星を掴む 3

 藍凪はとある家の扉を引き開けた。

 だだっ広いワンルームにヒトの気配はない。螺旋階段から続く二階も同様。

 ここはオクトノウトがかつて家族と暮らした家だ。現在は誰も出入りする者がいなくなって久しい、家庭の跡地。

 彼が今の洞窟へ移り住む前は研究室としても使われていた。この場所へ残してきた研究資料も多く残っているらしい。


「研究資料って、どこに置いてるもんなんだろう」


 藍凪の独り言が誰も居ない空間を抜けていく。

 ここへはシャーハンからの頼みで訪れたのだ。工房を出る前に鍵を渡され、ある研究資料を探してきてほしいと。


『確かオクトノウトのやつが、むかし源の青しおみず以外のマナのことを調べてたっけなア』


 研究を武器製作の参考にするのだそうだ。それならと、藍凪も気安く請け負った。

 オクトノウトの家の鍵を、なぜシャーハンが持っているのか疑問だった。聞いてみたところ、それはシャーハンがオクトノウト自身から受け取ったものだそうだ。

 オクトノウトは人里から離れた場所で生活しており、誰かと顔を合わせる機会もほとんどない。だが自身の研究が埋もれるのを良しとしなかった彼は、家に眠る研究成果を自由に活用してもらうため、信頼する技師に研究の使用権を譲った。


 一階は広間とキッチン。見たところ、ここには資料の類はなさそうだ。


 あるのは、三つずつ揃えられた貝殻の食器、獣皮紙に黒炭と塗料で描かれた三人の絵、細やかな作りの人形。家庭としてあった頃の名残ばかり。

 なくすことなく、変えようとすることなく、ただ時の風化を待ってそこにある。


 螺旋階段を上って二階へ。いくつか部屋を覗き、書斎を発見した。

 高く天井にまで届く棚に詰め込まれた書籍の数々。研究者であるオクトノウト自身の手でしたためられた研究と記録の結集だ。上の方などはとても手が届きそうにない。

 膨大な数と、それに費やされたであろう時間を思えば、頭がくらくらする。

 この中から目当てのものを取り出すのは無理だろうな。藍凪は早々に諦める決心をつけた。


 だが一冊、机の上に出された本が目に付いて、手に取ってみようと思いついた。せめてもの努力の痕跡でも残しておこうとしたのかもしれない。

 この世界の文字は一文字が話し言葉の一音に対応し、さらに特定の事物を表す象形文字が入り混じる。

 話し言葉を理解できる藍凪は、文字文化への順応もそこそこ。本の内容は難しくとも、タイトルくらいは読める。

 その本の表紙にはこう書かれていた。


 『死者の蘇生』。


「………………あ」


 ふと、あり得ない光景が頭をよぎった。


 してはならない妄想だった。


 時計の針を巻き返したかのように、昔の友達が隣にいて、この深海の異世界を一緒に歩いている。胸が焦がれるような冒険の日々、未知に触れる感覚、これから味わうあらゆるワクワクを、彼女と分かち合うことができる。

 夢物語で、理想形で、過不足のない完璧な想像。閉鎖と圧迫ばかりのつまらない現実から抜け出し、なおも二人でいられたならば。

 どんなに、幸せなことか。


「その本に興味があるかい?」


 泥沼のような心地よい妄想に、どれくらい浸っていたのだろう。

 本を手にした藍凪の背後には人影があった。

 オクトノウトは、ぼんやりと藍凪から伸びる影のように立ちすくんでいた。


「びっくりした、オクトノウトかぁ。ぼうっと立ってると、幽霊みたいだよ」


 身を硬直させ振り返った藍凪に、オクトノウトは続ける。


「新たに誕生させた生命に、死者の魂情報を入れ込むことで、死者の蘇生を図る。この海に満ちている源の青しおみずとは元より生命を生み出すという性質を持ったマナであり、この瞬間もどこかで自然発生的に生物を生み出している。この世界自体が新生命を生み出す土壌として、非常に理想的だ」

「あの、オクトノウト? 急に何を言ってるの?」

「何って、そこに書かれた内容さ。地上から来たという君では、読むのに苦労するだろう」


 いきなりなんだと言うのか。別に内容を知っても仕方ないのだが。藍凪は怪訝な表情をする。

 オクトノウトはにこにこと、穏やかな笑みを浮かべながら続けた。


「ちゃんとした工程を踏めば、人工的に生命の誕生を再現することは可能だ。四色のマナ、橙、青、赤、碧を基盤として肉体を構成し、生体機能の役割を果たす潮流器官で補ってやれば。

魂と定義されるものについては、死亡時に体から抜け出るマナの根源だという説が有力だ。ヒトが自らの内からマナを生成し、また外側のマナに触れるための知覚となる、マナ周辺機能の核である物質。潮操種にはない、ヒトにとっての目に見えない潮流器官であるそれこそが魂と呼ばれるものだ。

それを生命活動が停止する前にあらかじめ取り出しておき、マナ吸着性の極めて強い宝石――――アクアマリンなどに吸収させれば、ヒトの魂を保管することができる。

魂を誕生前の自我の薄い生命に付与することで、死者は蘇生する」


 記憶を引き継げないのは残念だがね。オクトノウトは付け足して眉を曲げた。

 藍凪は返す言葉を持たない。彼が紡ぐ言葉の、どれ一つとして理解が及ばない。退屈な音色は耳を通り抜け、ただ疑念ばかりが広がり、満たしていく。


 目の前にいるこの男は、何者なのか。

 何故、どこか別の場所を見るような目をしているのか。


 彼は藍凪など見えていないかのように独話を続けた。

 人工生命という存在にしか魂を付与できないこと。

 人工生命を安定させるには膨大な量のマナが必要ということ。

 とりわけ碧のマナは希少で、海の中で集めるのは困難だということ。

 聞いてもいないことを、聞いていられないくらい、長々と。


「でも、問題の解決はすぐそこだ。君のおかげで、死者の――――僕の可愛いムーナの蘇生は目前なのだよ」


 何を言っているのか。意味が分からなかった。

 ムーナとは確か、オクトノウトの娘で、何年も前に亡くなっていたはず。悪人たちが街へ招き入れたサーペントに殺されて。

 なら、何故その娘の名前が出て来る? 今は何の話をしていたのだっけ?

 悲しい話? 事件の話? 現在の話? 過去の話?

 目的は復讐か。過去の再演か。

 いや、違う。どれも的外れだ。彼は過去の出来事に固執してはいない。

 ただ悲しい過去をなかったことにすべく。失われたものを元に戻し、継続させるべく。描いた理想を現実にすべく。

 だからこその、蘇生。


 これは一人の男が、大切なヒトを取り戻そうとする話だ。


「……一つ聞いてもいいかな?」


 藍凪はやっとの思いで口を開く。眼前に佇む狂気に内側を犯されるような心地だった。


「もしかしてこの周辺で起きている生態の異常って、全部あなたの仕業なの?」


 あらゆる工程を飛ばし、結論だけを求める。そうでないと呑み込まれる気がしていたから。


 彼の言葉は毒だ。


 オクトノウトは一拍置いて考え、返答した。


「まあ、そうだねぇ。君たちがニルと呼んでいた生物……いや、生命へ至ることすらままならなかった子供たちは、僕が創った試作品だ。その存在は結果として、サーペントを騒がせることになった」


 サーペントはヒトを喰う。そしてヒトと似た存在であるニルを喰う。

 だからこそオクトノウトはサーペントから隠れるように研究所を設置していた。ニルを創れば、傍にいる自分の身も危ないから。


「いやあ、サーペントも利口なものだ。まさか子供たちを創った僕まで潰しに来るなんてね。おかげで僕自身、まともに活動することすら難しかった。サーペントを警戒するあまり、他の生物への警戒が怠ってしまうなんてね」


 だから最初に会った時、ダンガンザメに襲われていた。そんなこと、今となってはどうでもいいことだけれど。

 その存在すら不確かだった幽霊。それが確認すら難しいのは当然。彼らは人知れずサーペントに喰われ、存在を残すことがなかったのだから。たとえ喰われずとも、やがて活動を停止し、ほどけた肉片は海に融けゆく。

 生きる機能もなく、無意味な生と死を与えられた命。

 それでも生きようとしていたのに。

 馬鹿げてる。自分がさっき言った言葉を脳裏に浮かべ、腰のナイフを握りしめた。


「全部あなたが悪いんだね」

「…………ああ。今回は、僕が悪者だ」

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