海の底、地上は遠く 1
揺らぐ体の感覚があった。
「ん……んうぅ……」
どことなく座りの悪いその揺れは、赤子を眠らせる揺り籠というよりは悪路を行く車のよう。深い眠りの際に叩き起こされる不快感を以って、藍凪は半強制的に目覚めさせられた。
目を開けると、誰かの首筋がある。血管の張り出たたくましい首。
どうやら誰かに背負われているようだ。
――かたい。ねごこち悪い。
単純な感想で切って捨てながら、頭の位置を変えて再度目を閉じる。もうひと眠り、と。
まどろみはすぐにやってきた。しかし、
「おうい、起きたカ」
自分を背負っているらしい人からだろう。無骨でごわごわとした声が耳にこすりつけられる。
聞き覚えのない声だ。
――うるさい、なぁ。
状況への不信感よりも倦怠感の方が勝っている藍凪だったが、さすがに返事をしないわけにはいかない。
しかし、そこではたと思う。
さっき一瞬だけ見えたもの、何かがおかしくなかったか。
目を開けたとき視界にあったのは、知らない人の首と背中。いや、知らない人というレベルでなく、記憶という記憶を網羅しても一致する特徴が見当たらない。別段、首の形状で人を見分けることに自信があるわけでもないが、それでも分かるくらいの強烈な違和感。
形は問題なかった、と思う。自信はないけれど。もっと確実におかしい部分があったはず。
確かめてみようと、藍凪は恐る恐る少しずつ目を開いた。
寝ぼけまなこに映った太い首筋の色。
奇妙な青色。血管の青筋なんてものではなく、一面の。
「やっぱり起きているじゃねえカ」
藍凪を背負った何者かがちらと目を向けた。その横顔は、彼女が知る筈のない形をしていた。
「う――――」
「あア?」
心臓が凍りつくかのようなショック。たっぷり十秒は固まって、ようやく鼓動を思い出す。だが次に襲い来るのは、反動のような大暴走だ。
「わああああああぁぁあぁぁぁぁああああああああ!!」
目の前の背中を押しのけ、蹴り、飛び跳ね、そして盛大に頭から転落した。藍凪はやや無様な恰好から急いで相対し、仰向けに這うように後ずさった。完全にパニックだった。
それも仕方がないと言えば仕方がない。出会いに驚きが伴うのはままあることだが、程度が過ぎれば前後不覚にもなる。
そもそも藍凪が知る人間とは二本の足で立ち、二本の腕を持ち、ところどころに体毛が生えている。そして肌の色は薄橙色。人によっては白や黒に寄ったりする。
目の前に立つアレはどうか。
四肢があることは人間と同じ。だがそれ以外は似ても似つかない。体毛は頭の先から足まで一本も生えていない。肌の色は、深い青。
そして顔の形こそ最も違和感を覚える。全体的に前に突き出たつくりで、そのせいで口は広く大きい。目はギョロリとしていて、頭頂部には三角のトサカのようなものがついている。
「な、なな……ひゃうっ!」
後ろについた手がぬるりとした何かに触れた。
背後にいたのは水風船のような形をした小さなタコ。足の間に薄い膜を張ったフレアスカートをぷくりと膨らませている。藍凪に触れられたタコは不機嫌そうに地を這いながらどこかへ行った。
戸惑う藍凪の視界に奇妙な魚影が映る。ギョロ目にやたらと凶悪な牙を持った長い体の魚。ヒラヒラと風になびくように宙を泳いでいる。
「うぇ……え……?」
藍凪は状況を呑み込めない。呑み込めるわけがない。
これまでに見たことのない光景たちが目と鼻の先で遊泳している。まったく知らない生物ではないのかもしれない。だがそれにしたって非現実的だ。本来は水面の下に見下ろすそれらが、自分の目線より上の宙に浮かんでいるなんて。
夢だ、と咄嗟に思った。それ以外にこの状況を説明する術が見当たらない。
「なア」
声をかけてきた、アレ。
人のような姿でも絶対に人ではない。藍凪の二倍近くはある巨体に、指の隙間に膜が張られた大きな素足、両腕の側面にあるヒレ、頭のヒレ、首筋にはしる五つの筋。そうした奇異な素肌に作業着のようなオーバーオールを纏っている。
前にせり出した顔はサメを思わせる形。こういう姿のモンスターを、ゲームの中で幾度も倒したような気がする。
「な、なんなんだよお前!?」
「なんだとはご挨拶じゃねえカ……どういうわけかサーペントの出る海域で昼寝しているお前を、わざわざ拾ってきたってのニ」
「何言って……ちょっとストップ、近づかないで!」
藍凪は警戒心を剥き出しにしてその魚人を押し留める。彼女が猫であれば毛が逆立っているだろう。魚人が一歩でも寄って来ようものなら、すぐさま逃げる心づもりだった。
不可解な状況に、おっかない生物。とにかく気が動転して、鎮めることもままならない。
「そのままだぞ、そのまま……」
言葉が通じるのが幸いだった。相手は藍凪の言うことにとりあえずは従っている。
けれどこの状況はどうしたものか。すぐさま逃げるべきか。だがあの体格に追われれば逃げ切る自信がない。
魚人が腰につけたバッグからは、鉄の鈍い光が見える。恐ろしい凶器に違いない。
どうしよう。どうするべきだろう。ここからどうにか脱出する方法は。そもそもアイツは何のために自分を運んでいたのだろう。
「あのなあ、そんなに怯えることないゾ。
弁明する魚人だが、きっと安心させるためだけの上っ面の態度だ。そんな文句はどんな不審者だって口にする。
「そうダ! 俺について来れば、特別にいいものをやるヨ」
「出た! 不審者が言うセリフナンバーワン! 怪しい! 絶対ついて行かない!」
「何を言ってるんだカ……ただ俺が持ってる旨い弁当を食わせてやろうとだナ――」
弁当? あの腰のバッグに入っていると? いや、騙されるな。
あのサメのような見た目だ。明らかに食生活は自分と異なる。主食は肉か。ごはん、獲物、肉の塊、すなわち目の前の――
『お前が今から弁当だア!』
頭の中でサメ男がくわっと口を開けた。
「ボクを食べるつもりだな!?」
「いや食わねえヨ」
藍凪としては真剣そのもの。だが魚人は呆れ返った様子で頭の後ろを抱える。
「参ったなァ。あんまり子供をここらの海域に放っておくのも良くないんだガ……なあお嬢ちゃん、お前はどこから――」
魚人の言葉に、唸り声でも聞こえてきそうな藍凪の剣幕。
けれど先ほどのやりとりで思い出してしまったのだろう。自分は今とてもお腹が空いているということを。唐突にぐうぅ、と腹の虫が鳴り、不思議とよく響いた。
魚人がギョロ目を開き、「まさか……俺を食べるつもりカ?」とたじろいだ。
「た、食べるか!」
「だろうナ」
魚人は固そうな口をニヤリと曲げて、バッグの中から植物の葉の小包を取り出した。それを開けると、中からは焼いた肉の団子が二つ。
香ばしい匂いに、知らず開いていた口から涎が出て、慌てて拭う。
「腹が減っているのなら、分けてやらんでもないガ」
魚人は巨大な団子を五つの指で持ち上げて言う。香草と一緒に練り込まれた肉の塊を、上を向けた口に放り込んだ。存在感のある塊をよく噛み砕いては呑みこんでいく。やたらと旨そうに見えた。食べ終わった魚人は仕上げに指についた油を舐め取り、藍凪の方を見た。そして肉団子が入った包みを差し出す。
「さあどうすル?」
そんなものを見せつけられて、喉が鳴らないはずがなかった。これはもう、ほとんど不可抗力だ。そう自分に言い訳して、
「…………ちょうだ……く、ください」
何とか敬語に変換して、遠すぎる距離を近づいて詰めた。
魚人は「あア」とだけ返事して、包みを持っていく現金な藍凪を咎めもしなかった。
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