第19話 猫と煙は
その後、ジーナと細々したことを取り決めた。食費は実費を負担してもらうことにする。ジーナに空き部屋の一つを提供し、居間に置いてあったソファをその部屋に運ぶ。当面はソファで寝てもらうしかない。私物を片付けるとジーナは生徒達に転居を知らせると言って出かけて行った。
俺はティアナを連れて文字の練習をするのに必要な蝋板を買いに行く。子供用の可愛らしい蝋板を手に入れてティアナはご機嫌だ。店を出ると神殿に付属する尖塔のところに人だかりができていた。みんなで尖塔を見上げて何かわいわいとやっており、時折、悲鳴やどよめきが上がる。
家に帰ろうとするとティアナが俺の袖を引いた。
「あの。ご主人様。何があったのか見に行きませんか?」
「ん? 意外と物見高いんだな」
「何か困りごとだと思うんです。あんな声出してますし」
あんなのは放っておいて帰るぞ、と言いたいところだが、きょときょとと視線を送って気にしているティアナが動きそうになかった。
「ちょっと様子を見るだけだぞ」
「はい」
駆け出していくティアナの後ろ姿からすると様子を見るだけで済みそうにない。ふうっと一つ息を吐いて俺もゆっくりと後を追いかける。近づいてみると大した話ではなかった。飼っている子猫が神殿の尖塔のてっぺん近くまで登って下りられなくなったらしい。見晴らし台の窓のところで盛んに鳴いている。年の頃は6つか7つぐらいの小ぎれいな格好をした女の子が涙をポロポロこぼしていた。
レンガ積みの尖塔の高さは神殿の3倍以上ある。壮麗な柱が立ち並ぶ神殿自体が周囲の家を睥睨していた。つまり、尖塔は相当の高さがある。息があれば神殿のすぐ近くなので治療してもらえるかもしれないが、落ちたら割と即死の可能性が高そうだ。
「どうした? まだ鍵は見つからないのか?」
「それが、しばらく開けてないものでどこに保管してあるのか……」
頑丈な木の扉をガチャガチャやっている。ぶち破ろうにも鉄板で縁を補強されており難しそうだ。下の方に地面との隙間が空いているから、子猫はここから潜り込んだと見える。
「ご主人様」
側に寄ってきたティアナが俺を見上げる。あのなあ、神殿の鍵をみんなの前で開けたりしたら、今後なにかあったら俺が疑われるんだぜ。俺の表情に拒絶を見て取ったのか、ティアナはとんでもないことを言いだした。
「助けに行って来ていいでしょうか?」
「はあ?」
「私、木登りは得意だったんです。ご主人様のお陰でこんなに元気になりましたし、足も良くなったので登れる気がします」
「いや。お前、どこの世界にこんな高い木があるんだよ? それに、そんな恰好で登ったら下から丸見えだぞ」
ひざ下までの貫頭衣の腰にひもを巻いただけの姿だ。俺の指摘にティアナははっとすると頬を赤くする。俺には目の前で下着を替えろ、と言っていたが、自分のが見えるのは恥ずかしいらしい。まあ、そうじゃないと困るんだが。
「でも……」
未練がましく上を見上げるティアナ。
「落ちたら死ぬぞ。ダメったらダメ」
猫が風にでもあおられたか、おおっというどよめきがおきる。
「仕方ねえな。分かったよ。俺が行く」
「あ。そんなつもりじゃ……」
肩から下げた袋から酒を取り出してティアナに持たせた。尖塔に近づくと周囲の視線を浴びながらレンガに手をかける。
ひょいひょいと登っていく。建ててから年数が経っている尖塔はあちこちガタがきていた。指の先をかける場所さえあれば登ることはできるのだが、たまにレンガがずるっと外れるのが心臓に悪い。下に向けて怒鳴る。
「レンガが落ちるから離れてろ!」
何度か肝を冷やしながら、ようやく尖塔のてっぺん近くの見晴らし台の窓にたどりつく。窓のへりにつかまって少し休んだ。中をのぞくと床の端に落し蓋が見えている。何かのはずみで閉まって下りれなくなったのだろう。すっかり怯えて大人しくなっていた子猫を抱き上げ、袋の中に放り込むと、登りの倍の時間をかけて下まで降りた。
地面にはばらばらに砕けたレンガが散らばっている。皆が拍手する中を歩いていき、女の子に白い子猫を渡してやると抱きしめて頬ずりをしていた。
「ありがとうございます」
さすがに子供に手間賃を要求するわけにはいかず女の子に背を向ける。
ティアナが少し青白い顔をしてやってきた。
「ご主人様。申し訳ありませんでした」
ティアナの視線の先にはバラバラになったレンガが散らばっていた。一つ間違えばあそこで俺が血のりになっていたかもしれないと思っているのだろう。まあ、ありえないんだけどな。
ダンジョンでは罠を解除するためにもっと滑らかな壁を登ったり下りたりすることがある。下には強酸性の液体がたまっていることもあるし、上向きに植えられた槍に頭がい骨が刺さってカタカタと音を立てていることもある。それに比べたらレンガの壁なんて楽勝すぎて眠くなるほどだった。
少し登ったら、手首の内側に隠してある手鉤を出してひっかけていたりするので、危険はほぼ無し。むしろ時間をかけるのに気を遣ったぐらいだ。あまり早く簡単に登って見せたりしたら、みんなを不安がらせてしまう。垂直の壁が障害にならない男を警戒するなという方が無理だろう。
そういうわけでティアナが恐縮する理由はあまりない。それなのに見るからに意気消沈して、俯き加減でとぼとぼ歩いている姿は可哀そうだった。しかし、実は演技だったと白状するわけにもいかないし、どうやって機嫌を直させるか悩ましい。うーん、どうしたもんかな。
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