海の底、地上は遠く 2

 広大な地球の表面積のうち、約七十パーセントは青い海が占めているという。そして波打つ海面の裏側には、最大深度一万メートルにも及ぶ深海世界が広がっている。そう聞いたことがあった。

 ここが地球であるかは全く不明。だが藍凪が立っているこの場所は、どうやら海の底であるらしい。

 見上げる頭上は藍色の宙。辛うじて光の残滓が届くばかりで、いつも教室の窓辺から見上げていた青空よりも深い。太陽は遥か遠くで姿も見えず、雲の存在など感じることもできない。

 そんな宙を幾多の魚類が通って宙空に影を映す。岩の隙間から時おりガラス玉のような気泡が吐き出されて地上へ昇る。

 降る光の屈折と、息づく生物の影。藍凪を取り囲む景色は透き通る青と光彩の魔術だった。


「海の中、なんだ」


 理解半分、疑問半分。

 知っているのは、自分がここの住人ではないこと。

 高い場所から飛び降りたことはよく憶えている。

 どうして生きているのかは、ちょっとわからない。


「アイナ、だったカ。お前は当たり前のことを言うんだナ」


 前を歩く彼の名前はシャーハン。彼は『魚人サハギン』という種族の男で、この世界に暮らすヒト。

 空腹だった藍凪は彼から食料を分けてもらい、ついでに彼が暮らすという街まで同行することになった。


「だってさ、海の中でこうして息ができるなんてあり得ないよ」


 藍凪は重力に逆らって揺らめく長い髪を手に取りながら言う。

 髪が変色していることに先ほど気づいた。地味だった長い黒髪が、今は目の覚めるようなエメラルドブルー。

 何かの病気か、劇的な環境変化によるものか。要因は分からないが、今のところ体調が悪いということはないし、気にはならない。元の髪色に愛着があったわけでもなし。


「息ができなけりゃどうやって生きてくんダ?…………妙な恰好をしているし、街のことも知らなイ。おまけに、変な香りまでするときタ。どうもここらのヒトじゃないと見たゼ。でなけりゃどっかに頭ぶつけてアホになったか、元からアホだったか、だナ」


 岩の足場に貼りついたヒトデをまたぎながらシャーハンは言う。

 妙な恰好、と指摘された藍凪の服装はといえば、ブレザーの制服。屋上にいた時と同じの。


「……よく分からないんだ」

「分からなイ?」

「うん」


 藍凪は頷いてシャーハンの歩いた岩場に足をかけた。そのとき足を離した場所からふわりと砂が舞った。

 未だに現状を信じられていない。あまりにも景色というか、世界観が違い過ぎて、何をどう自分とつなげればいいのか。それを説明することは、とても難しい。


「でも、ボクが海の中で生まれたんじゃないってことは確か」

「おもしろいことを言うんだナ。じゃあ何かイ。海じゃないのなラ……」


 シャーハンは立ち止まって、小さな崖を登ろうとする藍凪に手を貸した。

 スカートについた砂をはらって礼を言う。彼は歩き出さず、改めて藍凪の姿を眺めている。


「なに? ごみでもついてる?」

「……もしや、地上の人間、なんてナ?」


 地上。地面の上で暮らしていた藍凪には当たり前すぎてむしろ馴染みのない言葉だが、地上の人間かと言われれば、そうなるだろう。


「そうだよ。ボクはもともと海の上に住んでた」


 藍凪が答えると、シャーハンはぱちりとまばたきをする。

 次の瞬間、大きな口をさらに広げて大笑いした。


「ワハハハハハ! そうかそうか、地上からわざわざ下りてきたのカ!」

「下りてきたっていうより、落ちてきたって感じだけどね。たぶん」

「そうかそうカ!」


 そう、落ちてきた。地上と言わず、もっと高い屋上から。

 だからこそ今こうして立っていることに現実味がない。まるで宙に浮かんでいるような、幻想に揺蕩っているような気分が抜けない。


「ボクはもう、死んでいるのかもしれないよ」

「お前が死んでいるのなら、同じ場所にいる俺も死んでいるということになっちまうナ! まあ俺の方に死んだ覚えはないガ。ワハハハ」

「むう、本当に信じてる? 嘘つきだって思うなら早めに言ってよね。真面目にしゃべってるこっちが馬鹿みたいだし」

「うん? もしやこれは冗談の話だったカ?」

「いいや、至って真面目なホントの話」

「ああ良かっタ! そうでなきゃ張り合いがねエ。まったく、この世界には俺のまだ知らないことばかりが隠れてやがって、すこぶる愉快ってもんだゼ」


 さっぱりと言い放つシャーハン。疑いを向ける様子は微塵もない。


「よく来てくれたナ! アイナ!」

「う、うん」


 すっかりシャーハンの勢いに押されてたじたじの藍凪である。どうにも彼はお気楽というか、深く考えはしない行動派という空気だ。暑苦しくならないといいのだけれど。


「だが地上から海中に、生身でカ。よくマナ飽和を起こさなかったもんダ」

「マナ飽和?」

「ああ……ってそうカ。地上は確かしおみず・・・・が存在しない世界だったカ。まったく想像もできんナ」


 こっちからすれば、年がら年じゅう水の中という方が息苦しくて仕方ないのだけど。その辺りの常識に関しても、かなりの違いがあるのかもしれない。

 シャーハンは腕を組みながら地上へ思いを馳せている様子。その時、彼は何かに反応するように鼻先を動かした。眼にはにわかに剣呑な光が宿ったように見える。

 彼の様子に触発されてか、藍凪も身震いを感じた気がした。まるで遥か先から鳴動して、体の芯まで伝えるような。


 その感覚は勘違いではなかったらしい。


「この世界のことをゆっくりと説明してやりたいガ……これは望まぬ客が来なすったようだナ」

「なんかいやな感じがするんだけど」

「ああ、声ダ。遠くから一つ、バカでかい咆哮……」


 シャーハンは近くに岩の隙間を見つけると藍凪へ手招きする。周囲は岩山の丘陵地で、隠れる場所ならいくらでもある。


「深海初心者のお前がまず初めに知っておくべきことだが、この世界には厄介なやつらがいル」


 次の咆哮を何とか耳で捉えた。遠くから、他の音をかき消す甲高い叫び。

 断続的に繰り返されるそれは、徐々に近づいてくる。


「海竜の類、『サーペント』は、その最たる例だナ。出会っても立ち向かうべきではなイ。どんな手段を使ってでもやり過ごセ。それがこの海で生きながらえるための知恵ダ。ちゃんと記憶しておけヨ?」


 声を潜めつつの説明に、藍凪は頷きだけ返す。わずかな声でも発するのが恐ろしかった。

 近づきつつある声が通り過ぎるのを待つ時間。怪物の到来までがひどく長くて、息苦しい。

 そして岩陰の隙間から、その姿が見えた。

 遠い青色の果てから現れる。薄緑の長い体が印象的だ。全長は二十メートルにも届こうかといったところ。例を示すならばヘビに近い体だが、ただの爬虫類と比較するには存在の規模に差があり過ぎる。


「雷撃のギョクライコウ……」シャーハンは苦々しく呟く。


 顔面は獅子に近い。下顎から伸びた二本の太い牙が口に収まりきらず飛び出している。如何なる用途かは明白な凶暴性が、そのギョクライコウと呼ばれた生物を象徴しているかのよう。獅子のたてがみの部分は乱立する無数の剣先のように見える。

 あまりに奇妙な姿かたち。ヒレもなしに、しかしするすると滑るように泳ぐのが、どこか現実離れしている。

 シャーハンは人差し指を自分の尖った口先に当てて藍凪に示した。

 二人の隠れた岩場の付近に怪物はやってくる。それが何かを探すかのように見えた。そのまま通過するかに思えたが。

 進行方向を急に変え、藍凪たちの頭上を行き来しながら滞留した。


「見つかっタ」

「えぇ?」藍凪は微かな声で驚嘆を示す。

「面倒なことになったナ」


 隠れた岩の隙間は小さく、巨大なギョクライコウが通れる空間はない。だからこのまま隠れ続けていれば、いずれ諦めるはずだけれど。

 間近に迫った咆哮の震動は耳だけでなく体を貫くかのようだ。それに怯えてか、海の景色を飾っていた魚たちが姿を消している。一匹で悠然と泳ぐサーペントには、王者の風格が漂っていた。

 ギョクライコウは藍凪たちの頭上で周回軌道をとったのち、宙に留まった。


「諦めた……のかな?」

「……ようし、そろそろ危険ダ。アイナ、今すぐ俺の肩を掴メ。ここから離れル」

「え? だって」


 ギョクライコウは諦めたのでは? 今もこうして泳ぎを止め、岩の上でたてがみを開いているばかり。


「様子を見たい気持ちは分かるが、なるべく早くしてくれヨ。でないと消し炭になるゼ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る