砂上に落とす影 7

 オクトノウトは言った。何でも願いを叶えられる宝石、アクアマリンと。


「厳密には、どんな大規模な潮流術でも起動することが可能という意味だがね。この海でも屈指の魔力石で、高純度の源の青しおみずをため込んでいるとされている。……理論上の話ではあるけど」


 恥じるように最後を付け足した。まるでそれを実証できていないのが悔やまれるという風に。


「だから今アイナ君が持っているそれのように、似たような色の石がお守り代わりに使われるんだよ。アクアマリンに願いと祈りを、ってね」


 なら藍凪が手に取っているのは、アクアマリンによく似た石、ということ。

 それにしてはよくできたものだ。アクアマリンの中の海は、まるで生きているかのように模様を変えていく。


「それは僕の娘が身に着けていたものなんだ」

「娘……」


 随分前に聞いた。確かオクトノウトには家庭があったということだった。かつては妻と娘との三人暮らし。それは今や過去のものになった。


「随分と幼い頃に亡くなってしまった娘だよ。あの子が生まれた時にそれをプレゼントした。健やかな成長を祈って、ね。ほんの短い間だったけど、それを首にぶら下げて走り回る娘は、とても可愛かったんだよ」


 彼は自慢するように語って、在りし日への思いを馳せている。


「おっと、若い子は昔の話なんかは聞きたくないかな」

「いや、もっと聞かせてよ。その子の名前は?」

「……ムーナ」


 藍凪の質問が嬉しかったのか、オクトノウトは口の端を上げて笑い、再び過去へ思いを巡らせた。


「本当に可愛らしい子だった。綺麗な服を着せてあげると、小さいお姫様みたいだったよ。けれど本人は遊びたい盛りだったから、すぐに服を汚して帰ってくるんだけどね。よく怪我もして、その度にミツミ草の傷薬を塗ってあげたんだっけ。引きこもってばかりの僕とはまるで違う。きっとミナトに似たんだな」


 藍凪の腕にはまだミツミ草を塗り込んだ包帯がしてあって、そっとなぞった。

 ミナト、とは恐らく妻のことだろう。オクトノウトは完全に思い出に浸り、自分の話を続けた。


「あの日も、そうだ」


 けれど、楽しそうに振り返っていたオクトノウトの語調に、不意に影が差した。


「家で書きものをしていた僕を、ムーナが引っ張って外に出した。しょうがないからと街を歩いて一緒に遊んだ。それが、その日に限っては、してはいけないことだったのに」


 平穏な日々に、不意に訪れる嵐の気配。

 悲しみの予感。


「世の中、良いヒトばかりでなく、悪いヒトがいるものだ。そしてムーナは、その悪意に運悪く巻き込まれただけなんだろう」


 善人と悪人はどの世界にもいる。ここでも同じだ。


「その日、街にサーペントが群れをなしてやってきた。理由ははっきりしていないが、街にサーペントの卵が持ち込まれたのだというのが有力らしい」

「卵? それがどうして?」

「サーペントは巣から卵を盗まれることを嫌う。だから卵に特有の匂いを付け、持ち出された時には匂いを辿って取り返しに来る。その習性を知ってか知らずか、街に持ち込んだ人物がいたらしいんだ。ちょうどその頃、密漁の噂も流れていた」


 けど、そんな事情はどうだっていい。オクトノウトは外に漏れんばかりの声量で、興奮してまくしたてる。


「ムーナは、そのサーペントがぶつかった建物の崩落に巻き込まれた! 気を失ったムーナを急いで診療所に運んだけれど、もう遅かった。彼女は何も分かっていないような顔で、眠るみたいに息絶えようとしていた。アクアマリンのお守りは何の役にも立たなかった!」


 息を切らしながら言う。深い後悔、そして怒り。自身の無力を痛感して放たれた言葉だ。

 大事な誰かが苦難に陥っている時に何もしてあげられない。ちっぽけな存在など置いていって、全てが終わっていく。その光景を前に、ただただ立ち尽くす。

 オクトノウトは我に返ったように藍凪を見て目を伏せた。


「ごめんよ。興奮してしまったみたいだ。こんな暗い話をするはずじゃ――」

「ううん、分かるよ」


 藍凪が言うと、オクトノウトは目を見開いた。

 軽い気持ちで言ったわけではない。それでも悲しみに暮れるヒトにとっては、安易な同意に聞こえるかもしれない。オクトノウトの心を逆なでして、憤慨させてしまうかもしれなかった。

 けれど言わずにはいられない。


 彼が打ち明けたから、藍凪も初めて、|この話《・・・』をしようと思った。


「ボクもちょっと前に大切な友達が死んだ。ただの交通事故だし、誰が悪いということもでもなかったけど。細かいことはどうでもよかった。ボクは、なんだか全部がどうでもよくなっちゃったんだよ」


 だから、生きる理由を失ってしまった。

 発光性キノコの光が一つ消えた。洞窟内の淡く優しい闇が二人を包み込んでいる。

 オクトノウトは心を手放したかのように藍凪を見つめて、そして言った。


「――君は大切な誰かを生き返らせることができるとすればどうする?」

「え――――」


 それは本人の意思と関係なく、口が勝手に漏らしてしまったような。

 怖いくらいに流暢りゅうちょうな言葉は無断で藍凪の耳へ侵入し、その恐ろしさのせいか意味を捉え損ねてしまった。


「今、なんて言ったの?」

「……冗談だよ。忘れてくれ」


 まさか。そんな冗談はありえない。

 藍凪は真意を問いただそうとした。しかしその時、ティーネが外から研究所へ駈け込んで来て、藍凪の言葉は中断された。

 その様子は先ほどとは違う。もっと身近な体感としての焦りが表れていた。


「アイナ! 今から私は街へ戻ります!」

「どうしたの?」

「街の方からサーペントの咆哮が聞こえました。また迷い込んできたのかもしれない。危険ですから、あなたはここに残るように」


 そう言って藍凪の返事も待たず、ティーネは飛び出していく。

 だが彼女一人に任せるわけにもいかなかった。足を引っ張るかもしれない。それでも何もしないのなら一緒にいる意味なんてない。それに、いつまでも無知ではいられない。


「ここに残れと言われたろうに」


 外へ出かける藍凪の背にオクトノウトが呼びかける。


「危険だ」

「いいよ、それでも。ボクは多分、命なんて惜しくない」


 果たしてそれが本心からの言葉なのか、偽りなのか、誰にも分からない。本人でさえ。

 それでもウィルディへ戻る藍凪を、オクトノウトは止めようとはしなかった。




 街まで戻ってこられた時には、街に迷いこんだと思われる白いサーペントは既に絶命して地に横たわり、その周囲には人だかりができていた。

 ティーネや、ましてや藍凪のような部外者が心配するまでもなく、優秀な防衛団の面々が討伐を果たしていたのだ。


「……来たんですか。残るように言ったのに」

「へへへ。居ても立っても居られなくて。遅れちゃったけど」


 頭を掻きながら言う藍凪に、ティーネは呆れ顔。

 研究所から街へ戻るまでの直線距離はそれほど長くはないものの、徒歩となるとやや道のりは険しく、泳げるティーネと泳げない藍凪とでは到着時間に差が出る。


「あ、怪我……」


 ティーネも戦いに加わったのだろうか。彼女の頬にはしっている血色の線を見つけて、手を伸ばした。するとティーネは嫌がって顔を背ける。


「飛んだ礫で傷ついたのでしょう。何でもない」


 ハンターである彼女は、かすり傷に構っていられる時間などないと言うように考え始める。その様子に余裕はなく、どう見ても煮詰まっているようだった。

 睨みつける前方。倒れたサーペント、それに集まる人だかり、後始末に追われる防衛団のナイトたち。


「またサーペント……何が原因で、彼らはここまで迷い込む……?」


 ふと藍凪は人だかりの外へ目を向けた。何気なく見た路地のそばには二人組がいる。細身で針山のような髪型の男と、太い坊主頭の男の、変わった組み合わせ。

 そしてその二人があまりに人相の悪い顔をしていたからだろう。つい先ほど聞いた過去の話を無意識に思い出していた。


「ティーネ、知ってる? 昔、サーペントの卵が街に持ち込まれたことがあったんだって。その時も、街でサーペントが暴れたって」

「その話、どこで?」

「さっき。オクトノウトに聞いたんだ」


 藍凪の呟いた言葉に、ティーネが顔を上げる。複雑に絡まり合った糸から、一つ手繰り寄せるべきものを見つけたかのようだった。


「サーペントの卵は、親であるサーペント自身を引き寄せる。これが環境変化による問題ではなく、人為的な問題だったとすれば……!」


 ティーネは素早く視線を人だかりに巡らせた。犯人は現場に戻る、ではないが、サーペントの目的が卵なのであれば、それを持っている誰かがこの場にいる可能性はある。

 そして、視線が一点に留まった。彼女が見つけたのは、偶然にも藍凪が見つめていた二人組。

 視線に気づいた二人組はどこ吹く風という態度だったが、よほどティーネの瞳が眩しかったのか、慌てて路地へと消えていった。


「追います!」


 敏感に悪臭を嗅ぎ取った獣の如くティーネは飛び出し、藍凪も並んで追いかけた。

 建物が多く並び、路上に出し物もあり、そして今はヒトも集まっている状況だ。無闇に泳げば激突し、新たな被害を生んでしまう。それはティーネの望むところでなく、故に足を使わざるを得ない。

 走る。走る。道行くヒトは、なんだなんだと振り返る。その脇を駆け抜けていった。

 間もなく二人組の消えた路地の曲がり角に差し掛かる。


「――――!」


 角を曲がり、その惨状を見て藍凪は絶句した。

 ヒトの多さも、物の多さも、関係がないと言うように荒らされた路上。突風が道行くものを突き飛ばしながら吹きすさんだ跡がそこにはあった。

 完全にこちらの誤算だ。相手は他人を害することに躊躇ちゅうちょもなく、まんまと逃げおおせたのだ。

 しかし、ティーネの表情は、この失敗を嘆くようなものではなかった。


「やっと見えた」


 ある壁を突破した。そんな達成感。

 砕けてバラバラになった破片の先に、ヒトの姿を見つけた。

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