宙に花を 1

 蒔いた種は回収すべきだと思った。今さらだとしても、せめて取り返しがつかなくなる前に。

 藍凪の手助けがなければ、オクトノウトの研究は完成を見なかった。怪物が生まれることも、ムーナを苦しめることもなかったのだ。

 荒れ果てた研究施設に立って、藍凪は自分が果たすべき償いについて考えていた。


「アイナが地上から持ち込んだ源の碧しおかぜが、元々は存在の不安定だった生命に強度を与えたと。そこにアクアマリンという宝石の力も加わって、死から逃れうる生物が誕生した……」


 一通りの説明を聞いたティーネはすぐに理解して頷く。ある程度の調べはついていたらしい。

 オクトノウトの研究は、中層メソウを取り締まる法の禁止事項に抵触する。ヒトの手で生命を創るなどもってのほか。密漁に関わったことの罪も重い。

 彼の為したことは、ヒトの規範に照らせば許されることではなかった。これからじっくりと暴かれ、捕らえられ、余すところなく裁かれるのだろう。

 その前に、あの化け物だけは何とかしなければならない。


「ムーナはきっと成長し続けているよ。目に入るもの全部を食べながら、死が彼女に追いつかなくなるまで」


 見上げるほどの穴が空いた研究施設の壁は、そこをムーナが喰い破って出ていったということだろう。内側から覗きながら藍凪は言った。


「だとすれば、放置すると厄介になるかもしれませんね」

「今なら跡を追うのも難しくないと思う。ほら」


 藍凪が外に向かって指さした先には、壁に空いた穴から続く破壊の跡。

 植物が千切られ、岩肌が抉れ、魚やイカが体を削られ宙で絶命している。そこをムーナが通り、暴れ喰らっていったのだ。

 目に付くものは何でも。あまりに必死な痕跡は、彼女の生きんとする意志なのか。


「痛々しい、ですね。こうまでしなければ生きられないなんて。オクトノウトさんの子供には、同情します」

「ボクは少しだけ分かるよ。ボクとムーナは、似ている」


 藍凪はムーナの必死な気持ちに共感を覚える。

 死ぬのは怖い。そんな当然の事実を肌身に味わった同士。

 自分と彼女との間に違いなどないと切に思う。自分は運がよかっただけだ。


「それでも、ムーナは終わらせるべきだ。彼女は多くのものを傷つけてしまうから」

「私はこれから追いかけます」

「ボクも行くよ」

「……何となくそう言う気はしていましたが。本気ですか?」

「ほんきほんき。ちょー本気」


 半分はおどけて言った藍凪を、ティーネはむすっとして睨む。


「……本気だよ」


 肩をすぼめて藍凪は言った。


「責任とか義務とかじゃないけど、ボクは行かなきゃいけない気がする。これはそうだね……役割みたいなものだと思うんだ」

「役割?」

「ボクができるから、ボクが行くんだ」


 多分、誰よりも正しく、彼女に終わりを教えられる。

 きっとこの眼は、そのための。


 ティーネは諦めるように息を吐くと、腰のあたりに何かを探す手つきをした。


「……分かりました。――これを」


 彼女が腰帯ごと手渡したのは、短い棒状の金属機器。持ち手と思われる部分には、拳を保護する枠がつけられている。

 受け取って眺めても、それはどうやって使うものなのか不明。

 穴が空いているので何かを撃ち出すことができそうだが、引き金はついていない。それ自体は剣の柄に見えるが、肝心の刃が見当たらない。さほど重くはないので邪魔にはならないが。


「何、コレ?」

「シャーハンさんがあなたに、と。潮流武器のようですが……」


 ということは、これが藍凪専用という武器。たった四日でよく造れたものだ。


「ここ数日はそれの作製に熱を入れていたようです。楽しそうでしたよ、あのヒト」


 彼が楽しそうに鉄を打つ様子が脳裏に浮かぶ。

 その間、藍凪は街におらず、戻るという保証もなかった。彼は知っていただろうか。

 いや、知っていても、気にせずにこれを造っていただろうな。

 藍凪はシャーハンの大きな背中に思いを馳せ、彼が造った武器を両手で抱いた。


「では行きましょうか。ぐずぐずしていると、取り返しがつかなくなりますから」

「え、あれ、一緒に行っていいの? てっきり反対されるかと」

「さて、言っても聞きそうにありませんからね。仕方ないです」

「……意外と押しに弱いよね、ティーネって」

「何か?」


 威圧するように声を張るティーネに言葉を飲みこんだ。

 二人は研究施設の外に出て、停めてあった移動用のサメに向かう。

 真っすぐ追えば、あちこちで道草を食っているであろうムーナにも追いつけるだろう。


「向こうにはラペルも一緒にいるはずだよ」

「ああ、彼も協力者なのでしたっけ。同じく捕らえるのなら、ちょうどいいでしょう」


 ティーネは言って、背中に負った〈一条明星ファーストスター〉を撫でた。腰に巻いたポーチに銃弾を詰め込み、二丁拳銃も腰に差した彼女は、いわばフル装備だ。


「そういえばさっきのさ」

「なんです?」

「ボクが地上から来た堕ちビトだってこと、信じてくれたんだね」

「今さらでしょう。疑う理由がもう見つかりません」

「なんか嬉しいな」


 藍凪は笑顔を彼女へ向けて見せた。

 散々に泣き腫らしたばかりで、どこか陰鬱な気持ちは抜けきらない。けれど笑うことはできるようになった。軽快に飛び上がることができた。暗闇に沈んでばかりは、終わりにした。

 ティーネはふっと笑みを浮かべると、サメの背中に飛び乗った。


「ほら、アイナも早く」


 差し伸べられた手を頼りにして同じサメに乗り込む。つるつるとしたサメの身体にあたふたしていると、後ろからティーネが藍凪ごと抱え込むようにして手綱を持った。


「飛ばしていきますよ」


 ティーネが合図を出すと、サメは急速発進して宙を駆ける。

 一連の出来事に終止符を打つ、最後の舞台へと。




「あなたに似ないといいわね」


 僕が狭い書斎から抜け出て、リビングで何かをつまもうと思い棚を漁っていた時、居間にいたミナトはそう言った。


「どうしてだい?」


 長時間を机に向かいきりで頭を焼き切れそうなほど酷使していた僕は、ぼんやりと聞いた。

 彼女はそんな僕の姿を見て、おかしそうに笑った。


「あなたは苦労人だもの。何でも背負い込んでしまう」

「そうかな。やりたいことをやっているだけのつもりだけど」

「そういうところよ、オクト。周りが見えなくなるのは考えもの」


 ミナトは立派に膨れた自分の腹を愛おしい手つきで撫でた。僕と彼女との間の命は、一か月後には生まれて外界の空気に触れることだろう。


「この子には余計なことは考えず、ただ幸せに生きてほしいわ」


 慈愛のこもった目つきで自分の子を見下ろし、そして僕を見る。

 彼女には内緒にしている僕の研究――蘇生の術は、体の弱い彼女のためのものだ。


 はっきり言って、ミナトの寿命は長くない。先天的な病弱体質で、長くは生きられないことは、彼女と出会った当初から分かっていた。

 それを知ってなお彼女と結びつき、子を為すことを決意したのは、彼女への思いを残しておきたかったから。次の世代に繋げることでミナトがいた跡を残す。

 僕と彼女の、愛の立証だ。


 とはいえどうしても彼女自身が生きる道を望んでしまう。だから僕はほとんど惰性的に蘇生の研究などというものを続けている。縋りつくように熱を入れている。

 機材や材料を集めるのも不可能に近く、また到底許される内容でもないから、調べるだけ。諦めをつけるように。


「オクト。無理はしないで」


 だがあるいは、彼女の悲しげな目は、全てを知っているのかもしれない。

 僕がなんと救いようのない自慰行為にふけっているか。その子供じみた逃避のことを。


「分かっているよ」


 それから一か月後にムーナが生まれ、その代償と言わんばかりにミナトの体調が悪化した。


「どうか絶望しないで。私のことは過ぎたものとして、その愛情を、これからはムーナに注ぎ込んであげて」


 失意のどん底にいた僕に、病床のミナトは言った。彼女はやはり知っていたのだ。僕が彼女のことをどれだけ愛していたか。彼女を失った僕が、どれだけ危ういのか。


「絶対に、幸せにしてあげてね」


 希望の言葉に、僕は可能な限りの力強さで返事をした。


「任せてくれ」


 そうしてミナトは息を引き取った。

 右手のアクアマリンは使えないと、握り込んで仕舞った。




 ミナトが亡くなる前。夢の中でのことだった。

 誰もが寝静まった夜に、僕だけが覚醒し、見知らぬ穴倉の中でそれを手にしていた。


「それが何なのか、当然分かっているだろうね」


 問いかけてきた声に答える。


「アクアマリン。僕が探していた深淵だ」


 フードを被った少年はネモの幽霊と名乗った。本当かどうかは確かめようもないが。


「魅入られた者は数知れず、またそれが引き起こす事象には悲劇が伴う。だが、その深い輝きは全てを包みこむが故に、全能だ。きみに――――海を飲み下す覚悟はあるかい?」


 僕は頷いた。


「なら持っていくといい。きみの道行きが、良き流れであることを」


 ネモの幽霊は消え、僕は夢から覚めて家にいた。手にはアクアマリンを握り込んで。

 僕は彼から力を貰った。彼の所有物であったろうアクアマリンは、不可能を可能にする奇跡を秘めている。

 ミナトが死んだ時には、それを使わなかった。


 だが再びの絶望が僕を襲った時、その手にあった力をどうして使わずにいられるだろう。


「ムーナ、君は僕が幸せにする」

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