4-4

 ふうっ、と、大きく息をつく。

 夢のなかから続く動作で、首のところの汗をいている。

 あれは、と、軽く目を閉じる。

 夢に戻りたいのではない。

 たしかに、お母さんに連れられて、裕美といっしょに大川の岸辺の公園まで行ったことがある。そのときのことを思い出そうとしている。

 あれも、夏だったのだろうか?

 川が広く見えたのも、あれが小さい子の見た川だったからだ。

 あのころから、裕美といっしょだった。幼稚園に入る前から、そして、幼稚園でも、小学校でも。

 十年前?

 それぐらい。

 でも、十年って、いったいどういう時間だろう……?

 そんなときから、顕生のききたいことを裕美がきき、裕美が言いたいことを顕生が言っていた。

 なんだ。

 ずっと前から、運命は共同してたんじゃん……!

 あの頃よりずっと大きくなった裕美……。

 ずっと美人になったかどうかは、知らない。小学校のころから美人だったかもしれない。

 その、大きくなった裕美は、いま顕生に背を向けている。

 顕生は身を起こした。裕美の肩越しに、裕美の横顔をのぞき込む。

 ほんと、こいつ、ずっと美人だな……。

 この親譲りの軽くかすれた声で言ってやるんだ。

 小さく。ささやくように。

 「ひ、ろ、み。わかったよ。運命なんか、ずっと前から共同してたんだ」

と。

 だが、裕美は、まぶたを閉じて、そのかわいらしい鼻から、規則的に鼻息をついていた。

 寝息まで端正だ。

 でも、と、顕生は用心深くなる。

 計算高い美女のことだ。タヌキ寝入りじゃあるまいな?

 試してやろう。

 顕生は裕美の無防備な耳もとに顔を近づける。手をついて、ずっと近づける。

 一センチも離れていない。でも、この美女の顔からは熱を感じない。

 「ひ、ろ、み」と声をかけようとして、ふと、思った。

 これは、なんとかの計とかなんとかの術とかいうものではないか?

 声をかけたとたんに、後ろに裕美の本体が現れ、

「あははははっ。引っかかったな、顕生」

と言って笑うの。

 気づいたとたん、後ろから髪を引っぱられた!

 はっ、と、体を起こして、後ろを向く。

 扇風機の風が吹き抜けていった。

 窓の外からは、もう高校野球の中継は聞こえない。試合が終わったのか、聴くのをやめてしまったのか。

 もちろん、顕生の後ろに裕美の「本体」なんかいない。

 裕美の本体の美女は、起きてだらけていたときよりずっと澄ました美人顔で、いまもベッドに寝ている。

 髪を引っぱられたと思ったのは、ただ、扇風機の風が髪を吹き流しただけのことだった。

 自分も寝ていたのだから、この美女を起こすこともあるまいと考えを変える。

 眠れる夏の美女……。

 うーん……あんまりよくないかな。

 この美女の美女っぽさにまだことばが追いついてない。

 それで、裕美の脚のところをまたいで、ベッドから下りる。もちろん、引っかからないように用心して。

 顕生の脚にひっかかってたんこぶを作ったこのだらけ美女とは違うのだ。

 夢のなかで、大川の岸辺の公園まで行って来たぶん、喉が渇いていた。

 いや、そんなのではなくても、喉が渇いていた。

 机の上には、いまも冷やしたほうじ茶が載っている。

 まだ氷が残っていて、冷えているかどうかは知らないけど、冷えてなくてもいいやと思った。

 ほうじ茶のポットに手を伸ばそうとして、ふっ、と「何かが違う」感がした。

 ポットから目線を戻す。

 「あーっ」

 だらけ美女にとりつかれたような、いや、二倍か三倍増しぐらいでとりつかれたようなだらけ声が顕生の喉から漏れる。

 いや、だらけ美女はだらけても美声だが、顕生がだらけると、もともとがらがらっぽい声のせいで、ほんとにだらけ声に聞こえるんだ……。

 英語の宿題は、午前中のままだ。

 でも、その上のほうに閉じて置いてあったスケッチブックが開いてある。

 そこには、ずっと前から描いてあったように、とてもあたりまえに、鉛筆で描いた絵があった。

 紙を鉛筆でかすかすっと擦ったような、薄い鉛筆の線が何重かに重なって、それだけで描いた絵だが、それがかえってとても上手な絵に見える。

 そういえば、こいつ、美術部だったな。

 活動してるの、見たことないけど。文化祭の美術部の展示に、澄ました顔で座っていたけれど、作品は出していなかった。

 その美人幽霊美術部員が鉛筆で描いた絵だ。下のほうにタイトルも書いてある。

 「自画像」とある。

 なんだあ?

 だらけ美女、人のスケッチブックに、自分自身の絵を描きやがったな!

 そう思って、だらけ美女の端正な笑顔を見る。

 似ていない。

 たしかに、それは健康そうなきれいな女の姿だ。

 この美女より面長で、髪は長くて、不規則に巻いている。着ているのはTシャツで、その巻いた髪を、右手を肩のところにやってかき上げているところらしい。その髪をかき上げるしぐさがみょうに大人っぽくて、でも顔はそんなに大人っぽくなくて、つまり、この絵の美人、だれ?

 ちょっとどきっとするような、すまし顔の美人……。

 裕美の自画像じゃないよなぁ。裕美は髪は顕生より短いし、髪質はすなおだし……。

 「自画像 弓岡顕生」

 あー!

 声を立てそうになって、やっとのことで声を消す。

 この色っぽい美人、顕生自身だというのだ!

 え? あ? あ? 何?

 たしかに、裕美より面長だし、この不規則に髪が巻く癖も……。

 でも、こんな美人に描いて、どうするよ?

 自分は、ほんとに、もしかしてほんとに、こんなに背筋がちょっとぞくっとするほどの美人?

 こうやって髪をかき上げてみると、もしかして、そう見えるのかな?

 それで、絵のなかで顕生がやっているのと同じポーズで、肩のところの髪をかき上げるしぐさをしてみる。

 あれ?

 これ、なんか……。

 なんか、すごく最近、やった気がするぞ……?

 立っている顕生のシャツを、扇風機の風が波立たせ、吹き抜けていく。

 それはそうだ。扇風機は回しっぱなしだから……。

 その風の行方を追うと、さっき夢から続けた動作で汗を拭いたタオルが、顕生の寝ていたところに残っている。

 あー……。

 失望する。

 それは、べつに色っぽいポーズでもなんでもなかった。

 眠りに落ちて、タオルを握って汗を拭こうとして、でも拭けないまま、肩のところにタオルを握っていたのだろう。

 そのタオルを描かないで、手だけ描いたから、こんなポーズになったんだ。

 なあんだ。

 べつにとくに美人に描いたわけでもない、ほんとうに顕生の自画像だ。

 暑くてだらけきって、それでも気象学的な説明をしようとふんばって、それで寝てしまって、寝たまま汗を拭こうとがんばっていた、そんな顕生の自画像……。

 それを、裕美が描いた。

 裕美が、顕生の自画像を。

 しようがないよね。運命が共同しちゃってるんだから。

 じゃあ、顕生からは、何を共同してやろう?

 やっぱり、あれか。

 しようがないなあ……。

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