幕間 不治の病について

 雨が降っていた。それはもうバケツをひっくり返したかのような土砂降りだった。

 眩しいものを隠してしまう曇天の下、公園に一人立つ藍凪は、その雨に打たれていた。

 冷たい。息苦しい。耐えられない。けれどそこにいる。

 厳しさだけが自分の拠り所だというように。光のない場所がただ一つの安寧だというように。

 結局、どこにいてもちょっとずつ苦しいのだ。何をしていてもちょっとずつ寂しいのだ。気付いてしまえば、もうおしまい。それなら冷たいだけの雨が、いっそ彼女にとって一番優しい。

 手を空に掲げる。するとそこへ、もう一人の客が現れた。


「あの……風邪ひいちゃうよ?」


 栗色の髪、大きなメガネ、レンズに張り付いた雨粒で目がよく見えないけれど、多分同じクラスの誰か。名前は知らない。


「それって何してるの? おもしろい?」


 黄色の傘を両手で握りしめながらその子が言う。


「……沖見藍凪さん、だよね。私は相坂あいさか灯里ともりっていうんだけど、同じクラスの。ほら、同じ列の一番前の。あそこ、何でも最初にやらされちゃうから困ってるんだ」


 自分が何もしゃべらないからだろうか。その子は勝手に自己紹介を始めた。

 彼女が誰かなんてどうでもいい。ただ、水をさされたような気がして、不快だ。


「帰る」


 傘に隠れるようにして話す女の子を置いて、藍凪は公園を立ち去ろうとする。


「待ってよう。帰るなら一緒に――」


 ぐしゃり。湿った土の音がして、声が途切れる。

 気にしてやる義理もなかったのだけれど、やっぱり気になって振り返ってしまう。そこには大地に倒れ伏した女の子の姿があった。


「何してんの? それ、おもしろい?」

「おもしろく……ない!」


 ぐぐっ、と体を持ち上げる女の子。ブレザーの制服は泥だらけ。膝からは血が滲んでいる。

 遠くに転がってしまった黄色い傘。拾って、ぶっきらぼうに差し出す。


「……ボクのせいじゃないよ。勝手にキミが転んだだけ」


 女の子はおずおずと受け取る。

 その時に何を間違えたか、藍凪の袖も一緒に掴んでいた。


「どういうつもり……」

「一緒に傘に入ろう? そしたら濡れないよ」


 この子はどれだけ物好きなんだろう。自分がクラスで浮いている存在だってこと、分かっているはずなのに。

 新学期が始まってから一か月。その間、自分は交友関係を拒み続けてきたし、勉強の態度もひたすら不真面目だった。誰から見ても厄介者で、当たり前のように遠ざけられる。

 何かに抗うような気持ちだった。ベルトコンベアみたいな将来だとか、ゾンビになってしまう不安だとか。現実という名前の、漠然として正体の掴めない何か。

 そんな自分に今さら声をかけるだなんて。


「本気?」


 せせら笑うように言う。嘘だとしたら趣味が悪いし、本気だとしてもやっぱり趣味が悪い。関わり合いにならない方が、よほど充実した学生生活を送れると思うのだ。


「本気だけど」

「みんなに見られたら、変な子だと思われるよ」

「どうして?」

「ボクがまともじゃないから」

「カッコよくないかな、普通じゃないのって。憧れるなあ。私なんて絵に描いたような普通の子だから」


 彼女は何も分かっていない。


「そういうことじゃなくて――」

「寒いよねえ」


 彼女は体を寄せ付けて、同じ黄色い屋根の下にこもった。

 土砂降りの中、冷たい雨から逃れる頼りないシェルターに、呼吸が二つ。


 もう、なんだかどうでもいいや。


 藍凪は彼女を遠ざけようとしたことが馬鹿らしくなって、徒労の果てに諦めをつけた。

 ドジで、物分かりが悪い女の子。どんな意地悪なことを言っても響きそうにないし、空気を読んで一人にもしてくれないのだろう。だからしょうがない。

 しょうがないことだ、これは。

 藍凪は冷たそうにして傘を持っている彼女の手に、自分の手を被せた。ただ自分も寒かったから、暖まりたくて求めただけ。恥ずかしげもない藍凪に対し、女の子はズレたメガネの奥で瞼をぱちくりさせていた。


「だったら、ちゃんと一緒に居てよ」


 そしたらこんな世界も、ちょっとはマシになるのかも。

 これは契約だ。自分と彼女が同じ場所に宿るための、最初の口約束。

 けれど彼女――灯里は、やっぱり何も分かっていないような笑い顔で言うのだった。


「藍凪ちゃんの手、まだちょっと冷たいねえ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る