幕間 現実世界の真実について

「みんなには内緒だよ」


 藍凪はそう言って、友達の手を引っ張っていく。制服のまま、遠く、遠く、誰の目も届かない場所まで。学校という水槽から逃げ出すように離れていく。

 さっき昼の休み時間を終えるチャイムが鳴ったばかり。今頃みんなはだんまりと退屈な授業を受けているのだろう。あの教室に、今は二人がいない。その行方を誰も知るはずがなく。

 手を引かれた灯里ともりはといえば、戸惑いながらもちゃんと足は動かして、素直についてくる。藍凪を引き留めようとはしない。

 知っている。彼女は規則をよく守る子だけど、無理やり手を引っ張る友達を拒めもしない。それでいて、普段と違う体験に、ちょっと期待していたりするのだ。

 夏用の制服を着た二人が、日の照り付けるアスファルトの上を走ってゆく。止める人は誰もいない。


 やがて聞こえてくるのは、潮騒。


「誰もいないねえ」


 人気のない浜辺に立って灯里が言う。

 平日の昼間。この時間帯にここへ来る人は限られている。そうでなくとも、二学期が始まった今、海で遊ぶには時期はずれなのかもしれない。

 新鮮な潮風が吹いて、鼻にツンと香った。


「ボクたちだけの海だ」


 広い砂浜を前に、早い息遣いが二つだけ。

 握った手がやけに温かい。


「あっちの方まで行こう」

「ねえ藍凪ちゃん、どうして急に海に行こうって言いだしたのか、そろそろ教えてよう」

「んー……」


 藍凪は質問には答えず、ただ歩く。手を繋いでいる灯里も歩く。広大な青色を背景にして、寄せては返し砂をさらっていく潮の音が、鳴り響く。

 何十歩目かの足跡を砂につけたところで、手を離した藍凪は大きく伸びをした。それでも灯里は急かさずに待っている。緩慢な一挙一動の後に、藍凪は口を開いた。


「――――別に、理由なんてないよ」


 海と空との隙間を見つめる眼差し。そこに埋まっているものを探し出すように。


「ねえ灯里、いいこと教えたげようか?」

「いいこと?」

「この世界の真実について」


 きょとんとして目をしばたたかせる灯里。彼女は何も気づいちゃいない。

 藍凪は靴と靴下を脱ぎ捨てて、素足をぺたりと砂に着ける。温められた砂の温度を足の裏で感じた。そのまま歩いて、波打ち際の湿った地面まで進む。


「危ないよお」


 灯里が安全な場所から呼びかけてくるけれど、気にせず藍凪はどんどん先へ進む。砂に埋まった足首に潮が打ちつけられる。冷たい海水の温度が暴力的に身体を刺した。それでも、ふくらはぎに膝、順番に足を浸して、スカートの先が濡れてしまうまで、進んだ。


「灯里は、来ないの?」


 誘うような目つきで灯里に振り返る。

 臆病な彼女は足を内側に折り曲げて佇んでいたが、やがて意を決して履物を脱いだ。

 足を砂に着けて歩くけれど、藍凪のように上手く進めない。砂の凹凸に足を取られているようで、どうにも不安定。そうしているうちに一際強い潮風がびゅおっと吹き、しなった灯里の身体は無抵抗に砂へ倒されてしまう。


「ドジだなぁ」


 藍凪が笑う。

 灯里は何とか起き上がると、海に入って藍凪のいる場所まで来る。しがみつくように、藍凪の手を握った。


 ――しょうがないなぁ。


 彼女より小さな藍凪が支える。二人で海と空との隙間に立って、その奥を見つめた。

 藍凪がおもむろに口を開く。


「この世界にはね、もう希望なんてものは一つも残ってないんだよ」


 ふと潮風が凪いだようだった。


「ゆるっとした絶望だけが世界を埋め尽くしてて、誰もがそれに気づくこともできない。何も知らないままに生きて、勝手に衰弱していくんだ。遠くない先には、みんなゾンビみたいになって、さまようだけの存在になるんだよ」

「なあに、それ。ゲームの話?」

「ホントの話だよ」

「想像つかないなあ」

「だって現実は、生きてるだけで傷だらけだし、何もしなくても病気になる」


 悟ったように藍凪は言う。それが本当かどうかを確かめる方法はない。けれど、どうしようもなく不安だったのだ。ひどく漠然としたものに、ざわめく気持ちが止められない。

 この先、たとえば三年先の未来なんか、存在しないんじゃないかと思えてくる。


「ボクは、病気になったら死のうと思うよ」


 灯里がぎょっとした顔でこちらを見る。


「どうして?」

「生きてても仕方がないからさ。みんながだらだらと生きてる間に、ボクは一足先に別の場所に行っておくよ」

「天国とか?」

「地獄かもね」

「それは寂しいなあ」


 優しい言葉を期待して言ったわけじゃない。それでも灯里が寂しがってくれると知り、不覚にも安堵してしまう。喜んでしまっているのか。なんだか馬鹿みたいだ。

 慰めなんて生ぬるいものは要らないと、ついこんなことを口走ってしまう。


「だったら、灯里も一緒に行く?」

「地獄に?」

「天国にでも」

「それはやめとこうかな」

「そっか」


 ちょっと落ち込む。


「だって、もっとやりたいことが残ってるもん。おいしいもの食べたりとか、遠くに旅行したりとか。あ、藍凪ちゃんも一緒にね」

「そっか」

「だから死んだらいけないよ」

「それは、どうだろうな」


 もう、と灯里が聞き分けのない藍凪を陸へ引き戻す。背が小さく力も弱い藍凪は、為す術もなく引きずられてしまうのだった。

 その時、強い波が一つ、二人の足に叩きつけられた。


「わわっ」


 焦り声を出したのは灯里だ。普通であればなんてことない波であるものを、彼女はその衝撃で足がつんのめり、今にも体勢を崩そうとしていた。

 手で繋がっている藍凪は、彼女を倒れさせまいと手を引く。けれど藍凪は力が弱い。

 繋がった二人ともが、浅瀬へ頭を突っ込んだ。


「えぶっ」


 鼻に入った海水で咳き込みながら顔を上げる。広い水たまりに落ちたように、制服が砂と水とでぐっしょりだ。


「灯里は海に入っちゃだめだね。キミの方がよっぽど溺れて死んじゃいそうだ」

「……ありがとう、藍凪ちゃん」


 砂から顔を引き上げた灯里が、そう言った。


「褒めてないんだけど?」

「そうじゃなくて。助けようとしてくれたこと。手を離してくれれば、藍凪ちゃんは倒れなくても済んだのに」


 そんなこと。

 確かに灯里は繋ぐ手の力を緩めていたので、離してしまうのは容易だった。


「別に。助かるなら、一人より二人の方がいいと思っただけ」

「カッコいいな、藍凪ちゃんは。ヒーローみたい」

「失敗したのに?」

「ううん。それでも、ヒーローなんだよ」


 頬に泥を付けた顔で灯里が言う。欠片も疑いのないような純正の笑顔で。

 本当に手のかかる友達。


「まったく、しょうがないなぁ」


 藍凪は灯里の頬を拭ってやって、ちょっとだけ救われたように笑った。

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