4-3

 扇風機の風が吹き抜けていく。

 そう言えば、この美女の上を吹き抜けた風は、だいたいは顕生の下半身を冷やして通り過ぎるのだ。

 美女の熱を運んで顕生に伝えるのだろうか、それともこいつは扇風機に熱を奪ってもらうほどの暑がりではないのだろうか。

 いまの「運命共同体」で出た汗がその扇風機の風で冷えた。

 短く笑いを作ってから、美女を見上げる。

 「そういう、答えるのに困るようなこと、言わないで」

 「何の困ることがある?」

 美女は高飛車に言い返してきた。

 また風が体の上を時間をかけて往復する。

 わかって言ってるな、やっぱり、こいつ……。

 風が去ってから、言う。

 「だって、共同してないでしょ、って言ったら、なんかわざと仲を悪くしてるみたいな言いかたになるじゃない? だからって、運命がいっしょになってるわけじゃないし……」

 「そう」

 美女はすなおに答えた。

 「それが問題なんだよね」

 いや、これはすなおな答えというものなのか?

 「顕生が、まあたとえば、気象予報士の勉強とかしやすい高校に行くとして、それで、わたしが、正令受けて、落ちて、顕生といっしょの高校を受けてそこだけ受かる、って、そんなミラクルが起こらないかぎり、顕生と運命は共同になれないんだよね」

 「ああ」

 それは、同じ高校に行く、というのであって、運命を共同にする、というのとは違うように思うのだが。

 「うん……」

 でも、あり得る、と思う。

 顕生には選択の余地はない。無理をして優等生と同じ高校を受けても絶対に落ちる。でも、このだらけ優等生が、だらけ女の本性を発揮して、偏差値の高い女子校のほうを失敗し、顕生と同じ高校で成功してくれれば。

 もちろん、顕生が合格しないことには話にならないけど。

 でも……。

 このだらけ女がだらけた女の正体をさらけ出すのって、顕生といっしょにいるときだけだからな。

 自分のお母さんに対してだって、裕美は何か構えている。もともと優等生なのに、それ以上に優等生に見せようとしている。

 だらけ女がだらけ女の正体を見せるのが「運命が共同してる」ってことなのかな?

 じゃあ、顕生は?

 顕生には、このだらけ女にしか見せない性格というのが、何かあるだろうか?

 そんなものは、ない。だれにだって見せてる性格を、こいつにも見せてる。それだけだ。

 なんか、だめだ……。

 「ねーえ……」

 だらけ美女が、ごろんと今度は向こうへと転んで、撥ね返ったように上を向いて、半分あくびのような声を立てる。

 「運命共同体ってさ」

 さばさばと、言って、横目で顕生を見る。

 「運命が共同するって、どういうことなんだろうね?」

 知らんがな……!

 たぶん、それではすまない。

 どうすまないのかはわからないけど、たぶん、それではすまない。

 だから顕生は考える。

 まず、同じ学校に通わないと運命は共同しないのか?

 よくわからない。そこで、同じ学校に通えば、運命は共同するのか、ということを考えてみると、たぶん、しない。

 弓岡顕生はトラベルライターの娘で、この造りの複雑な家の二階で寝そべって、だらっとしている。

 細野裕美は名門一貫校を出た散髪屋さんの奥さんの娘で、四階のビルの四階に住み、いまは自分の横でだらっとしている。

 ……というように、運命は共同してない……。

 あれ?

 顕生はいまだらっとしている。この、立って動くだけでも、いや、寝ていて体を動かすだけでも超絶にけだるい暑い空気のなかで、だらっとしている。

 裕美も同じ空気のなかで同じようにだらっとしている。

 太平洋の海が暖めてくれたべとべとの空気が、このコンクリートだらけの都会でさらに暑くされた、その空気のなかで。

 おんなじベッドに、おんなじように汗を吸わせながら、ただ扇風機の風だけを暑さから少しだけ逃れるための頼りにして……。

 なんだ。共同してるじゃん……。

 それをどう言おう。

 太平洋の海が暖めてくれた空気の……?

 べとべとの空気の……?

 それを、ヒートアイランドで……?

 いや、コンクリートだらけだからもっと暑くなって……?

 それで……。

 太平洋の海の……。

 べとべとの空気の……。

 もっと暑くなった空気の……。

 顕生の体を風が吹き抜けて行った。

 前にはずっとずっと遠くまで青い水が広がっている。

 でもどこか遠い海ではない。向かい側には石で固めた岸辺があり、木の植わった公園があり、その向こうには高いマンションがにょきにょきと立っている。右側にはきれいな形の大きな橋が見える。

 大川の岸辺だ。でも、この川は、海と見まがうぐらいに、こんなに広かっただろうか。

 お母さんがいた。

 もちろん、裕美もいる。

 いっしょに散歩に出てきたのだ。え、こんな遠くに行くの? 帰ろうよ、と何度も思って、それが言えずにもどかしい気もちだった。

 風が吹き渡る。

 ああ、ここまで来てよかった、と思う。

 裕美が、眠い、と言った。

 たしかに、木陰のコンクリートにぺたっと腰を下ろして、このまま眠ってしまえば、気もちがいいだろう。

 「眠かったら、寝てもいいのよ」

 お母さんの声は明るい。とっても明るい。でも、やっぱり自分とおんなじようにしわがれていて、なんだかかすれている。

 「スペインとかイタリアとかでは、昼ご飯を食べたらたっぷりお昼寝をするんだから」

 大人なのに、ときいたのは、裕美だ。大人なのに、お昼寝するの?

 「そうだよ。大人でもお昼寝するんだ」

 お母さんが答える。

 じゃあ、お店とかどうするの、と裕美がきく。

 お店なんか、みんな閉まっちゃうんだよ、とお母さんが答えている。

 バスとかどうするの、と裕美がきく。バスも車もあんまり走らなくなるんだよ、とお母さんが答えている。

 それだったら、不便じゃない、と裕美がきく。だってみんな寝るから不便じゃないんだよ、とお母さんが答える。

 でも、どうして、大人なのにお昼寝なんかするの、と裕美がきく。

 それはね、とお母さんが答える。

 「お昼寝から起きた後に、また仕事をして、そして夜になったらいっぱいいっぱい遊ぶためなんだ。そのためにお昼のあいだに寝ておくんだよ」

 えーっ、と裕美がきく。

 いや、これ、きいているのは裕美か?

 大人なのに、遊ぶの? 大人なのに、いっぱい遊ぶの?

 お母さんが、答える。

 「そうだよ。なんのために大人になると思ってんの? いっぱい遊ぶためじゃない? 子どもって遊ぼうと思ってもいっぱい遊べないでしょ? だからいっぱい遊べるようになるために大人になるんだよ」

 うわあ、このひと、言ってることめちゃくちゃだよ……!

 それでも、と、言おうとしたとき、横に何か黒い影がさした。

 でも、そのまま曇ってくるとか、暗くなるとか、そんなのではなかった。

 空はいまも青い。水も青い。公園は緑で、マンションは黄土おうど色がかった白で、上のほうは朱色みたいなオレンジみたいな色……ほんとに高い……。

 風が吹き渡る。でも、喉のところには汗がたまっていて、それは、風でちょっと冷たくはなるけれど、飛んで行ってくれない。

 やっぱりタオルで拭かなきゃだめだな、と、肩のところに垂れてしまっていたタオルを引っ張り寄せようとして、

「あ」

と目が覚めた。

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