アクアマリンの宙の底より

海洋ヒツジ

プロローグ

 チャイムが鳴って、卒業式が始まったことが分かった。

 三年生は体育館の前に集まって、入場前の待機をしている時間。列になって生徒同士で確認し合うので、その中で誰がいないかなどはすぐに知られるだろう。


「ねえ、見たかい?」


 沖見おきみ藍凪あいなは覗いていた窓から離れ、階段を上へ上へと向かっていった。途中で気づいて胸の飾り花を外し、後ろに置いて残す。

 校舎屋上の鍵を人差し指でチャリチャリと回しながら、藍凪の頭には式の前から涙する同級生の姿が思い浮かんでいた。


「みんな今日で卒業なんだって。泣いてる人もいたよね。あれ、なんなんだろうね」


 呟く言葉は誰にも届いてはいない。傍から見ればただの独り言。

 けれど、それは誰かへ向けた言葉だった。ここにはいない、そして卒業の列にも加わっていない、彼女へ。


「どうしても想像できないんだ。ボクがあそこに加わって、あんな風に泣いてるところ。だってそうでしょ? 思い残したことばっかで、卒業なんてできっこないよ」


 もともと未来なんてものを描くのは苦手だけれど。それでも希望くらいはあったのに。


「やっぱりキミがいないと……灯里ともり


 鍵を回し、扉を開ける。

 ひらけた空は灰色の雲が滲みだしたような暗黒模様。彼女の心情に畳みかけるかのように頭上を覆う。

 遠くには海も見える。深く、暗く、怪物でもいそうな黒い水たまりが、強い風にさざ波だっている。いつか彼女とも一緒に行った思い出ごと、汚されたかのよう。


 さよならを告げるには良い日和。

 それを告げる相手は、この世界にいないけれど。


「見ててね、灯里。ボクは今から世界を滅ぼすよ。そしてキミのところまで飛んでいく」


 唯一無二の友達に呼びかける。もはや虚しいだけの響きに誘われるように、藍凪は転落防止のフェンスを乗り越え、屋上の縁に立った。

 思いをはせる空へ身を乗り出す。フェンスを握るこの手の握力だけで、自分の人生すべてを支えている。

 結局、灯里がいないと駄目だった。生きにくいままに時間が過ぎて、縋れるものも何一つなかった。

 時間が過ぎていくと彼女との出来事が薄れて、やがて忘れてしまうのが怖くなった。

 だから。奪われてしまう前に。


「ボクのいるところは、ここじゃない」


 風が、止まった。

 その一瞬だけ訪れた凪の時間。気付けば手が何も握っていない。

 冷たい空気に体を預けて、一瞬ふわりと舞い、そしてどこまでも堕ちていった。

 底まで、止まることはなく。

 その日の空はずっと降り出しそうな雨に濁っていて、予報によると、太陽は顔を見せないのだそうだ。


 飛び降り自殺をしたくなるのは、きっとこんな日だ。




 そして額がひやりとした水面に触れた。




 先の見えない闇。天から降る光は遠く離れて潰え、とうに追いつかない。

 冷たい暗闇の中を、藍凪はひたすら下っている。自分の足でではない。ただ重力に従って。

 まるで母親の胎内でレントゲンに映し出された赤子のような格好だ。実際、藍凪はこの状況で赤子と同程度には何もできなかった。

 体を動かすことも、目を開くことも、呼吸すらもままならなかった。

 藍凪の体全てを強く締め付ける圧力。空間がそのまま彼女にとっての重りとなって、あらゆる行動と感覚を蝕んでいる。

 だから彼女に分かるのは苦痛のみ。体まるごとプレス機に掛けられるような痛み、酸素が枯渇していく息苦しさ、そして耳鳴り。

 キリ、キリ、キリ。自分が小さくなっていく、その音。

 せっかく死んだのに、これはあんまりだ、と思った。

 藍凪は懐にあった手を伸ばした。怖いと感じたからだ。

 死ぬことは怖くない。本当に恐ろしいのは一人ぼっちであること。それを自覚すること。

 誰にも知られず、抗うこともできないままに潰れて終わる。それが寂しいことのように思えて、にわかに焦りが滲みだしてきた。


 何でもいい。何かに触れたいと願った。


 手は僅かな抵抗を含んだ空間を素通りする。

 滅茶苦茶に叫んだ声は形にならず、ごぽりと空気の塊を吐き出す。

 永劫に続くのではないかという責め苦。いつまでも終わらない。終わりたくても終われない。死までの過程という最も苦しい部分が、しぶとく引き延ばされ続けている。


 終わりたい。


 ――終わらせないで。


 早く楽になりたい。


 ――なくなるのは怖い。


 いっそ殺して。


 ――誰か助けて。


 死にたい。


 ――――――。


 永遠に続くと思うのは傲慢だ。たとえそれが苦痛であっても。

 もがいたことは最後の抵抗くらいにはなったのだろうか。はたまた滑稽に踊った挙句、死期を早めただけか。

 やがて藍凪は体力を使い果たし、体は暗闇の中へと無抵抗に投げ出された。そうして意識も閉じていった。

 痛み、苦しみ、もがいた始末。


 だがそれは全て、生きているが故に発される叫び。懸命な叫びは響き、空気を揺らす。

 揺らした大気が伝わり届けば、全てを見ているソレ(・・)は、必ず現れる。


「土臭い空気だ」


 底に叩きつけられる直前だった。どこかからの声とともに砂粒が、サラサラ、と音を立てて舞い上がる。砂は落下していた藍凪の体を優しく迎え入れ、地面に横たえた。

 藍凪に近づく闇の中の影があった。

 それは藍凪の頭、目、鼻をそれぞれ検分するような手つきで触る。


「地の上に生きる者に、このしおみずは辛いだろう。世界に認められない者は消え、泡と帰するのは必然の理。最低限の条件すら持ちえない人間に生きる権利は与えられない……だけど」


 暗闇でそれが嗤った。蔑み、嘲り、しかしたった一片の期待を込めた眼で。


「面白い運命ながれを持っているようだね。とある因果、あるいは罪か。厄介なものを抱えている。だからこそ、ここで死ぬのは早いようだよ。――きみは既に叫んだ。なら、今さら同意は要らないだろう」


 そう言って影は藍凪に両手をかざして処置を行った。目、鼻、肺、それから肌という肌全て。

 事を終えるまでの数時間に起こったのは、一個の生命体の変革だった。古いものの上から新しいものへ塗り替える。新しい世界への適応は、すなわちまったく別の存在への生まれ変わり。

 必要なものを施して影は立ち上がった。その足で軽く地面を蹴ると体が浮き上がる。


「この世界は新しいきみの目にも新鮮に映るだろう。きっと退屈はしないさ」


 二度とは戻れない代わりに手に入れる、違う世界へのチケット。

 これより始まる物語は、他の誰のためでもない。


「それじゃあ、きみという物語に、良き流れのあらんことを!」


 影が去る。藍凪はひとり取り残される。


 新しい彼女が初めて目を覚ますのは、一時間ほど後のことだった。

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