星を掴む 7

 間違えた。

 間違えた。

 何も変えることはできなかった。

 間違いだった。

 この世界に来たことは間違いだった。

 未だに生きていることそれ自体が、間違いでしかなかった。


 唯一の希望と思っていた蘇生の術は、死者を現世に呼び出してから踏みにじる、最低最悪の拷問だった。灯里をあんな形で生き返らせることはできない。あんな風に苦しめたくはない。

 だからもう終わりにしよう。

 どこにも行けないのだから、潔く暗闇に沈んでしまえば、ずっと楽だ。


 藍凪は時間も距離も忘れ、最初に訪れたオクトノウトの洞窟へと歩いた。そこには彼女が迎えるべき終焉がある。

 小さな火山の熱水噴出孔やチューブワームを始めとする奇妙な生物群を越えて、巨大な岩盤の切れ目へと出る。そこに横たわっているのは、先も見えないほど暗く深い海溝。

 思えば、初めて見た時から、この暗黒に惹かれていたのかもしれない。

 幽鬼の足取りでその淵へと進み、暗闇を見下ろした。そうしてみても、躊躇する気持ちが微塵も湧かなかった。

 死は自分を誘っている。自分もまた死を求めている。それで十分。


「結局ボクは、ここでも生きていられないや」


 虚空へ踏み出し、当然のように落下した。

 岩肌をボロ雑巾のように転がり落ち、岩が突き出た場所で宙へ放り出される。

 涼やかな水流が肌をかすめる。暗闇の中で、それだけが自分の速度の指標となっている。

 あとはもう真っ逆さま。いずれ来る、痛みもない墜落に、備えることもなく、瞼を閉じた。


 ――……ちゃん…………藍凪ちゃん…………。


 目覚めは要らない。夢だけ見られればいい。

 灯里がいる夢。当たり前だった過去。それだけ。


 ――藍凪ちゃんは、ヒーローみたい。


 ――一緒に傘に入ろう?


 約束をした。契約をした。それが灯里との始まりだった。


 一緒に居てって言ったじゃん。

 なのに、勝手にいなくなるなよ。

 どうしたらいいか、わからないじゃないか。


 ――藍凪ちゃん…………藍凪ちゃん…………藍凪……。


 ――アイナ。


 ふわり。優しい桃色が香った。慣れた香り。少しだけ、懐かしい香り。

 天国にでも着いたのかもしれない、なんて。そんな都合のいいところがあるとは思っていないし、あったとしても自分が向かうべきは地獄なのだろう。

 だいいち天国で初めに嗅ぐのが彼女の香りだなんて、ちょっとおかしい。


「おかしいよ、ティーネ……どうしてここにいるのさ……」


 深い底へといざなう冷たい水流を、今は感じない。もう堕ち続けてはいなかった。

 あるのは人肌の温もりだ。自分を優しく抱き留める、彼女の。


「あなたが、いないから」


 頭のすぐ上から息を切らせた声が聞こえた。


「探したんです。オクトノウトさんが、協会に提出する研究報告書を偽っていると分かって、その研究にあなたが巻き込まれているかもって思って……し、心配したんです」

「そうなんだ」

「うまく足どりが掴めなくて……シャーハンさんにも彼の研究施設を教えてもらって、ここにも何度も通って、今やっと……!」

「……そうなんだ」

「ど、どうして……どうして、泳げもしないのに、あんな高い場所から落ちて、血だらけになって――」

「ティーネ」


 彼女は決定的な事実を口にしない。

 この場には藍凪しかいなかった。それが落ちていたというのなら、示す意味は、およそ一つのはずなのに。


「――ボクを、もっと抱きしめてよ」


 藍凪はティーネの顔も見ずに、埋もれながら呟く。


「きつくしてよ。強くしてよ。痛くしてよ」


 壊れてしまいたいんだよ。

 雨を浴びた、あの日のように。


 そう言った藍凪を、ティーネはいっそう強く抱きしめた。

 けれどそこにあったのは、熱いくらいの体温、痛いくらいの優しさ。期待していた辛さも、厳しさも、彼女の腕には感じられなかった。


「嘘つき」


 彼女は藍凪を胸に埋めさせながら糾弾する。


「本当は優しくしてほしいくせに。助けてほしくてたまらないくせに」

「どうして? ボク、そんなこと……」

「分かるんです! あなたがずっと、何かに怯えながら過ごしていたことくらい、一緒にいれば分かりますよ……大事なことは話さないで、はぐらかすみたいに笑って、それでなんですか、これは!? どうして何も伝えてくれないまま、消えてしまおうとするんですか!?」


 珍しくティーネは声を荒げている。彼女の方がよほど怯えているみたいに。


「どうして、私の元に来たあなたを、私から奪おうとするんですか……!」


 そんなのキミに関係ないじゃないか。出会ったばかりのキミには、何一つ。

 これは自分と、そして灯里との問題だ。

 そう言って彼女だけをはじき出してしまえば、全てを壊すことができたのだ。


 …………できなかった。


「あなたは嘘つきで、愚か者です!」


 そう、自分は嘘つきで愚か。弱くて、ずるくて、すぐ逃げる。本当なんて何一つなく、ごまかし、隠し、偽るばかり。ずっとずっと、今も現実から目を逸らして、逃げ続けている。

 こんな自分は死ねばいい。

 高いところから堕ちて、二度と光の射さない暗闇の底で、潰れて消えてしまえばいい。


「死んだら、もうどこにも行かないで済むと思ったんだ」


 藍凪は重い口を開く。


「ずっと暗闇の中にいるみたいだった。何も見えなくて不安定な足場――少し踏み外せば落ちてしまう足場に、一人で立たされている気分だったんだよ。それが怖くて、嫌だった。何か特別なことがあったわけじゃないのに、不思議だよね」


 ティーネは黙り、藍凪の言葉を待つ。


「……でね、そんな中で、手を差し伸べてくれた子がいたんだ。名前は……相坂あいさか灯里ともり。灯里はね、ボクにとっての光みたいなものだった。灯里のおかげで、どうにか歩いてこられたんだ」


 藍凪が中学二年生だった頃の話だ。その時はまだ同じクラスだった。

 不安というのは生きているだけで付きまとってくる影のようなものだ。それに気づいたのは、誰一人として友達らしい友達ができないままに二年生へ進級してしまった時。

 人知れず、正体の分からない影に傷つけられ、病を患っていたのだと思う。それを治療するには、誰かとの触れ合いや、言葉の掛け合いなんてものが必要だった。


 そこへ灯里が飛び込んできたのだ。彼女はまさに光だった。

 灯里との何気ないやり取りが心を揺らした。胸が弾んだ。日ごとに、真っ暗闇に閉ざされていた足場が徐々に照らし出されていった。

 治ろうとしていた。もう大丈夫だと、どこか安定した気でいた。


「でも、灯里は死んじゃった……死んじゃったんだよ。目の前で、人形みたいに吹き飛ばされてた」


 あの日、何をするために灯里と出かけていたのだったか。思い出せない。思い出したくない。

 頭の中に残った映像は、灯里が車に衝突する直前と直後。狂ったカメラで撮影した写真をデタラメに流すような、倒錯した情報。そのどれもが彼女の顔ばかり拡大して映している。


「灯里のいないボクは、駄目だった。何も見えなかった。ずっと溺れてた。見つけた光が一瞬で吹き消されてしまえば、自分がいた場所がどれだけ暗かったかってことに気づいてしまう。ボクはもう、あの子なしでは生きられない」


 だから、一度死んだ。

 そしてもう一度。


「もうボクは、何も見えない道の上を歩くのは嫌だよ」

「生きられないからって、終わりにするんですか?」

「仕方ないよ」

「それで救われた気にでもなるつもりですか?」

「そうするしか、他にないんだよ」

「それ、ぜんぶ本気で言ってるんですか?」

「本気、だけど……」

「『だけど』?」


 その先に続く言葉なんてない。もう、ないのだ。


「まだ、嘘を言い足りませんか?」


 なのに、どうしてその先が溢れようとする?

 嘘は柔らかいものなのに。

 嘘は大事なことから目を塞いでくれるのに。

 嘘は嘘でしかないのに。

 言葉が出ない。それ以上の嘘が出ない。彼女の真っすぐな目が、それを許さない。


「本当のところ、アイナはどうしたいのですか?」


 やっぱり彼女は手厳しい。隠したかったことも、全て掘り起こしてしまう。

 目を逸らしたい、あまりにも厳しい現実にも、向き合えと。


 もう夢を見させてはくれないのか。


 諦めるように口を開くと、見えない外皮で固めていた唇が震えだして熱を持った。それから虚静を保っていた顔中の装いが次々に剥がれ落ち、さらけ出された素顔が、これまでため込んだ悲痛に歪んだ。


「――――ほ、本当は……死にたくなんてなかった……!」


 塩辛いわだかまりを吐き出すと、喉の奥がひりついて痺れた。内側でうまく固めていたものが融け出して、声を出すのがひどく困難だ。

 そんな藍凪の頭にティーネの手が添えられ、彼女の肩へ持っていかれた。

 熱くなった目頭からは涙が零れていたが、濡れる肩を彼女は気にする様子もなく、流れるままにした。


「生きるのはとても難しくて、ボクは少しだってまともじゃいられなかった。全然平気なんかじゃなかったっ……! それでも……終わってしまうことが一番恐ろしくて、耐えられなかったんだ!」


 死にたいだなんて、それが一番楽だなんて、そんなのは嘘だ。いつだってその一段上の幸せが欲しくて、欲しくて、たまらなかった。


 自殺願望めいたことは何度も繰り返してきた。踏切から身を乗り出してみたり、歩道の車側のギリギリを歩いてみたり、そんなことを山と積み上げても、募るのは虚しさばかり。向こう側に踏み切る覚悟のなさを思い知らされるだけだった。

 この世界に来てからも機会はあったはずだ。

 初めにサーペントに襲われた時、鍾乳洞でモウタと戦った時、脇を走る車よりもよほど間近に迫り来る死があったというのに。それらを拒否してはねのけた。


 どうして?

 本当は、分かっていただろう。


「もしかしたら、続けていけば、いつかどこかでマシになるときが来るかもしれない。ここじゃない場所に辿り着けるかもしれないって、期待する気持ちを、手放せなかった……!」


 ただ一度、信じることができなくなった。屋上から飛び降りたことが、胸に場所を取る癌のように残っている。


 ――自分で自分に突き刺した棘が、いつまでも抜けなくて痛いんだ。


 開いたままの傷口は塞がらず、そこに在り続ける。いつまでも。いつまでも。

 とても逃げられそうにない。


 藍凪は痛くて泣いた。

 藍凪は怖くて泣いた。

 暗闇で泣き続ける藍凪を、上へ上へと引き上げる友達がいた。


「私はあなたを許さない。あなたの嘘を許さない。勝手に沈むのだって許さない。――――何度だって、引き上げますから」


 藍凪はうなだれたまま、ティーネの言葉にうなずいた。

 気づけば深淵の海溝を抜けきって、閑静な海底の景色を見下ろしている。

 熱水噴出孔。チューブワーム。シロウリガイ。ユノハナガニ。

 恐ろしいと思ったそれらが、今は少しだけ、きれいなものに見えた。

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