星を掴む 4

 前回の被害者。踏みにじられた側であった彼。

 それが、認めた。今回は、海域を乱し多くのヒトを陥れる、諸悪の根源だと。


「じゃあ、もういいよ。そこをどいて。こんな馬鹿げたこと、終わらせよう」

「本当に、馬鹿げていると思うのかい?」


 もう十分だった。もう何も聞かず、終わらせたかった。

 藍凪はナイフを引き抜いて走る。書斎の入り口は一つ。そこにはオクトノウトが立つのみだ。

 大人の男とはいえ、彼は細く力のなさそうな体形のうえ、武器も持たない。

 戦いに慣れない藍凪でも、彼相手ならば勝算はあるはずだった。


 けれどそんな彼に、どうして味方がいないなどと決めつけていたのか。


「どいて!」


 脅しで振り上げたナイフ。それがオクトノウトに届く直前で、何者かに掴まれて停止する。

 横合いから伸ばされたのは、赤黒い腕だった。


「カハッ! ちょっとぶりだなぁ、弱っちい方の妹ぉ」


 この場に現れたのは、一週間前に追い詰めるも、逃亡したラペルだった。

 ナイフの刃を意にもしない硬皮で、ラペルは藍凪の動きを封じた。


「どうしてこんなところに……!」

「そんなの決まってるだろうが……よっと」


 そして彼はオクトノウトの前に躍り出ると、膝で藍凪の手首を打った。強い衝撃に痺れる感覚がして、ナイフから手を離してしまう。実に容易く、抵抗の手段を奪われてしまう。


「仕事だよ。このおっさんは俺の得意先でね。ちょいと仲良くしてんのさ」

「お前は、密漁者のはずだ」

「そう、密漁者であり、商人であり、ハンターであり、浪費家であり、傭兵でもある。客が金さえ払ってくれるなら、荒事にも参上するのさ」


 まずいことになった。ラペルがいては、書斎を出ることすらままならない。一歩外へ出れば住宅地だというのに、助けも呼べない。頼みのナイフも、床に転がってしまった。

 そしてオクトノウトは藍凪のナイフを拾い上げる。


「客だなんて、白々しいねぇ。僕にとって君は共に計画を実現する長年のパートナーと言っても過言じゃあないし、君にとっても僕は良き研究者のはずだよ」


 ラペルが吠えるように反論する。


「だあれが良い研究者だ、このマッドが。俺の男らしい腕をこんな不細工にしくさったのはどこのどいつだ、あァん?」

「割とハンサムだと思うけどねぇ」

「会う女どもが、みんな怖がっちまうんだよ。まともに付き合いも出来ねえ」

「ふむ、見た目に問題があるか。なら今度は色素を弄る施術を……」

「二度とテメエに触らせるか、腐れ研究者」


 藍凪はそっと手を伸ばして、部屋の中で武器になりそうなものを探ろうとした。だが目ざといラペルに見咎められ、腕を引き寄せられる。


「こいつどうすんだ、おっさん?」

「……手を離してやってくれ。少し、話がしたいんだ」

「ケッ、さっさと済ませることだな」


 ラペルは鼻を鳴らすと藍凪を自由にし、部屋の外に陣取って監視に務めた。

 書斎には二人。オクトノウトはにっこりと微笑み、藍凪の目を覗く。


「アイナ君。君には本当に感謝しているよ」

「感謝される覚えなんかない」

「いやいや、これは誠意を持って言えることだよ。僕の研究にはあと一手が足りなかった。この海に源の青しおみずは満ちているけれど、肉体の構成に必要な他のマナが圧倒的に足りない。特に碧は、地上由来のマナだから、集めようがないと言ってもいい。本当に、手詰まりだったんだ。――でも、君が来てくれた」


 オクトノウトは心からの笑みを浮かべた。潤んだ目は今にも涙を流さんばかりだった。


「君が地上から来たと聞いて、もしかしてと思ったよ。その時は確信を持てなかったけど、君はとうとう碧を発現してくれた。ラペル君から聞いたよ」


 部屋の外のラペルは無反応で、ただ退屈そうに視線を落としている。

 どうやら自分は求められている。藍凪は会話の流れから感じ取った。


「ボクをどうする気?」


 碧とやらのマナを発する自分を、機械にでも入れて搾取するつもりか。彼の娘の体を創るのに十分な量がたまるまで、ずっと。

 愉快でない想像が、頭をよぎった。


「初めは無理やりにでもアイナ君を捕まえて、監禁しておこうとも考えた。でも、できれば合意の元についてきてほしい」

「そんなの、大人しく従うわけ――」

「君にも、大切な友達がいたと話してくれたね」


 藍凪の満ち満ちた心に、波紋が生じた。


「亡くなったと、あの時言っていた」


 確かに話した。彼女のことを、警戒心もなく。

 不意に聞かされたから、思いがこみ上げてしまう。


 長い時間、遠ざかっていたような気がする。彼女のことから。

 藍凪の生きる理由だった彼女のこと。みんなが忘れた彼女のこと。自分だけは風化させまいと、飛び降りたのに。

 それが、今はどうだ?

 新しい世界、新しい生活、そして新しい友達ができて、彼女を思わない日はなかったか。彼女のことを忘れかけてはいなかったか。結局は自分も、彼女ではなく、縋れる誰かが欲しかっただけなのではないか。

 彼女、彼女と、いつからあの子を、遠ざけるみたいに……。


「灯里……」


 その名前を久しぶりに口にした。飛び降りる前は、毎日呪文のように唱えていたというのに。灯里の残滓にすら、縋らずにはいられなかったのに。


「アイナ君が自ら協力してくれるというのなら、その友達も生き返らせよう」

「…………………………え」


 言葉が出なかった。一切合切の考えが吹き飛んだ。

 今さら、それはずるい。


 真っ白になった。真っ暗になった。

 音が途絶えた。残響が鳴っていた。

 今は無く、過去から届く、思い出ばかり。

 もう一度、と思ってしまった。


「………………………………………………………………………………ほんとう?」


 甘い毒が、注がれた。


「一人が成功するなら、二人目も成功し得るだろう。十分な量のマナがあれば、素体を創るのは簡単だ。魂に関しても、方法を探っていくと約束しよう。僕の生涯をかけて」

「本当に、灯里が生き返るの?」

「百パーセントとは言えないのが研究者の辛いところだね。でもさっきも言ったはずだよ。研究はあと一手のところまで来ている。最後の欠片は、君が握っているんだ」

「本当に……」

「君次第だ」

「ボク、次第……」


 ああ、これはもう駄目だ。自分はまともに考える機能を失くしたようだ。

 これ以上ないくらいに道が定まりきってしまった。

 この世界に来てから、ずっと不安定だったのだ。一度は死んだ自分が、この世界で生きることに、果たして何の意味があるというのか。同じ結末を辿ることになるのではないか。だから、これまで自分の命というものが、驚くほどに軽かった。

 地に足が着かず、ずっと浮かんでいるような気分だったから、本当はいつ死んでも良かった。

 生きる意味、何かのためという目的が、見えなくて。

 ネモにも言われたではないか。自分は何を為すべくしてここに来たのか、と。


 でも、そんなものは初めから決まっていた。


 現実では灯里の死を覆せないのならば。この世界では覆せる可能性があるというのならば。

 それが、自分が辿るべき唯一の運命じゃないか。


「協力、する……」


 そのためにこれまでの生活、関係性、友人、得たもの全てを裏切るとしても。

 この信念よりは、軽い。

 藍凪の返事に、オクトノウトは満足げに口の端を上げた。


「良い返事を聞けて嬉しいよ。ではこれからよろしく、小さなパートナー」


 彼はこれから協力するべき相手に向かって、友好の握手を求めて手を伸ばした。

 掴みとる。固く。二度と、信念を曲げないように。

 周囲を省みない独善こそが悪だと言うのならば、街に被害を出した研究に加担することもまた、悪のそしりを免れないだろう。

 それを百も承知で、なおも選ぶのだから、きっと自分はもう狂っている。


「さあ、果ての果てまで狂い進もうじゃないか」


 ティーネ。この世界でできた友達には、もう会わない。

 さよならも、言わない。




「遅いなぁ」


 ティーネは一人、家の中で待ちぼうけ。長い時間を机の前で過ごしている気がする。

 ここ最近、帰った時には藍凪が待っている。扉を開けると机に突っ伏していて、こちらに気づくと目を輝かせて駆け寄ってきて。まるで人懐っこい子供のような彼女に、いつもティーネは冷静に振舞うのだけど。

 今日は自分が待つ側。こうしてみると、以前の自分からは考えられなかったことをしているな、と改めて思う。

 一人の生活から、二人の生活。足並みをそろえる日々。

 扉の向こうの足音一つに心臓がジャンプして、それが待っているヒトでなかったと知ると、喜んでしまった自分を隠すように額を冷たい石の机に押しつける。


「はぁ……恥ずかしいこと、してますよね……」


 とても藍凪のことを言えたものではない。

 正直な気持ちを言えば、扉が開かれるのを待ちわびている自分がいる。今か今かと。

 まるで餌を欲しがるペットのよう。


「お腹、空いたんですもん」


 そう、これは腹が減っただけ。藍凪が帰って来れば、約束していたいつもの店に行って、ご飯を食べられるから。

 こういう時、二人暮らしは不便だな、と思う。

 でも、知ってしまったのだ。今までずっと空腹だったことを。そのことに気づかされて、満たされる喜びを知ってしまえば、もう戻りようもないだろう。

 今もちょっと飢えている。早く、早く、満たされたい。


「む……」


 何か、気持ちがまぜこぜになっていたようだ。あちこちから引っ張ってきた欲望とか欲望がこねくり回されて、謎の物体が製造されつつある。恥ずかしい。恥ずかしい。というか、さっきから独り言が多くないか。恥ずかしい……。

 だから早く帰って来ればいいのに。


「遅いなぁ……」


 彼女は待ち続けていた。

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