砂上に落とす影 6

 どうにも煩わしい。


 ティーネは少し重たい腹をさすりながら夜道を歩いていた。食べ過ぎたかもしれない。

 前方では藍凪が、歩きながらあちこちとせわしなく首を回す。小さな背。見つめて、むず痒いものを感じる。

 こうして誰かと食事をし、同じ家に帰るなど、数週間前ならば夢想だにしなかっただろう。望んですらいなかった。そういう誰かを作ることなんてことは、まったくもって不要と感じていたのだから。

 自己のみで完結する人生。力強く我を一貫するための歩み。

 そこへ、藍凪だ。

 小さいくせに愛らしさなんて欠片もなく、図々しいばかりの彼女が、飛び込んできた。

 彼女といると、自分が揺らいでしまう。

 嘘ばかりのヒトなのに。雑音だらけのヒトなのに。どうしてこうもままならない?


 藍凪の言葉に含まれる雑音。それは彼女がつく嘘の音調。

 それと、嘘を聞いて不安を感じる、自身の胸のざわめきだ。


『守るべきいのちを一つ。討つべきいのちを一つ。それだけを自覚しろ』


 かつて師事したヒトの言葉。この心得を元に、自分は戦闘と生き方を教え込まれた。

 自分と相手。考えるべきはそれだけで、ならば自分はより高い自己の完成を目指すのみ。


『邪魔なものなぞ捨てちまえ。お前には、生を謳歌おうかする余裕はないんだから』


 そうだ。余裕など、少しだってありはしない。

 自分には役割がある。いずれ刻限は訪れ、災禍と相対する運命。

 その時までに強くあらねばならない。だから、全てはそのための前座だ。


「ティーネ!」


 遠くから呼びかける声。

 自分が立ち止まっていたことに気付き、歩みを再開する。

 夜の喧噪がいつにも増して騒がしい。祭り気分の騒がしさというよりは、事件を取り囲む野次馬のささやき。やけに耳に障るざわめき。

 また、サーペントが街に侵入したのかもしれない。ここのところ彼らの影はひっきりなしに街を覆い、住人の生活を脅かしている。誰もがその解決を待ち望んでいる。


 急がなければ。


 足を引っ張られるのは困る。藍凪が邪魔になった時は、すぐさま手を切ればいい。

 今はまだ、必要な手がかりであるかもしれないから。

 この収まりの悪い胸の感覚にも、我慢しなければ。




 淡い光を放つキノコだけが光源の薄暗いオクトノウトの研究所に通うのも、もう習慣となっている。

 とはいえ周辺の熱水噴出孔にびっしりと張り付いたユノハナガニやシロウリガイ、それに大量のチューブワームのいる景色にはまだ慣れず、目にするたびに肌が粟立つ思いだ。

 オクトノウトは彼専用の研究机に陣取り、難しそうな顔をしながら首を捻っている。


「うーん……報告された事例だけでは何とも言えないな。いまいち決定的な確信に欠けるというかねぇ……」

「でもっ、不思議じゃないですか? ふわっと消えたんですよ? ふわっと!」

「ティーネ君、落ち着きなさい」


 手振りしながら話すティーネを、オクトノウトはなだめる。親が呆れながら子供をなだめるような光景だった。


「僕の見解は変わらないよ。君はちょっと焦りすぎなんじゃないか?」

「……すみません」


 報告を終えたティーネは手をだらりと下げる。彼の返答を予想しながらも、やはり落胆を隠せないよう。

 生態異常の痕跡と思われるものを見つけては、オクトノウトに報告して解決のヒントを得ようとする日々。しかしこれが上手くいかない。

 街にふらっと現れた一匹のメンダコ。イカの大量発生。不意に怪しいダンスを始めた二匹のサメ。

 観測した限りで奇異なものをオクトノウトに伝えはしたものの、どれも生態的にあり得る範囲の出来事。特にサメの事例はただの交尾だと分かり、ティーネを赤面させた。


「防衛本部にもなかなか新しい情報が集まりません。ニルが新たに目撃されたということもない」

「こっちもなかなか実態が見えなくて困っているよ。サーペントの動きに関しても、法則性といったものが見当たらない」

「……早く突き止めないと、また街に被害が出てしまう」

「あまり急いてはいけないよ」


 識者のオクトノウトになだめられても、ティーネは引き下がらない。日が経つにつれて何かが彼女を焦らせ、突き動かしているように見えた。


「白いヒト型の生物。それさえ見つけられれば……」


 幽霊と噂されたニル。

 いま一番の謎がその存在であり、同時に手がかりとなる可能性でもあった。民間でも目撃された事例はいくつもあったが、未だその実態がつかめない。


「僕としては、その情報が一番信用できないがね」


 開いていた分厚い本を閉じ、頭を抑えつつ研究者が言う。


「目撃されたという情報があるのみ。しかも過去の文献にも記録がないときた。加えて捕獲された個体もなし。そんな存在は、ネモの幽霊と同じ幻覚の類としか思えない。誰かが流したデマなんじゃないのかい?」


 二人のやり取りを隅で見ていた藍凪は、いたたまれない思いでティーネを見た。

 藍凪は既にネモと会っている。フードの男の子と言葉も交わした。その経験からすれば、彼は幻ではないと思っている。

 そのネモと、ニルという生物が同じような存在なのかは、分からないけれど。


「一介の学者としての意見だ。君たちの方針に口を出すべきではないとは思うが、いちど調査を改めてもいいんじゃないか?」

「でも…………ちょっと外で考えてきます」


 そう言うとティーネは逃げるように洞窟の外へ出ていった。

 息の詰まりそうな洞窟よりは明るい外の方が、いくらか新鮮な気分になるだろう。


「焦っているねぇ」


 残されたオクトノウトが呟いた言葉に、「そうだね」と返す。


「責任感の強い子なんだろう」

「ティーネはとても真っすぐな女の子なんだよ」

「ちゃんと芯があるんだねぇ。良いことだ。彼女のようなヒトばかりなら、世の中に間違いなんてものもなくなるんだろうねぇ」

「どういうこと?」

「世の中、良いヒトばかりではないということだよ」


 それは多かれ少なかれ、誰しもが気づくことではあるのだろう。珍しくはない、どの世界においても当然のこと。藍凪にも覚えはある。はっきりとは思い出せないけれど。


 中学校。人間関係。有象無象ばかりで空っぽだ。善人の顔も悪人の顔も憶えていない。自分に関わりがあったのは、ただの一人だけ。


 暇を埋めるために研究所内を物色した。すると目に留まったものが一つ。

 綺麗な藍色の宝石だった。この世界で見上げる宙より、崖外に見下ろした果てよりも、なお深い色。濃淡の様々な青が重なり、微細な気泡までもが入り混じったそれは、一つの海を詰めて閉じ込めたようだった。惹きつけられた目がそのまま吸い込まれそうな。

 ふと我に返った。随分と長いこと見入っていたようだ。オクトノウトが興味深そうにこちらをみている。

 宝石は銀色の金具にはめ込まれている。首にぶら下げるペンダントのようだ。


「それに、興味あるかね?」


 いつもの朗らかな口調ではなく、質量のある神妙なトーンだった。何か選択を迫られている気すらした。

 藍凪は声を出さず、しかしゆっくりと頷いた。


「それは『アクアマリン』という宝石だよ。言い伝えによれば、何でも願いを叶えられるらしい」

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