第110話 彼女の名は......

 部屋の空気がピリピリと張り詰めていく中、エルザとジョンの視線が交錯する。


 エルザは短剣を握りしめた右手を後ろへ隠すと、平静を装いながら、鋭い眼光で自分を見つめてくるジョンと呼ばれる老人に向かって話しかけた。


「ジョン様こそ、こんな夜更けに未婚の女性の部屋に忍びこむなんて、少々度が過ぎるのでは?」


「致し方ありません。チカ様はお嬢様達の大切な恩人。その恩人の命に関わることですから」


「そうですか。この娘はずいぶんと周囲の人間に愛されているのですね……。ではあのメイドも貴方の差し金で?」


「ええ。チカ様は少々無防備なところがありますからなぁ」


 ジョンの言葉を受けて、エルザはわずかに口元を緩ませると、ジョンに向かって冷たい口調で言い放った。


「……なぜ気づいていたんですか?」


「貴女の足音ですよ」


「足音? 疑念を抱かせる点などなかったはずですが……」


「長年培ってきた動きというのは完全に消し去ることなどできないものですよ」


「私がミスをしたと。貴方はそう言いたいのですか?」


「いえ。貴方は完璧でしたよ? おそらく幼少より相当な訓練を積んできたのでしょう。非常に優秀な暗殺者だ」


「ならどうして?」


 ジョンは少し考えて。


「そうですね……。私も貴方と同じだったから。っとだけ申し上げておきましょうか」


 エルザは瞳を大きく見開いた。ジョンは言葉を続ける。


「さて。話はこのぐらいにして……。エルザさん。このまま大人しく捕まってはくれませんか?」


「そんな事できると貴方は本気思っているんですか?」


「難しいでしょうね……。できれば女性を傷つけたくはなかったのですが。仕方ありませんね」


 ふたりが武器を構え、殺伐とした雰囲気が周囲を包み込んでいく中。不意に聞き覚えのある声が部屋中に響き渡った。


『まだ続けるの?』


 突如として響き渡った声。奇しくもジョンとエルザは同じ疑問を抱いていた。


((いつからそこに……?))


 ふたりが驚くのも無理はない。臨戦態勢に入った状態でこの距離の気配を見過ごすなんて未だかつてない経験だった。


「命拾いしたわね」


 チカの声に、ジョンとエルザはハッと我に返った。


 エルザは任務の遂行はもはや不可能と判断して、ため息をついた。


「ジョン様に感謝することですね。彼さえいなければ、今頃私は仕事を終えていたのですから……」


「チカ様! すぐに武器を構えてください。エルザ様は暗殺者です」


「心配は無用です。私はこれで失礼させていただきます」


 そう言うと、エルザは窓に向かって足を踏みだし、強く地面を蹴った。


 次の瞬間。ジョンの視界からエルザの姿が一瞬にして消え去り、空間が波打つように不自然に歪んだ。


「これは……。チカ様は一体何を……?」


 ミシミシと床が軋む音が鳴り響く。


「──ッ!! ぐっ……!」


 エルザは地面に這いつくばりながら、小さく呻き声を上げた。


『……逃げられると思った?』


 身体がピクリとも動かせないことに困惑と恐怖を感じながら、エルザは顔を上げチカを見つめた。


「ぐっ。こ、これは一体……?」


『まったく。話がまだ途中でしょ? だいたい貴女は何を勘違いしているの?』


「勘違い? な、なんの話ですか?」


『はぁ……。あのね? 私が命拾いしたって言ったのは貴女のことなのよ?』


「何を訳の分からないことを……」


『まあー、信じる信じないは貴女の勝手だけどね。でもほら。私がその気になればこんな風に……』


 チカがそう言うと、メキメキと床が軋む音が鳴り響き、エルザの身体が床を砕きながら、深々とめり込んでいく。


「ぐぎっ!! やめ……て……ゆる……し」


 エルザは苦痛に顔を歪めながら懇願するようにエルザはチカを見つめた。直後、エルザの背筋に悪寒が走る。


「ぷっ! あはははっ! そうね。この子ならやめてくれたかもしれないわね」


 チカは口元をニヤリと歪めると、まるでゴミでも見るかのような冷ややかな目でエルザを見下ろした。


「……でも私は違う。この子に危害を加えようとしたんだもの。貴女には一生をかけて償ってもらうわ」


 チカがエルザに向かって手をかざすと、エルザの首元がまばゆい光を発した。


『ほら、もう動いていいわよ?』

「いまの光はいったい……?」


 エルザは起き上がると、首元を確かめるように両手をあてた。


「これは……。首輪? こんなものを私につけて一体どういうつもりですか?」


『ふふっ、気づかないの? まあいいわ。いまは貴女に構ってる時間はないの』


 再びチカが手をかざそうとした、その瞬間。シィーがもの凄い勢いで扉を開けて、部屋の中に飛び込んできた。


「チカっ!? いまのウネウネしたのは一体何なの!?」


『ふふっ。重力波で気づいちゃったのね』


 クスクスと微笑むチカの様子を見て、シィーはゴクリと息を呑んだ。


「また入れ替わってるの……」


『正解♪ でもいまは貴女とゆっくり話してる時間はないの』


「待つのっ!! チカの身体で今度は何をするつもりなの?」


『黄昏っていう組織を消してくるわ。この世界から跡形もなくね……』


 エルザは大きく目を見開いた。


「なっ!? どうして組織の名前を……」


『時間がないって言ってるでしょ? 貴女はそこで黙って見てなさい』


「ッ!?」


 エルザは口をパクパクさせながら喉元に手をあてた。声がだせない。その事実に気づきエルザの顔がみるみると青ざめていく。


『ぷっ! アハハハハッ!! まるでエサを欲しがる鯉みたい! そうだ。面白いから貴女はしばらくそうやって反省してなさい?』


 チカは口をパクパクさせるエルザから視線を外すと、何もない空間に向かって手を前に突きだした。


 直後、ほのかな光が収束しまばゆい光を放つ大きな扉が出現した。


「なっ! 精霊魔法!? いや違うの。これはもっと別の……」


 驚愕するシィーをよそに、チカは悠然とした態度で光の扉に歩み寄りそっと両手をあてた。


「あっ! 待ってッ!! 今日こそ教えてもらうの! 貴女は一体何者なの?」


『またそれー? 秘密っていったじゃない』


「でも名前ぐらい教えてくれてもいいと思うの!!」


『もう! 時間がないって言ってるのに、しょうがない子ね! 『ミーア』私のことはそう呼ぶといいわ』


 ミーアはシィーに向かってパチンとウィンクをすると、扉を開けて光の中に消えていった。

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