砂上に落とす影 5

 背の高い水草が生え並ぶ海底を、藍凪はその時汗水流しながら駆けずり回っていた。

 体表から流れた少量の水分は、少しの間を置けば海中の源の青しおみずに溶けてなくなり、また新しい水分が源の青しおみず中から供給される。水分補給をしなくても干からびないのは便利だと思った。

 だが、しかし。振り返れば、ここ数年はあまり激しい肉体労働をした覚えがない。義務教育に身を置いていたが故に、教育の一環として運動する必要に駆られたこともあったものの、やはり運動量は人並み以下。

 それが今になって、全力で疾走する事態に陥っているとは。


「こんなのはあんまりだあー!」


 叫ぶ藍凪の背後から迫ってくる、水弾の狙撃。

 ゆらゆらとうねる深緑のカーテンの隙間から時たま覗く生物の影。まだらの身体を風景に溶け込ませ、虎視眈々とこちらを狙う狙撃手。

 それはカクレテッポウフグという、高圧の水弾を扱う潮操種だった。カクレテッポウフグは取り込んだ水分で体を膨らませて、次の弾を吐き出す。


「あっぶ――」


 足元すれすれに地面を抉る凶悪な一撃に、約一メートル四方の砂が派手に舞い上がった。もしそれが直撃したなら、藍凪の体はどれくらい飛ぶだろうか。


「うぅ、どうしよう。どうしたらいい!?」

「自分で考えなさい」


 遠くからティーネは見守っている。手を出すこともなく。迫る脅威を、藍凪が一人でどうやり込めるかを見ているだけ。

 不思議とカクレテッポウフグは、声を発したティーネに狙いを向けようとはしなかった。藍凪だけに興味があるかのように、銃口となる口先を向け続ける。

 だから藍凪は考えるしかない。あれを討伐、ないし撃退する方法を。

 フグは宙に浮いている。相手は泳ぐ生物なのだから当然だ。地表から十メートルといったところか。泳げない藍凪はそれに手を届かせることすらできない。

 それに加え、フグは発砲の度に位置を変え、巧みに水草の中に消える。同じ場所に留まり居場所を突き止められることを嫌うスナイパーの行動原理だ。


「くっそぉ……!」


 歯噛みしながらカーテンの間を睨みつけた。水弾を数発撃つと、次の水を装填するための間が生じる。その隙を使って。

 とはいえ水弾を発射した後のフグは既に行方をくらましている。その姿を捉えることなどできるはずもなかった。

 だが、これも不思議なことに、なんとなくその居場所は感覚できるような気がしていた。姿こそ見えずとも、水草のどの間にいるかが分かる。

 見えないままに、感じ取っている。

 それは不思議な感覚だった。立体的な空間の中で、点として感知できるわけではない。その点に至るまでの軌道が、蜘蛛糸のようなか細い線となっているような。


 いや、線と言うよりは、流れ。

 自身の中心から、始まり、流れ、その終点は水草の中。


「これを辿れば、あいつのところまでたどり着ける?」


 正体不明の確信。けれど今はそれで十分。

 すらりとナイフを抜く。シャーハンが製作した、潮流器官が内臓されているらしいナイフ。潮流を操れない藍凪には、その真価を発揮することはできないが。

 そろそろ次の水弾が来る。藍凪はまためちゃくちゃな軌道で走り出した。弾は止まっている外敵の不意を突いて仕留めるためのもので、逆に言えば動いていれば当たることはないはず。とはいえインターバルの苦手な藍凪は、そろそろ体力を尽かしそうだ。

 カクレテッポウフグが体内の水を撃ち尽くし、また次の水を補給する。フグの移動に従って、視界の蜘蛛糸も動いた。

 藍凪は抜いたナイフを大きく振りかぶった。休憩中のフグへ向けて、流れを辿るようにして、


「てえやあぁ!」


 思い切り投げつける。

 ナイフが流れに沿って終点まで届き、フグを貫く、というのが藍凪のイメージだった。イメージだけであれば完璧な作戦だった。

 ただそれを実現するには、度外視した部分が多かったのだが。

 狙いはでたらめ、力も乗っていないナイフは、予想の遥か下へと墜落した。


「ふむ……妙だな」

「妙なのはあなたの自信満々な表情です……どうしてそんなにいい顔ができるんですか……?」


 ナイフはさくりと地に突き刺さり、ティーネから落胆の声。そしてまた次の攻撃が来る。情けない声を上げながら、どうどうと音を立てて地面を抉る水弾から逃げまどった。

 瞬間、視界の端に赤い線を捉えた。見かねたティーネの射撃である。

 赤い線はティーネの特殊な技術による効果エフェクト。にわかに信じがたいことに、それは必中の証であると彼女は話した。

 それを裏付けるがごとく、かくあるべくしてペレット弾はフグに命中し、水風船に穴を開けたように、水と血の混ざった薄紅の液体が煙のように流れ出た。

 ティーネは飄飄ひょうひょうとした顔で藍凪を見やって、


「まあ、囮としては優秀なんじゃないですか?」


 最大限に譲歩した評価を言い残し、絶命したフグを回収するべく泳いでいった。




 地上で日が傾き、海中のトワイライト・ゾーンと呼ばれる中層メソウの模様も黄昏に染まり始めると、ティーネの合図と共にその日の調査は切り上げ。闇夜に取り残される前にウィルディへと引き返した。

 街ではぽつぽつと夜店が客を迎え入れる準備を整えている。二人は行きつけの店へ入り、卓を囲む。藍凪もこの世界での作法に慣れ、その立ち振る舞いにあった硬さはすっかりとれていた。


 オクトノウトと出会ってから一週間が経過した。その間、藍凪はティーネと二人で周辺の調査へと乗り出し、異変を探っている。

 見て、聞いて、少しずつ世界のことを学びながら。

 この世界の常識を知るにおいて、自分の足で歩いて調査することは良い経験だったし、共に歩くティーネは得難い先輩だった。

 彼女は海中世界との付き合い方を並のヒト以上に心得ている。

 地形とそこにいる生物相、ヒトを敵対視する生物の種類、潮操種のような狂暴な生物との出会いを回避する歩き方、地形を利用した身の隠し方、聴覚情報から危険を察知する方法。

 それらを丁寧に教えられたりはしない。目の動きから足の動かし方まで、彼女の身体をつぶさに観察して吸収しようと努めていた。それが彼女と行動する上で必要である気がして。

 今日の調査自体の成果はかんばしくないものだったが、その全てが無駄ではない。


「サービスで、アブラツノザメの卵の煮つけだよ。たあんと食べな」

「わあい、ありがとう!」


 藍凪たちの卓に次々と料理が乗せられる。何度も通って既に顔見知りとなった赤髪の女主人は、狐のような鋭い顔にニヤッと笑みを浮かべた。


「いいってことさ。いっつも一人のお嬢にやっと友達ができたんだ」


 なあっ、と慌てて声を上げたのは、女主人からお嬢と呼ばれているティーネ。


「これくらいのサービスは当然さ。んでもって、これからも仲良くしてやってくれるとアタシも嬉しいよ」

「ちょっとレオナさん! 違いますから! そういうのじゃないですから!」


 大きく抗議の声を上げるティーネは珍しい。そんな彼女を派手派手しい風貌の女主人レオナは、からかうように見つめている。

 藍凪もティーネに負けないくらいに宣言した。


「うん! 任せてよ!」

「頼んだよ。じゃ、ごゆっくりー」


 レオナはその風貌からは想像できないくらい優しい微笑みを浮かべ、卓を離れて厨房へと戻っていった。不服に眉を曲げるティーネを残して。


「……違いますから」


 膨れているティーネをよそに手を組み合わせて食前の挨拶。ティーネも渋々と藍凪に合わせる。そうして二人して料理に手を付け始める。


「はぐっはぐっ、うまあい……」


 すり身魚の焼き物に食らいつく藍凪。これが柑橘の香りがするタレとよく合う。さっぱりとした風味が舌に染み入った。

 海中世界の食を堪能する藍凪を、ティーネが見つめている。


「楽しそうですね」

「んあ、そうかな? おいしいものを食べているからかな?」

「今のことだけを言っているわけではありません。いつも、どんなことをしていても、あなたはそれを……へらへらと楽しんでいるように見える」


 あー、と魚の串焼きに噛り付こうとした口を止める。

 ティーネの言葉にはざらつくものがあった。


「どうしたの? なーんか嫌味こもってない?」

「とても真面目な態度には見えませんから」

「あー、それはごめん。いろいろが新鮮だから楽しいんだよ。この世界も、この街も、ティーネと過ごす毎日も、この串焼きも。けっこう気に入ってるんだ」


 よく火の通った肉をひと齧り。もぐもぐさせながら言う。


「なんかこう、何もかもが色あせてないって感じがするよ」

「まるで、ここに来る以前はひどい場所にいたみたい」

「これ、おいしい! ティーネも食べてごらんよ」


 ティーネのその質問には付き合おうとせず、適当な料理の感想を言った。

 あまり過去のことを話したくはなかったから。

 今ここにいる時間を、この場所を、あの・・世界から切り離された自分を大事にしたかった。それが盗んだものを抱え込んで隠すような、ちゃちな隠匿いんとくに過ぎないとしても。


「……あなたの言葉にはいつも雑音が入る。その雑音は、あなたの過去を聞き出そうとすると、いっそう大きくなります」

「それも、その眼の能力?」

「ええ。だからこそ、あなたを信用したくとも、雑音が邪魔をする。正直、あなたを見極めるのは不可能だと思ってしまいます。……こんなことは初めて」

「それは困るな。ティーネはボクの友達だもん。できれば信じてほしいんだよ」

「友達……」


 ティーネはその曖昧な響きを、不安そうに呟く。

 彼女の言葉は一片の嘘もない誠実さでできている。だからそれが本当に彼女の懊悩なのだとわかった。


「ティーネ、あーん」


 アブラツノザメの卵をフォークで刺して、作り物のようなティーネの顔の前に持っていく。


「何のつもりですか」

「あーん?」

「そういうの、苦手です」


 嫌がる彼女は藍凪からフォークを掴みとり、自分で口に運んだ。


「いけず……」


 ぼやく藍凪をよそにもくもくと咀嚼。育ちの良いお嬢様みたいだ。口のものがすっかりなくなってから、「あなたは――」おもむろに話を再開する。


「距離感というものをわきまえてください。あなたのことはシャーハンさんから頼まれたから仕方なく面倒を見ているだけ」

「でもボクたちは一緒の家に住んでるよね。それって場合によっては、友達以上の関係ってことにならない? 食べさせ合いっことか当たり前なんじゃ――」

「今すぐ追い出せば、そんな戯言も言わなくなるでしょうか……?」

「もう言わない、もう言わないから……」


 藍凪は身を縮こまらせながら、ティーネから返されたフォークでアブラツノザメの卵を刺し、口へ放り込む。独特のねっとり感。でもおいしい。


「大体アイナは、ふざけてばっかりなんですよ。今日だって、カクレテッポウフグ相手に射的の的役でもやっていたんですか? 楽しんでばかりじゃ何も上達しませんよ」

「あれは必死だったんだよ! ボク、泳げないし。こんなナイフでどうしたらいいってのさ」


 腰にある電気クラゲナイフを引き抜く。


「見るからに弱っちい! あと頼りない! ボクにもその銃みたいな、めちゃめちゃ強い武器があったら、もっと役に立てるのに。そしたらボクたち、きっと最強だよ」


 彼女が傍に立てかけている〈一条明星ファーストスター〉を指さす。それは彼女が初めてシャーハンに造ってもらった潮流武器なのだそうだ。

 内部にマナを通せばその真価を発揮するらしいが、藍凪はまだ見ていない。


「これを担いだところで、アイナに使いこなせるとは思えませんが……というか、あなたとは今回限りのはずですよね?」

「え? ボクたちコンビを組んだんじゃないの? これが終わったら、色んなところへ一緒に冒険に行ったりするんでしょ?」

「勝手に記憶を捏造しないでくださいよ……」


 ティーネを置いて藍凪は想像を膨らませた。キラキラと目を輝かせながら。それこそ自分の求めていたものなのかもしれないと、胸を躍らさずにはいられない。


「一緒に冒険…………」


 口にしたのは、ティーネ。一瞬だけ、その単語に眉を上げて、


「……いえ、慣れ合う気はありません」


 呟かれる返事。藍凪は思い切り声をあげて落胆を示した。


「ええぇー! なんでぇー? ボクを期待させておいて! 心をもてあそばれたぁ!」

「ちょっとアイナ。あまり大きい声出さないで。恥ずかしい」

「いいじゃん、他にお客さんいないんだし。いつもそんなに多くないけど」


 おーい聞こえてるぞー、と厨房から声が飛んでくる。

 だが今日は確かに客がいない。いつも少ないとはいえ、今日ほど店内が寂しいというのは稀だろう。


 それから何度説得を試みても、ティーネが首を縦に振ることはなかった。その理由も教えてはくれない。しまいには「食事をしたいので静かにしてください」と黙らされた。

 途端に食卓は静かになる。


「こりゃ別の店に客取られてんね。最近どこだかが賑わっているらしいけど」


 これじゃ商売あがったりだ、と奥で文句を言うレオナ。そんな独り言ばかり、客のいない店内にはよく響くのだった。

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