星を掴む 2

 藍凪は工房を出ると、賑わいのある方へと向かった。煌々と燃える竜火炉の明かりが届いてくる。

 舗装のされていない砂の道。最初こそ足が沈み込んで歩きづらいと感じたが、何日も過ごしていれば慣れるもの。藍凪は立派にこの街で暮らす一人となっていた。

 さり、さり、と砂を踏む音を楽しむ。

 いつか泳ぎを覚えたなら、移動も早くて便利なのだが。今はせいぜい砂の音を味わっておく。


 ――いいさ、地を這うのだって悪くない。


 頭上を通り抜けていくヒトたちを見て、しかし羨望と不平が混じって口を尖らせる。


「おや、アイナちゃん。そんなむくれた顔してどうしたんだい?」


 上方の斜め前、声をかけてきたのは、行き交う人々の中に紛れようとなお目立つ赤髪。行きつけの飯屋の女主人、レオナだ。

 すっかり見知った二人は昼どきの挨拶を交わし合う。


「世の不平等を嘆いていたとこ。自由に宙を泳げるって、さぞ気持ちいいんだろうなぁ」

「なんだ。アイナちゃんは泳げなかったかい」


 レオナは地面に降りて隣に立った。彼女は大人の女性らしい背の高さで、並ばれると余計に藍凪の低さが強調される。


「ま、気持ちがいいのは確かさ。特に夜なんか、クラゲの光の中を漂うのは最高だよ。疲れも取れる」

「よく行くの?」

「日課さ。仕事終わりのね」


 へえ、と相槌を打つ。プランクトンみたいにふよふよと浮かぶ姿はメルヘンチックで、やたら派手派手しいレオナに似合わないだろうことは、心にしまっておく。


「海の色を見りゃ、その日はクラゲがどれだけ来るかわかるもんだ」


 彼女はふと見上げて言った。どこまでも青い、あのアクアマリンと同じ色の宙を。


「今晩は、いい星空になりそうだよ。――今日は店に来るかい?」

「うん。ティーネと二人で」

「そうかい、そりゃあいい。なら飛び切り新鮮なのを仕入れてくるよ」


 彼女は自前の大きな布袋を掲げた。これから買い出しに向かうのだろう。


「楽しみにしてる!」


 藍凪の返事に満足して頷くと、赤髪の女主人は商店へと向かって行った。


 少し先へ行くと、またも見知った人物に出会う。隣家の奥さんとその娘だ。

 世話焼きの奥さんはよくスープや煮物のおすそ分けを持ってやってくる。ほとんど毎日と言っていいほど貰うので、すっかり彼女の味に慣らされたものだ。

 散歩に行くのだと言う親子。まだ十にも満たない幼い娘は、引っ込み思案であまり口を開かない。背丈はさすがに藍凪の方が高い。だからなんだという話ではあるが。

 ほんの二言三言交わして、彼女たちとは別れた。


 そういえば、まだティーネの手料理を食べていない。誰かに作るのに慣れていないと言った彼女は、頑なに外食ばかりを繰り返している。

 ちょっとくらい作ってくれてもいいのに。それとも、もう一度言ってみれば作ってくれるだろうか。


「どうだろう。頑固だからなぁ、あの子」


 それは駄目です。前にも言ったはずです。あなたに食べさせる手料理はありません。

 ティーネが言いそうなセリフが頭に浮かぶ。妄想上の彼女も手厳しくて、やっぱりそれが彼女の印象なんだな、と思った。


「誰が、頑固なんですか?」


 彼女が問いかけてくる。


「そりゃあティ――」


 反射的に答えようとした。当然、妄想上の話。

 ところがそれが妄想でなかったとしたら。

 住宅街に差し掛かったところでの出来事だった。


「ティー?」

「てぃぃーーー……ティーチャー! そう、つまり先生が頑固だったんだよ!」

「先生? アイナにも師のような存在がいたのですか?」


 目の前で純粋な疑問を投げかけるティーネに、焦った藍凪は曖昧にうなずいた。

 いつの間に見られていたのやら。目のいい彼女だ。不用意な発言すらも目に留められてしまう。これからは独り言に気をつけよう……。


「こんなところで会うなんて、奇遇ですね」


 ティーネが和やかな微笑を浮かべた。

 ふとした表情は、不毛の大地に一輪咲いた花が、そっと吹き込んだ風に一瞬だけ揺れたような。あどけなく、あるがまま。その芯の強い花が揺らぐこと自体、珍しいのに。


「……どうしたのティーネ、何かいいことでもあった?」

「え? いいこと? 急にどうしたんです?」

「頬っぺたがいつもよりふにゃふにゃしてるよ。なんだか嬉しそうだね」


 ほんの些細な変化。彼女の顔を毎日よく見ていないと気づけないほどの。

 それは零が一になる程度の、ささやかで、しかし明確な転調だ。

 指摘されてティーネは自分の頬をぺちぺちと張った。隠した顔を上げた時にはいつも通り、凛とした表情。


「気のせい、じゃないですか?」


 努めて平静を保って言うのだった。

 藍凪は伏せ気味になったティーネの顔を下から覗き込む。くっと口もとを無理やり引き結んだ顔が耐えるように、藍凪から目を逸らした。


「気のせいかなぁ、本当かなぁ~。嘘はよくないんだよう?」

「あなたにそれを言われるとは…………調査が上手くいっているおかげでしょう」


 ティーネはそれっぽい理由ではぐらかす。確かにそちらも大事だけれど。


「あの時逃げた二人組の片割れ、ラペルの足取りは順調に潰せている。彼には金も、他の街へ逃げる手段もないはずですから、憲兵に見つかるのは時間の問題。大きなモウタの方は牢獄に入れられているみたいです」

「特大サイズの牢屋を用意しないとはみ出ちゃうね」

「彼にはサーペントの不審な動きについて、知っていることがあるか尋問しているらしいのですが、意外と口が堅いようで。時間はかかるかもしれません」


 となると、二人組に関しては安心していいのかもしれない。時間をかけた後、彼らから海域の乱れについて聞き出すことができれば、大きく事が進む。

 それからティーネは、幽霊と呼ばれた生物、ニルが捕獲されたことを話した。ギルドの依頼を受けたハンターの一人が偶然に発見して捕まえたらしい。


「既に解析に回し、いくつか結果も出ています。まず最初、あれは自然界のものではない……何者かによって創りだされた可能性が高いこと」

「創り、出された……?」


 ティーネは深刻な面持ちで頷いた。


「そう、人工的に。体表を覆う青白い皮膚は、いくつかの生物……主にサメの皮膚を繋ぎ合わせたもので、一部は腐っていたそうです。それに内部の潮流器官は見たこともない潮流パターンで、それによって肉体を無理やり動かしていた。ですが観察をして数時間経つと、死んでしまった……」

「死んだって、そんな……」


 観察をしただけで、死んだ?


「そもそもとして、ニルには生きるための機能が備わっていなかったのです。目は肉に潰されて見えず、口はただの穴で、食物を消化することも出来ない。死んだ後は肉体の崩壊が始まって、槽の中には肉片も残らなかった、と」


 幽霊みたいに、消えた。そのせいで今まで存在を捕捉することすら困難だった。

 ヒトの手で創りだされながら、生きる機能を持たないままに死に、挙句に痕跡も残さないまま消える。

 どうして。


「それは、何のため? 望まれて生まれたの? 望まれないから、死ぬの? それとも、耐えられないのが、悪いの……?」

「アイナ……?」

「馬鹿げてるよ」


 言い捨てるような口調に、ティーネは戸惑ったようだった。


「……ニルが創られなくなれば、サーペントの異常行動も収まるでしょう」

「本当の犯人、捕まえなきゃね」


 ともかくこれで多くの事象を解き明かすことはできたのだろう。後はその犯人とやらを見つけて捕らえるのみ。モウタの時と同じように、きっとやれる。

 探り探り、随分と遅くなった歩み。それでも着実に、事の解決へと向かえている。

 藍凪は、不意にティーネの手を握った。


「な……いきなりなんですか!?」

「ごめん。なんだか寂しくなっちゃって。ちょっとだけ、いい?」


 怯えるように手を震わしたティーネ。けれど、イヤとは言わない。それに付け込み、彼女に近づく。


「ねえ。ティーネはこの事件が解決したら、ボクを追い出すんだったよね?」


 最初の朝に彼女は言った。なし崩し的に決められた同居生活は、この一件の解決まで。


「そうでしたね」

「そうなったら、ティーネと会うこともなくなっちゃうのかな……」


 想像してしまったのだ。事件の解決という共通の目的を終えて、ティーネとの同居が解消された、その後。自分はどうなっていくのか。また寄る辺もない、独りになるのか。


「やっていく自信、ないなぁ」

「……何を今さら」


 ティーネは呆れたように息を吐いた。

 当然だ。当然なのだから、彼女にとってそんなことには議論の余地もない。不真面目な弱音には正論を突き付ける。そんな真っすぐな女の子のことを、短い期間でよく知った。


 違うのは、そこに生まれた、手のひら一つ分の気持ち。


「いいですよ、もう少しくらい」


 その言葉に彼女を見上げる。逃げるように逸らされた頬に、うっすらと赤みがさしていた。


「……あなたには一人前のハンターになってもらわないと、いけませんから」


 一人前のハンター? どういうことだろう。

 言葉の真意を捉えかねていると、ティーネの頬がさらに真っ赤に上気した。


「憶えてない……? まさか、あれも嘘だったんですか!? 一緒に冒険するって、言っていたのは…………本気にしていたのは、私だけ? やだ……」


 ああ、そういえば。そんなことを提案したこともあった。でもその時は断られたような。

 ティーネは焦るあまりどんどん顔を赤くしていく。


「ああ、いえ、そうですよね。あんな食事の場の雑談で、そんな大事なことを言うわけ……忘れてください。いま私が言ったことは全部――」


 どんな心境の変化があったのか、藍凪は知らない。それでも、いい。


「嘘じゃなーい!」


 受け容れてくれたことだけが真実だ。藍凪はたまらずティーネの胸に飛びつく。ちょうど目の高さにそれがあっただけだ。他意はない。

 ティーネは持ち前の勘の良さを発揮し、ひらりと身を翻して藍凪を避けると、なおも向かおうとする藍凪の頭を片手で受け止め押し留めた。


「私に奇襲が通じるとは思わないでください」

「む、無念……」


 がっくりとうなだれた藍凪の髪を、ティーネがくしゃりと掻く。

 その手つきが、気持ちの分だけ、柔らかい。




「いっけねッス。忘れ物ーっと」


 もぬけの殻だった工房に、コクルが一人戻ってきた。

 彼女は奥の雑多な物置からつるはしを取り、肩掛けカバンに入れて満足げ。もう用はないと、急いで外へ出ようとする。


「あれ、あなたは……」


 人影に気づいたのは、工房を出るまさに直前だった。


「――――? それなら――」


 その人物がしてきたのは簡単な質問だった。だから答えてやって、すぐさま工房を出ていく。

 それが何を引き起こすのかも知らないで。

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