海の底、地上は遠く 3
周囲の空気がパチパチと弾け始める。瞬間的に現れては消える光の糸屑が宙を
それを見てやっと、藍凪はシャーハンの肩に取りつく。首にまわした腕にざらざらとした手触りを感じた。シャーハンが立ち上がると、藍凪の視点はおよそ二倍ほど高くなる。
「心の準備はできてるかイ。最ッ高に飛ばすから、意識だけは手放すなヨ」
度重なる確認に「うん」と頷く。頭上ではギョクライコウが光を発している。光源は顔の後ろについている幾本もの針山からだ。それは逆立って広がり、先をこちらへ向けている。まるで照準を合わせるかのように。
はち切れんばかりに発光するたてがみから漏れたのは、光糸を束ねた雷。
「シャーハン、あれは――」
サーペントの挙動に見入っていた藍凪は、シャーハンに目線を戻して驚いた。
自分はシャーハンに背負われる形、しかしシャーハンの足までもが地面から離れているのだった。
「ふわあ、浮いてる! なにこれ? 魔法!?」
「黙ってないと舌を噛むぜ、お客様!」
嫌な想像をして、んぐ、と口をつぐむ。ここまで来て、シャーハンが何をするつもりか分かった。
首にまわした手を強くする。
ギョクライコウの広げたたてがみからは雷が糸状に
「
シャーハンが不可思議な文言を紡ぐと、彼の体に触れる空気が変わったように感じた。何かの力が彼を引いて前方へと運び出そうとしている。
「シャーハン、今なにを――」
言おうとして、慌てて口をつぐむ。本当に舌を噛んでは大変だ。
彼は両足と両手を地に着けて屈むようにした。それは陸上選手にも似たスターティングポーズだ。
人にとって地面とは踏みしめるものだ。楔を打ったように固定した足を、走り出す直前に開放する。そして次の一歩のために、また踏みしめる。
水中であれば一度でいい。蹴りつけ、地面から返ってくる衝撃をよすがとし、身体を運ぶ水流へと漕ぎつける。
膨張しつつある強大なエネルギーが二人を焼き尽くす、その前に、宙へと飛び出した。
疾走。スタートダッシュは爆発的で、実際に先ほどまで隠れていた岩場が爆砕される音を聴いた。雷撃が直撃したせいだ。岩場は小型生物の住処でもあっただろうが、その多くは死滅してしまったかもしれない。だが、今はそんなことに構っている余裕はない。
それは切迫というより、興味の問題。
間一髪で命の危険を脱したというのに、そのことに対する焦燥の余韻や安心は薄れている。それ以上に宙を駆ける感覚に夢中となっていた。
めくるめく海底模様の連続。同じく宙を泳ぐ深海魚を追い越し、地を這いつくばるヒトデに見送られる。ジェットコースターみたいだ。
いまだかつてなく爽快だった。
「すごぉい! 飛んでるぅー!!」
藍の空を飛ぶように泳ぐ。
彼は膜が張られた両足を一つの尾ひれにして、絶え間なく水を蹴りだすことで推進力を生み出している。その速度は並みの魚とは比べるべくもない。イルカとも遜色ないくらい速い。
「どうやって浮いたの? やっぱり魔法? ボクにもできるのかな?」
泳ぐどころか、未だに肌に水を感じない藍凪は、彼の技術に興味津々だった。
「地上にいたお前にはわからねぇカ! この海に満ち満ちているマナ――『
「しおみず?」
「詳しくは後でナ。この窮地から無事に逃げおおせることができたら、その時ニ!」
そう、まだだ。雷の一撃を避けたといっても、それで相手が諦めたわけでもなかった。
背後からサーペントが、せっかく見つけた獲物を取り逃すまいと追い縋ってきているのだ。
まるで怒りの形相で、あらゆる生物を一刺しにする牙を、口のもの寂しさに動かしている。大人しく喰われろ、と。
「どうしてボクらばっかり狙うのさ! ごはんは他にもいっぱいあるだろうに!」
「サーペントはどうしてかヒトってやつが特別に嫌いなのサ。そして一度獲物と定めたものはしつこく狙ウ。厄介極まりないやつダ」
「追いつかれないよね?」
さすがに心配になってこぼれた一言。それが一瞬、シャーハンの何かに触れたようだった。
「……いいか、泳ぎの速度に関係するのは筋力や体の大きさ、重さ、手や足の使い方。だが最も重要なのは、
「それなりて……」
若干の不安が残る物言いだ。
「そしテ! それら細かいことは、実はどうでもいイ! 何故なら俺は、絶体絶命のピンチにこそ燃え上がってしまう男なのサ!」
一際強く蹴りだして、魚人の体はさらに加速を見せる。藍凪がしがみつくのに精一杯の勢い。サメの見た目はダテではない。
それはプライドか。炉から溢れださんばかりの情熱を、彼の無機質な眼の奥に見た。
一方でギョクライコウも容易に見逃してはくれない。図体が大きくとも鈍重ではないようで、加速したシャーハンにしつこく喰らいついてくる。
「どこまで逃げるの?」
「ウィルディという街ダ。そこまで逃げ込めばとりあえず助かル」
こんな凶暴な生物を街まで連れて来ていいものかと思ったが、シャーハンの口ぶりからすると、そうしたことは珍しくないのかもしれない。
問題はそこまで達するまでに無事でいられるかということだ。背後からはまた、先ほどと同じようなエネルギーの膨張が起こっていた。
シャーハンがいくら速くとも、後ろから狙い撃ちされるという構図に変わりはないのだ。
あと少し、一息に引き離すほどの速度差であれば、あるいは。
余計な荷物がなければ、シャーハンはその速度を出せるに違いない。何が彼の足を引っ張っているのかは明らかなのだ。
藍凪はそこまで考えが及んだところで思った。自身の行く末を。
この場を切り抜けたとして、街までたどり着いて、この世界での生活というものが得られたのだとして、じゃあ何をするのか。
自分を殺した自分が、何を。
ここでもまた同じことをするつもりなら、いつでもいい。後でも先でも、それが今であっても。むしろ誰かを助けられるというだけ、選ぶべきタイミングは自明のようにも思える。
カッコいい終わり方だ。それで十分じゃないか。
けれど、何故だろう。手が離せない。
一度捨てた命をもう一度手放すだけのことが、どうしてもできない。
なぜだろう。
怒声が聞こえた気がして、藍凪はふっと意識を持ち上げる。ぼうっと考えすぎていたようだ。眼前にあるシャーハンの口が激しく動いていた。よく意味が聞き取れなかったが、「ぼけっとするナ」とか、「しっかり捕まっていロ」なんてところだろう。
顔の真横を細かい雷の筋がはしって通り抜ける。ギョクライコウは先ほどのような一点集中の攻撃ではなく、たてがみの先でつくり出した小さな雷を撃ちこんでいるようだ。
しかし散発的な雷の射撃も、シャーハンは器用に避ける。藍凪が気を揉んだことを笑い飛ばすように。背後から迫るギョクライコウと戯れているようにも見えた。
高い岩山の連峰をくぐり抜けて急降下。眼下にあったのは、高低差のある地形の隙間に造られた建物の数々。人工の明かりに包まれたヒトの暮らしだった。
壮観な眺めを、楽しむ時間が今はない。
街へ影が落ちる。住民はなんだなんだと顔を上げ、宙に突如として現れた怪物の姿を目撃する。
そして、もうひとつ。
暗く染まった灯台に灯る、紅を。
パシュウッ。空気の抜けるような音。視線の上部を赤の線が通り抜ける。藍凪が振り返って見れば、そこでは既に、薄緑のサーペントが大量の血を撒いて苦しんでいる。
「着弾。次」
落ち着いた声が聞こえた。その後二つ続けてパシュウッ、と音が鳴り、流れるほうき星。やっとそれが銃の音だと気づいた。暴れ狂う海竜は傷を増やしていく。
ギョクライコウもやられるばかりではない。標的を灯台に定め、苦し紛れの雷を放つ。
「
同じ声が言葉を紡ぐと、灯台の前に白い直方体が現れて雷を妨げた。
四度目の銃声が鳴る。それもまた吸い込まれるかのように、薄緑の表面に穴を開ける。
よほど痛手を負ってしまったらしい。サーペントは進路を変えて離れていく。
「何が近づいてきたかと思えば、あなたでしたか。怪我はありませんか?」
地面近くまで降りて行ったシャーハンに、長い槍を持った男が話しかけてきた。意外なことに男の顔は魚っぽくなく、ちゃんと藍凪の知る人間の姿をしていた。
「おう、助かっタ」
「私どもは何も。礼なら彼女に」
「そうだナ。しっかし、相変わらず綺麗な流星だったよなァ」
シャーハンが目を向け軽く手を挙げた先、石で作られた灯台の上から、桃色の髪の女の子がフードを脱いで顔を出した。
澄ました表情に、わずかの間、見蕩れた。
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