宙に花を 4

 必死に目を凝らす藍凪を見て、ティーネが首を傾げる。


「視えるって、一体何のことですか……?」


 彼女は知らなかった。

 流れを視る魔眼のこと。

 そして藍凪が辿った、この世界以前の顛末てんまつも、まだ。

 詳しく話して聞かせるだけの時間はないけれど。


「ねえ、ボクをあそこまで連れて行ってよ」


 遠く、高い場所を指さす。一人では決して行けない、宙の上。


「正気ですか!?」

「もっと近くで見たいんだよ。そしたら視えると思うから」


 彼女の目を見て訴える。彼女もまた自分の目を覗いて、見つめ合う。

 正面から見据える目が、どれほどの本音を語ってくれることだろう。なにしろ自分は嘘つきだから。

 正面から見据えられる目は、きっと本音を探り当ててくれるだろう。なにしろ彼女は正直者だから。


「……ああもうっ! どうしようもない自殺志願者です……!」


 やけくそとばかりにティーネは銃を背中に負って、藍凪の脇から白い腕を回して固定した。

 彼女は何も知らないまま、信じてくれた。

 実際、荒れ狂う嵐に突っ込むようなものだから、自殺と同じかもしれない。


 でも、今は二人だ。


「キミがまた助けてくれるでしょ?」

「今度はすぐ見つけられるよう、目印でも付けといてくださいね!」


 サンゴを踏みつけ、二人は飛び立つ。

 眼下の園は、暴れるムーナの触手によって崩壊しつつある。そこから離れて上を目指せば、やがて嵐流の根源が迫る。

 近づくことでより激しくなった触手の嵐。四方八方に振るわれる大木のような彼女の一部は視界のほとんどを埋め尽くし、命の入り込む余地もない。

 触手だけではない。体表の至る場所から放出される小粒のマナ塊までもが、こちらの進行を妨げる。


 それでもティーネは、藍凪という重りを運びながら、隙間を縫うように泳いで避けていた。泳ぎの上手さはマナ感覚の鋭さに直結している。類まれなるマナ操作の才能を持つティーネにとり、海という遊び場で誰かに引けをとることはない。

 上方と下方、挟みこむように迫った触手の隙間を、閉じる前に滑り込む。さらに沈み込んで前方からの触手を頭の後ろへ流す。


かための流紋――――塩の柱」


 素早く刻んだ術式で飛来したマナ塊を防御。使い捨てた塩の柱に目もくれず上昇し、ムーナと付かず離れずの距離を保つ。

 異形の怪物に臆することなく周囲を旋回し続けた。


 藍凪はその間、触手もマナ塊もティーネすらも意識の外に置き、じっと流れの糸を見つめた。自分から伸びてムーナへと続く、それだけを。

 まだ半透明で、乗りつけるには頼りない。


「もっと近づいて!」

「これ、以上は、さすがに……!」


 苦心を漏らすティーネ。彼女とてこれ以上に激しい嵐はさすがに荷が重すぎる。それでも藍凪を信じればこそ、限界を超えてでも近寄ろうとしていた。

 異形の生物は、そのヒレを伸ばされれば届く距離。


 その時だ。ぐるりとこちらを向いた口から、魔力放出の光が覗いた。


「まず――――」


 ティーネが反転し全力で回避をしようと試みるが、タイミング的に避けきれない。


 あらゆる物質を破壊するためだけのマナ塊。今にも溢れ、滴り、吐き出されんとする絶望的な光量。

 意味するところの死。終わり。

 ゲームオーバー。


 藍凪はあまりの青白さに目を焦がす。白い闇に視界を焼かれる。

 埋めつくされた視界の中に、あの子の影を見た気がした。

 こんなところで出会うはずがない。だからその姿も、声も、妄想なのだ。

 涙が出るくらいに。


 ――もう迷うことはないよね。


 それは走馬燈か。最期の幻覚か。どちらも違う。

 こんな言葉をかけてくれる彼女が、最期の景色なわけがない。


 ――頑張れ、藍凪ちゃん。私のヒーロー……。


 突如として青白いマナ塊が、藍凪のすぐ右側へ流れた。藍凪の足先をちりちりと炙りながらも、直撃することはなく。


 一体何があったというのか。

 上げた視界に、ムーナの眼球が潰れている様子を見た。しかしティーネが潰したものは既に回復しているはず。

 となると誰かが、新しく目を潰して、ムーナの気を逸らしたということ。

 そんなこと、誰が――


「フハハハハハ! 絶体絶命のピンチは、俺の最高の味方ダ!」


 そのよく知った大きな声は、遠くから響いた。

 情熱のサメ男を、見えないけれど、傍に感じる。

 彼が投げた銛がムーナの目玉に突き刺さっている。そこを回復しようにも、残った異物が再生を妨げている。


 そして自身の死に触れた藍凪は、冷えびえとした思考を感じた。


 自己が静まるごとに、周囲の雑音はよく聞こえる。

 空間を揺らす波。源の青しおみずを掻きまわす現象の数々。生命の海に息づく鼓動たち。

 静まって、静まって、自分がなくなる代わりに、他のもので満たされていって。

 心はなだらかに。波が収まり、訪れる、凪の時。


 眼は、その流れをはっきりと捉えた。


「視えた……! ティーネ!」


 終わりへと流れゆく道筋。運命の奔流を、その眼に映し出す。

 強大な相手に、視える流れはただの一つ。

 けれどその一つが、何よりも心強い勝利の証。


「今からボクが指さす方向に真っすぐ行って! その先に何があっても進み続けて!」

「了解っ!」


 何度目かの無茶を、今さらティーネは拒まない。本当にやけくそなのかもしれなかった。だがここまで来れば、残っているのは勢いだけだ。

 藍凪が指さす方へ、躊躇もなくティーネは突っ込んだ。


 この世界は源の青しおみずで満ちている。

 生物の一挙一動ごとに揺らぎ、音の発生に振動し、流紋術式の起動で潮流をつくるもの。如何なる動作も、『波』として空間へと事細かに刻まれる。

 それは事象の記録であり、同時に、未来の結果を手繰り寄せる痕跡ともなる。


 藍凪が視る流れは、ひどく複雑な波のパターンを無意識下に読み取り、自身が辿るべき道筋として可視化されたもの。因果の具現化だ。

 流れの中には起こるべき必然と、その先に決められた結末が存在するのみ。


 藍凪たちが乗り込んだ流れはひどい急流で、立ち止まる暇などなかった。

 滅茶苦茶な泳ぎにも見えるそれは、しかし驚くべき精度で触手やマナ塊をかわす。示し合わせたような紙一重。むしろ触手の方から避けているようでもあった。

 二人の道筋はムーナの周囲を旋回している。巨大な怪物を攪乱かくらんして、体表に触れるほどに近づいては離れ、また近づく。隙を見せつつ、そこに叩き込まれる触手はひらりと避けて。


 波を読み、流れと詠む。必定に沿ったこの遊泳は、二人で踊るワルツのように。


 れたムーナは、途端に触手の攻撃を緩めた。嵐の中心、彼女は手のヒレで頭を抱えるようにした。

 すると彼女の体が、アクアマリンに詰め込まれたマナをみなぎらせて光を帯びる。真ん中から外側へ、徐々に行き渡る。


 それは紛れもなく凶兆の光だ。

 充ちて、充ちて、いっぱいになってはち切れんばかりの、水風船。


 爆発寸前の爆弾を前にしても、藍凪の指さす方向はムーナの周囲であり続けた。

 待っているのだ。最大の攻撃に伴う、最長の隙を。

 流れは終盤。運命は収束しつつある。


 その、最後の要因。


「ム…………ナ……」


 か細い声が、巨大サンゴの下より発せられた。


「きみ……は…………くが……しあわ……せに……」


 それはうわごとだ。研究者は未だ目覚めてはおらず、夢に浸り続けているのだから。

 だが、その決意を表明するようなオクトノウトの声が、ムーナの魂へ呼びかけた。


「アァ……? ゥア…………ア……?」


 彼女は眼下に横たわる肉親を認めた。戸惑うような声は、ただの一片残った理性であり、最後の砦なのかもしれない。このままでは確実に巻き込むだろうという。

 彼が誰なのか憶えてはいない。憶えてはいないはずなのに。

 光がかき消え霧散する。


「行こう!」


 藍凪が指し示すのはムーナが開いた口の中。肉の中に隠されたアクアマリン。

 その進路をティーネが違えることはない。彼女が目に宿すのは必中の魔眼。自身をも弾として、運命の収束点へと撃ちこむ。


 運命を視る藍凪と、必中を為すティーネ。

 必滅の一矢がここに成る。


 二人が宙に刻んだ流星の軌跡は、緑青と深紅の螺旋模様。

 藍凪が風の刃を発現する。ティーネが魔力光のブレードを展開する。


 一人では届かなかった場所へ。


 飛び込んだ暗闇の中、二つの刃が同じ場所を貫く。


「「いっっっけえええええええええぇぇぇぇぇぇ!!!!」」


 刃の先とアクアマリンは僅かに拮抗する。やがて宝石の表面に亀裂が入ると崩壊を止めることはできず、その内部に蓄えこんだ源の青しおみずを放出し、砕けた。

 アクアマリンの崩壊は海を揺るがす波となって、海に生きる全ての命を振り向かせた。


 中心に、花が咲く。




 宝石から漏れ出た青白い光が、宙に花開いて飾り立てる。

 その眩しさにオクトノウトは目を覚まし、どうやら自身の夢が砕けたらしいと悟った。

 巨大血色サンゴの上で、光に飲まれて形を崩していく娘が見える。

 亜麻色の髪も、塵となって。


「ムーナ……。幸せに、できなくて、ごめんよ……ごめんよ……」


 彼は何度も謝りながら、涙は流れるままにして、終わりの時まで彼女を見上げ続けた。

 喪失を取り消すことはできず、言葉を交わすこともままならないうちに、再びの別れ。


「手を、繋ぎたかったんだ」


 片方だけ残った腕を、宙へ伸ばす。


 自分の声は、一度でも娘に届いただろうか。

 後悔ばかりを胸に抱き、それでも片時たりと目を逸らさぬよう。

 二度目の彼岸を、紅の園で見送った。

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