エピローグ

 事件が終結してはや二日が経過した。

 一人の研究者によって計画され、密漁者の協力のもとに実現された研究。その過程で何匹ものサーペントを街へ引き寄せることとなり、相応の傷跡を残したそれは、看過できない罪として裁きの対象となった。

 主犯であるオクトノウトは憲兵に捕らえられた。この世界での刑法がどういった仕組みは知らないが、重い罰を受けることになるだろう。如何なる理由があろうとも、彼は禁忌を犯したのだから。

 ラペルも同様だ。捕縛され連れて行かれる彼は、ティーネを妬ましそうに見つめていた。


 そして、藍凪も。


「はふぅ―」


 高いアーチをくぐったところで、詰まりに詰まった息を吐き出す。一日中押し込められた狭い場所から、やっと外界に出て空気を吸えた心地だった。

 ウィルディの街から外れた高台にある監獄。見晴らしは良いが、しばらく近寄りたくない。


 二日前、オクトノウトたちを憲兵へ引き渡した時のことだ。

 憲兵は藍凪にも身柄の拘束を言い渡した。藍凪もまた、オクトノウトに自身のマナを提供し、形だけであっても研究に協力したからだ。

 オクトノウトが行った人工生命の創出は禁術だ。事が事なだけに、それに協力したとされる者には疑いを向けざるをえないのだろう。

 不幸にして、藍凪にも言い逃れはできないのだった。なにしろ研究内容を知ったうえで、自ら望んでオクトノウトに着いて行ったのだから。それが一時的な言いくるめだとしても。


 だが、いくつかの働きかけがあり、藍凪は自由になった。


「ん……おーい、シャーハーン」


 監獄の前で佇む大きな姿に手を振る。


「おう、無事だったカ! 心配したゼ!」

「ありがとう。でも色々聞かれてうんざり。疲れちゃった」


 一応は客としての扱いだったので、牢屋に寝泊まりすることはなかった。それでも慣れない部屋で、知らないヒトから質問攻めに遭う精神的な疲労は耐えがたい。きっちりとした空気感に緊張してしまうのだ。

 藍凪自身のことを根ほり葉ほり聞かれ、素直に答えるしかなかった。


「地上から来たとか、源の碧しおかぜを使えるとか、話しちゃったけど良かったのかな?」


 問われるままに答えてしまったことが、今になって心配になってきた。


「どこかの組織に送られたり、バラバラにされて調べられたり、改造されたりとか……」

「お前がいた地上ってのは、すんげえ怖い場所なんだナ。ちょっと引いたゼ」


 シャーハンは深刻な面持ちで言う。彼の頭の中では、悪の組織が蔓延るディストピアな地上世界が形成されていることだろう。そんな世界は藍凪も知らないが。


「あはは、冗談。でも本当に何も起きないのかな?」

「まあ大丈夫だロ。なるようになレ! またピンチの時は助けてやル!」

「むちゃくちゃだ……でも頼りにしてるよ」


 先の戦いで見事な銛投げを披露してくれたシャーハンだ。きっとその言葉に嘘はない。

 また怪しい研究者の目に留まるとしても、助けてくれる仲間がここにいる。


「……アクアマリン、か」


 藍凪は呟く。道理を捻じ曲げる、その宝石の名前を。

 あの宝石は砕いてしまった。もう誰の手に渡ることもなく、悪用されることもないだろう。


「オクトノウトはいつの間にかそれを持ってたらしいナ。思えばいつの日からか、あいつの目には何かが宿っていたような気がすル。何か怪しい研究をしているってのは、俺も気付いていタ」

「それほどのことなんだよ。大切な誰かを失うって」

「……さっきあいつと話をしたゼ」


 ここにシャーハンがいるのは面会のためか。今さらながらに彼と出会った理由を察する。


「どんな話?」

「いろいろ話しタ。今日までのこト。何をしていたか、とカ。あいつ、清々しい顔をしてたゼ。……吹けば飛んじまう感じのナ。すっかり燃え尽きたって感じダ。もう何もしたくねえっテ」


 そっか、と相槌。

 何となく、そんな気はしていた。

 あの研究はオクトノウトの生涯をかけて行われたものだ。それが終結し、何も得られないと判明した今、再び新たな何かを始めるというのはあまりに残酷だ。

 彼は人生の残余を、どう過ごすというのだろう。


「……また、面会に来てやらんとナ。あの中はヒマそうダ」


 珍しく、やりきれないような声をシャーハンは漏らす。


 娘を蘇生しようとしたオクトノウトの研究内容は重要機密として、民衆への情報開示には蓋がされるらしい。全容を知るのは、事件に関わったヒトのみ。

 世に流出してしまった実験体も、目撃したという声はもうない。存在も噂もたちまちのうちに立ち消え、痕跡を残すこともないだろう。

 そうして異常は正常へと矯正される。


 研究者への憂いがよぎった藍凪の頭に、大きな手のひらが置かれた。


「アイナは気にすんナ! お前は巻き込まれただけなんだカラ」

「うん……」

「お前はお前のこれからを見据えて生きればいイ。ほら、わかったら元気よく笑うんダ! ハーッハッハッハッハ!」

「……は、はーっはっはっは!」


 高台の上、近い宙に、二人の声が響く。

 シャーハンは、実は誰よりも、落ちこむヒトの心に敏感なのかもしれない。


「うん。ありがとね」


 その時、アーチをくぐり抜ける影があった。ティーネだ。


「ティーネ! 何してたの?」

「少しお話を伺っていました。なんでもアイナは身元の知れない人物だから、どんな危険な考えを持っているか知れたものではない。一緒に居る時は気をつけた方がいいと」

「何それ、すっごい失礼!」

「ですよね。そんなことは私が一番分かっているというのに」

「え、ボクってずっと危険物扱いだったの?」


 どうですかねー、とティーネは素知らぬ顔。


「ティーネに礼言っといた方がいいゼ。街中を駆け回って、色んなところにアイナの釈放を掛け合ってたんだかラ」


 シャーハンの言葉に、ティーネが大きく胸を張り出した。


「そうですね。手間をかけたのですから、感謝して欲しいものです!」

「人徳と実績のあるティーネだからこそだナ! でなきゃ素直に話も聞かれねえゼ」

「そう言われると、どうも……私なんてまだまだです」


 途端に自信なく肩をすぼめるティーネ。押しに弱い彼女らしい。


「かなり必死に走り回ってたらしいゼ。余程、アイナと会いたかったんだろうナ」

「ちょ、シャーハンさん!? あまりそういうことは言わないで……」


 ティーネが焦ったように身を乗り出す。シャーハンは彼女の感情に気づいておらず、頭の上に疑問符を浮かべるばかりだ。


「えっと、それはありがとう」

「あ、はい……」


 取りあえず礼を言った後、藍凪はしたり顔で、赤くなったティーネの顔を覗き込んだ。


「ふふーん? そんなに必死になってくれてたんだ? ボクは幸せ者だなぁ」

「バカ……いいから帰りますよ」


 そう言ってティーネは背中を向けて行ってしまう。

 追いかける前に、侘びしげにしているシャーハンにも声をかける。


「シャーハンも帰ろうよ」


 だが彼は首を横に振り、高台の下に広がる街を眺めやりつつ言う。


「もう少しここにいたイ」

「そっか」


 シャーハンを尻目に見つつ、じゃあねと挨拶してからティーネを追いかける。

 彼は彼で、整理をつける時間が必要なのだろう。


「そういえばアイナ、監獄の中では随分と大人しかったようですね」

「だって寂しかったんだもん……ていうか、そんな話まで聞いたんだ」

「意外です。てっきりどこに行っても変わらず小うるさいと思っていました」

「案外繊細なんだよ、ボク。枕が変わると寝れないタイプなんだ」


 それからは、しばらく無言で歩いた。

 並んで歩く道中、二人して、なんとなく気恥ずかしくて。

 緩やかなサンゴ階段から見下ろす街が、段々と黄昏に暮れゆく。じきに地上で日が落ちる。


「――ねえ、ボクお腹空いた」


 沈黙を破って、藍凪が抱えた空腹を訴える。

 そういえば長い間、満たされるような食事をとっていないことを思い出して。


「私もです」

「帰ったらご飯食べよ」

「そうですね。じゃあレオナさんの店で――」

「ボク、思うんだよ。そろそろティーネの手料理を食べてもいいんじゃないかって」


 それは、自分が初めてティーネの家で朝を迎えた時にした提案。

 あの時は、すぐに自分を追い出すつもりだった彼女に、無下にされてしまった。


「……そんなこと、よく憶えていましたね」


 まだ諦めていなかったのかとティーネは眉を曲げて目を細める。端正な顔つきが呆れた風を装った後、


「いいですよ。作ってあげます。……と言っても、あまり良い味は保証できませんが」

「本当に!?」


 期待はしないつもりで言ったのだ。だから驚いてティーネに振り返った。

 その視線をかわすように、彼女は先に行ってしまう。


 通り過ぎた彼女の表情に、綻び開いた花を見る。


 きっと、どんな味でも一緒なら嬉しい。そうに決まっている。

 ああ、楽しみだ。


 すっかり減ってしまったお腹を満たすため、藍凪は愛しい背中を追いかけた。

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