星を掴む 6

 ムーナは蘇生した。それは驚くべき奇跡のはず、それなのに。

 この光景を利己的な思考で見つめる自分がいる。赤の他人の再会を、ただそれだけのものと片づける視線がある。


「良かった。これで、灯里も……」


 藍凪が考えるのはそのことだけ。ムーナが生き返ったという事実は、灯里も生き返りうるという事実を指し示すものでしかなかった。

 だからこその安堵は、覚えていたのだけど。


「本当にこんなことで、ヒトの身に届かない奇跡を実現した気になるなんて、とんだお笑い種だね」


 声が、耳朶に触れた。聞き覚えのある、少年の声だ。

 オクトノウトとラペルの耳にもそれは聞こえているようだった。


「誰だ」


 オクトノウトが短く問い、ラペルが武器を構えて警戒する。だが声の主は姿を現わそうとはしない。


「十五年来の声を忘れたか。そのアクアマリンを誰のものだと記憶している?」

「……まさか、君は…………ネモの幽霊!?」


 オクトノウトは動揺を隠せなかった。姿の見えないその人物に恐れを抱いているようでもあった。


「知性を与えられれば思い上がり、身の丈に合わないものへ手を伸ばす。まったく、この世で最も愚かな動物の、醜い行いを見せつけられた気分だよ」

「何故、君がここに? 今さら、アクアマリンを返せとでも言うつもりか?」


 彼らが交わす言葉は、とても仲のいい間柄でのものとは思えなかったが、少なくとも互いに見知った関係ではある様子。

 前に感じた違和感に答えが出た。やはり、オクトノウトはネモの幽霊を知っていたのだ。


「いいや。ぼくの宝物庫から見つけ出した時点で、それはきみの物だ。だがね、自分の持ち物があまりに陳腐で予想を遥かに下回る使われ方をしているものだから、声をかけずにはいられない。嗤いたくもなろうものさ」


 見てみなよ。ネモはこみ上げる嘲笑を噛み殺しながら言う。姿を見せないまま声だけで彼が示したのは、果たしてムーナのことだった。

 柱に縛りつけられたムーナ。しばらく目を離した間に、彼女は頭をうなだれていた。


「ぅぐう…………がぁう……」


 意味のない唸り声を漏らしている。それが苦しむかのように聞こえたのは、気のせいではない。彼女は体中を震わせていたのだから。

 オクトノウトがガラス越しの彼女へと這いずるように寄る。


「ああ、ムーナ! どうしたんだい? どこか痛むのかい?」

「むぅ……な……? む…………うう、な……あぐ……うがぁああああああぁ!!」


 それが、彼女が彼女でいられた最期の瞬間だった。

 地を裂くような激しい慟哭を上げ、ムーナは暴走を始める。苦しみから逃れるように身をねじり、宙に拳を振りかざし、頭を背後の柱へと打ちつけた。

 悲惨に、身を滅ぼすような暴れ方だった。


「落ち着くんだ! ムーナ! ムーナぁ!」


 オクトノウトがガラスにしがみつくようにして彼女に呼びかける。その手も、声も、届くことはない。

 さすがのラペルもただ事ではないと感じ取って後ずさる。

 藍凪は一歩も動けず、目を見開いて、その破滅の光景を網膜に焼き付け続けた。

 ムーナの胸元。アクアマリンが、闇より深い藍色の光をたたえた。

 次の瞬間、暴れていた彼女の頬が、膨張する。

 頬だけではない。腕も、足も、胸も、腹も。斑点のようなものが現れたと思えば、そこが拡大し、沸騰するかのように膨れ上がる。


「がああああぁう! やらぁ! いやらああぁ!!」


 肉が際限なく膨張し、膨張し、膨張し、膨張し、膨張し――。


 パンッ!


 赤い糊と肉片が、ガラスの槽にべったりと張り付いた。


「あぁ、何故だ……どうして」


 血の詰まった水風船が、至るところで破裂した。

 そして檻の内側で、ムーナは動かなくなった。その凄惨な劇の末路を、オクトノウトはしがみつくように見続けていた。


「マナの割合調整は完璧だったはずだ。今まで何度も試行を繰り返して得た結論だったのだ。こんなことになる予定ではなかった。こんなことは、こんなことは――」

「マナの問題じゃない。現に生命体として構成され、現出には成功したんだから」


 姿なきネモが説明をする。この幽霊は全てを知っているのだ。知っていながら、重要なことは何も伝えてこなかった。彼は終わった出来事に後付けの説明を加えるだけ。


 ただの幽霊。ただの傍観者。


「だけど新しい生命体に古臭い魂を結び付けようとするとどうなるか。――答えは、乖離する。終わったはずの死者の魂が、まだ生きているという間違いを犯している肉体を苛むからだ」


 生きている。死んでいる。それら二つの矛盾が、どうしようもなくすれ違う。


「一度死んだ者は、死に憑りつかれる。死という体験は、それほどまでに強烈だ」


 それは、その言葉だけは、自分にも向けられているという気がした。

 屋上から飛び降りたあの体験は、いつまでも消えない染みのようにしつこく、けれど鮮明に残って、藍凪の内に暗黒を落とし続けている。

 心に刺さった棘。自分を殺した罪。課せられた罰。

 救いの手段は、今はもう見えなくて。

 生き難い。死に辛い。


「ムーナ、目を覚ましておくれ。僕を独りにしないでくれ……」


 這いつくばってすがりつくオクトノウト。幕の閉じた悲劇を、その先の幸福な展開を見たいと、いつまでもしがみついて見ている。

 彼の熱情が、はたまた親子愛が、何かを引き起こしたのか。

 垂れ下がったムーナの手が、ぴくりと動いた。

 幕は再び上がる。


 悲劇の第二幕だ。


「――あ……あァ……」


 破裂した口もとから声が漏れた。

 あらゆる肉がぶくぶくと盛り上がり、肉体を再構成し始める。

 すると他の場所でも同じことが起き始めた。元通りに、いや元よりもなお強く、大きく、強力な生命へと変貌する。

 それに追随するように、また死が彼女を襲う。皮膚が膨れ上がって破裂し、そこから肉が盛り上がって再生。

 死と生の繰り返しだ。


「増長した生命力が死に抗っている。アクアマリンに込められた生命のマナは、容易に宿主を死なせてはくれない」


 ネモが淡々と言う。

 その間にもムーナの肉体は膨張を繰り返し、ガラス槽をいっぱいにしていた。

 肉塊の圧でガラスに亀裂が入り、そして勢いよく割れて破片が飛び散る。そうして現れ出た姿は、もはやヒトと呼べたものではない。


 血に汚れながらも歪に盛り上がった青白い肉体。元の細かな造形は肉に埋もれてしまっている。足先の肉は癒着して、大きな尾びれと化している。手の五指も同様にくっついて、かいのようなひれに。何度も裂けては再生した口は、横に大きく広がり、その隙間から乱雑に並ぶ牙を覗かせている。骨格は変形し、全体として鯨とヒトが混ざったかのような形。

 見るも無残な化け物だが、ただ一片、亜麻色の髪の毛が、かつてムーナであったことを示していた。


 手狭な檻から出てもなお、彼女は膨張をやめない。そうやって肥大し続けるのだろう。死が彼女に追いつけなくなるまで。


「ムーナ……僕だよ。君のお父さんだ」


 ガラスの破片を真正面から受けたというのに、オクトノウトは自分を省みない。立ち上がって、その赤黒い手を彼女へと伸ばした。


「馬鹿野郎、喰い殺されてえか!」


 一度は後ずさったラペルが飛び出してオクトノウトの手を引いた。

 それがあと数瞬早かったなら、オクトノウトの片腕が喰われることもなかっただろう。

 オクトノウトの断絶した片腕から血が噴き出る。なくなった肘から先に彼は顔を青ざめさせたが、それを気に留める暇もない。

 ムーナは苦しむように身をねじったかと思うと、部屋中の機材を荒らしながら暴れ泳いだ。ガラス槽の残骸を喰い、台座を喰い、カプセルと鉱石を喰う。

 散々に部屋中のモノというモノを喰い荒らす暴食の塊。彼女は生を求め続けるあまり、外側からも糧を取り入れんとしている。無機物の摂取が、何の意味もなさないとしても。


 なんて虚しい。


 藍凪は回避しようともせず、ただぼうっと立ち尽くすばかり。部屋は荒れ果てるのに、不思議と自分の体は傷つかない。それがまた一層虚しかった。

 やがて嵐は去る。いつの間にかムーナの姿はどこにもない。


「――ああ、待ってくれ。置いていかないでくれ!」


 一拍置いて取り残されたことに気づいたオクトノウトが、彼女の行方を追う。ラペルも舌打ちしながら彼に追随する。


 そうして部屋には藍凪が一人。ネモの声は既に途絶えて、気配もない。

 心が浮き上がるのを感じつつ、足を動かした。行く先は決めていない。道など見えないから、歩いただけだ。

 もう一匹の実験体が収容されていたガラス槽に辿り着いた。

 青白い生命の子供は、自分の体のあちこちを食い荒らした挙句、赤く染まったガラス槽の上にぷかぷかと浮かんでいた。


 もう、なんだか限界だ。

 あの場所へ行こう。深くて暗い、闇の淵に。

 思い立ったときには歩き始めている。


 そうだった――――

 飛び降り自殺をしたくなるのは、こんな日。

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