨かったぞ」


 ご主人様は箱の中から一つ取り上げると口に運んだ。さくりとかじり、しばらく口を動かしてからお茶を飲む。

「これだけあるんだ。遠慮するな」

 美味しそうな香りについつい手を伸ばしてしまう。


 口に含むとほろりと崩れて、バターの香りが広がった。次いで優しい甘さを感じて、最後にちょっとだけ塩味が残る。今までにこんなものを食べたことがなかった。これがお菓子というものなのか。とても美味しいが、お菓子は崩れやすくて、ポロポロとテーブルクロスの上に欠片が落ちてしまう。


 ああ。恥ずかしい。行儀が悪いと思われてしまう。目の前に散らばる欠片から視線を上げるとご主人様がやっぱり散らばる欠片を拾って口に入れたところだった。私の視線に気が付くとばつが悪そうな顔をする。

「これだけ旨い物をもったいないだろ?」


 少し照れたような顔をして、ご主人様は欠片拾いを再開した。私は笑いそうになるのをぐっとこらえると、自分がこぼしてしまったお菓子の一部を拾って口に入れる。小さく崩れていてもやっぱり美味しい。いい香りと甘さに幸せな気分になった。


「気に入ったか?」

「はい。美味しいです。初めて食べました」

「そうか。だったら、好きなだけ食べろ」

「でも、ご主人様へのお礼です」


「お前があんなこと言いださなければ俺は助けちゃいないだろう」

「余計なことを言って、本当にごめんなさい」

「何を謝る必要があるんだ」

「ご主人様を危ない目に合わせました。昨日から色々と勝手なことばかり。本当は怒ってますよね?」


 ご主人様はカップを取り上げて一口飲んだ。

「別に怒っちゃいないさ。むしろ、結構おもしろいと思ってる」

「おもしろいですか?」

「ああ。さっきまではあれだけ沈んでたのに、この菓子にすっかり夢中じゃないか」


 2つ目のお菓子に手を伸ばしかけていた手を止める。あああ。ご主人様が一つしか召し上がってないのに、私が先に手を出すなんて……。頬が熱い。ご主人様はふふっと笑うと、私の手にもう一つお菓子を乗せてくれて席を立った。

「さっきも言ったろ。遠慮しなくていい。ちょっと出かけてくる。昼には戻るよ」


 そのあと、さらに3つも食べちゃった。どうしよう……。

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