星を掴む 5

 街の外側で、ひとり、宙を見上げる。

 その日の夜は、宝石を浮かべたような色とりどりのクラゲの宙模様だった。ルビー、サファイア、トパーズ、エメラルド……。

 全てを内包する、アクアマリンの宙。

 ぱっ、ぱっ、と光っては消え、また光る。それが花火が打ちあがる様に似ていると思った。

 家の近所でやっていた花火大会を、灯里と見に行くことはなかったけれど。


「また会えるよ」


 そんな些細なやり残しでさえ、もう一度チャンスが巡って来る。

 手を伸ばす。光は遠くの方で明滅を繰り返している。泳げない自分はあそこまで行くことは出来ないけれど、それでもいいと思った。

 灯里と二人で、ここから見上げることができれば。


「灯里……灯里……」


 思いが口から零れる。ずっと奇跡を待ち望んでいたのだ。砂漠に埋もれてしまった大事なものを探すように。ずっと、長い間。

 だが、藍凪は自分の目が涙に濡れていることに気づいた。

 どこか痛むわけでもないのに、それは勝手に頬を伝って、途中で空間に溶けてしまう。きらきらと弾けた粒子が、ほんの短い間だけ宙を流れて消える。


 闇夜に浮かぶ光が、あまりにも綺麗で、眩しかったせいだろう。


「勘違いしててごめんね。ボクは新しい人生なんかが欲しかったわけじゃないんだ。他の何かで埋め合わせるような薄情者じゃないんだ。剣も、魔法も、冒険も、そんなのは全部まやかしだ。キミだけがいれば、それで……!」


 それでよかった、はずだ。

 心の中で何か引っかかる。つっかえたまま取り出せず、消化もできない、ひどく厄介な塊が。

 本当に厄介だった。

 それがあること自体が苦しいのに、それを思うと優しい気持ちになり、それを手放そうとしても離れてくれず、それを抱きしめると温かくなる。

 それはどうやら、とっくに自身の一部のようなのだ。


 クラゲの宙の下で、藍凪は泣き続けた。それ以外に涙を止める術が見当たらなかった。

 涙を流しきって決意が固まったならば、もう振り返ることもない。

 これから自分が手を染めるのは、見るもおぞましい悪の所業。

 そんな自分も、あの子なら許してくれる。




 それからあらゆる出来事が矢継ぎ早に流れた。

 目まぐるしさの中で、藍凪は感情を閉ざし、自身の内側に籠っていた。全てそこから覗いて眺めているような心地だった。

 住居が変わった。洞窟とは別にある、オクトノウトのもう一つの研究施設に。

 食事が変わった。魚肉をペーストにして固めたような味気ない保存食に。

 毎日が変わった。腕に取りつけた吸引機でマナを吸いだされては、疲れて眠りにつくだけの日々に。

 マナは生命力と言ってもいい。その生物の生きる力を補うのは、睡眠と食事だ。

 食べて、眠って、マナを吸い出される日々。

 そんな中で、藍凪に時間の感覚というものはなかった。ともすればずっと眠っているようで、現在が夢かうつつか判別することさえも難しい。


 ずっと揺り籠の中だ。屋上から落ちたあの瞬間から、自分はどうやら覚めない眠りに落ちているらしい。

 前後不覚。前か後ろか、横か上か、はたまたずっと底か。どこにいて、どこへ向かおうというのだろう。そこには望むものが見えるのか、存在するのか、この手で掴めるのか。


 もう、確かなことは分からなくなっている。


 ムーナを生き返らせる研究が最終段階に入り、それが藍凪がウィルディを離れて四日目だと聞いて、驚いたものだ。


「これを見てくれ」


 オクトノウトはガラスで造られた円柱の槽を指さす。その中には、青白いヒトの子供のような姿の生物が浮かんでいた。


「君から採取したマナを使って新しい実験体を創ってみたんだ。今までのとは違って、かなり安定している。生殖機能など、足りない部分は多いが、長時間でも活動できる。一個の立派な生命だよ」


 それは鍾乳洞で見た個体よりも、さらにヒトに近い見た目をしていた。照明で切り取られた影だけを見れば、街でよく見かける子供そのもの。

 異様な部分と言えば、つるつるの肌は毛の一本も生えてはおらず、黒い部分の多い瞳はどこか無機質で、頭からは耳とも触覚ともつかないものが生えている。

 だがその差異は、オクトノウトには些細なことであるらしかった。


「後はこれと同じものにムーナの魂を与えるだけだ。さあ行こうじゃないか」


 オクトノウトは奇矯な笑いを上げながら別室の施術部屋へと向かった。

 取り残された藍凪は、ガラスの中からこちらを見ている無機質な目と向かい合う。

 彼は口を開かず、じっと見つめるだけ。生まれたばかりで言語を知らなければ、知能も発達してはいないのだろう。

 それでも問わずにはいられなかった。


「……キミは、こんな風に生まれてきて幸せ?」


 そんなわけない。自分の傲慢さに腹立たしさを覚える。頼まれてもいないのに勝手に生み出し、幸せか、なんて。

 彼からの返答はない。知能のない目が、こちらを責めるということもない。ただその無機質な黒目は、己の醜悪さを映し出すだけ。


「……ちゃんと生きられるといいね」


 せめて、生まれてしまったからには、生きてほしい。

 自分のようにならないでほしい。


 藍凪はくるりと振り返り、施術部屋へと遅れて入った。

 部屋には既に二人。あれこれと準備するオクトノウトと、壁に寄り掛かっているラペルがいる。ラペルに関してはただそこにいるだけ。蘇生の研究自体には関わりがなければ、興味もないのだろう。

 入室した藍凪を誰も気に留めるでもない。そんな冷ややかな空気にあてられても、既に冷めきった藍凪の肌は不感症。

 部屋の奥には先ほどの生物が入っていたものよりも大きなガラスの槽があり、その中にヒトの形をかたどった素体が縛りつけられている。胸部にはペンダントから取り外されたアクアマリンの宝石が埋め込まれて。

 蘇生に必要なものは、意思のない生物の素体、大量のマナ、流紋術式、そして生き返らせる者の魂を含んだアクアマリンの宝石だ。


 前に見せてもらったアクアマリン。あれはやはり、本物だったらしい。


 ガラス槽のあちこちからはいくつも管が伸びている。その先は台座の上のカプセルへと繋がっている。カプセルには、藍凪のマナを吸い込んだ碧色の鉱石が入っていた。

 彼は一つ一つ点検して、全ての台座に規定の種類と量の鉱石が配置されていることを指さしながら確認し、それを終えると威勢よく手を打った。


「よろしい! 全ての準備は整った!」


 一連の指揮者のような手振りの仕上げに、彼は喜悦の笑みを浮かべる。


「ここに至るまで、十年。長くはあったが、苦しくはなかった。辿る道の先にこそ、ムーナとの再会の未来があると信じていたから。もうすぐ……あと一つの工程を踏むだけだ。ようやく、あの日より前に帰ることができる……!」


 オクトノウトは涙を流しながら、手袋を引っ張った。黒い布と白衣の隙間から見えたのは、ラペルのものと同じ赤黒い肌。

 ヒトよりもマナ操作の優れた潮操種から切り出された素材の腕が、はち切れんばかりに脈動している。それが有する力は、オクトノウトの研究を完成へと導く要だった。

 彼はガラスの前に設置された石板に手をつき、胸の昂りを鎮めるために深呼吸した。


「――では始める」


 合図を受けたラペルがガラスの横にあるレバーを引き下ろし、部屋中の機器を作動させる。ゴウンゴウンと音を鳴らしながら、カプセルから鉱石に蓄えられた藍凪のマナが吸いだされ、ほのかな、しかし大量の光をガラス槽の中に吐き出していった。

 それを確認するとオクトノウトは石板についた手に力を入れる。脈動する手にさらに大量の血液が流れ、赤黒い色が鮮やかに色めいていった。手だけではない。彼のしなびた瓢箪のような頭までも血管が浮き、紅潮していく。

 彼は再度の演奏の指揮を執るかのように石板をなぞる。

 石板から伝導された潮流を操る力が、ガラス槽内部のマナに流れを与える。微量の赤と橙、大量の青と碧が、渾然一体となり、素体の表面を這うように流れた。

 まるで人体を流れる血管を透かして見たかのようだった。ただの肉塊を生物たらしめる流紋術は、ヒトの血潮をかたどっている。


 在るべきものを在るべき場所へ。結び、繋いで、一つの完全なる輪へ。


 そうした複雑な術式を、オクトノウトは身を削るかのように描く。

 産みの苦しみとよく言うが、それを彼は内側で暴れる血流から味わっている。火照った体はオーバーヒートを起こし、今にもどこかで断線を起こしそうであった。

 彼が奏で、捧げる、娘のためのセレナーデ。


 最終局面で、変化は現れた。

 素体の手の五指が痙攣けいれんするように動き、大きな黒い目には光が宿りはじめる。肉体が音を立てて女の子らしいものへ変形する。頭部からは亜麻色の髪の毛が生えて肩まで降りる。

 生物の素材を寄せ集めた素体が、アクアマリンが内部に取り込んだ魂の情報を元に、ムーナという存在へと寄り始めていた。


「お、おおぉ……ムーナぁ……!」


 絞り出すように声を上げて、彼は最後の流れを繋ぎ合わせた。

 初めて生命が誕生した時から連綿と続く営み。生きとし生ける者の最初の理。生命の法則たる術式はここに成り、――――命は誕生する。


「…………ぁぐ……?」


 誰もが言葉を持たなかった。

 声を発したのはガラス槽の中の彼女。

 何が起こったのか分からない顔で、不思議そうに首を傾けている。そしてガラス槽に流れるマナに触れ、指先で弾けるそれと戯れ始めた。

 誕生したばかりで言葉はない。記憶もリセットされ、誰が誰なのかも理解していない。


 それでも彼女はヒトであり、紛れもなくムーナなのだった。


「ムーナ……ムーナぁ……やったぞ……ようやく会えた……。ミナト……お前の願いを、ちゃんと守ったよ……」


 オクトノウトは地面に膝を着いて感涙にむせぶ。腕まわりの皮膚が断裂して血が流れているが、気にも留めない。全てをやりきり、彼は抜け殻のようになっていた。


 ムーナは、蘇生したのだ。

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