4-2

 「やっぱり正令せいれいに行けって、お母さんがずっと、さ」

 けっきょく美女が自分から言った。

 「ああ」

 「いまから準備しておきなさい、って」

 「うん……」

 その話は前に何度かきいた。

 正令女子は幼稚園から大学まである私立学校で、小学校までは共学、中学から大学までは女子校だ。ここからは地下鉄経由で一時間ぐらいかかるけれど、このあたりでも名を知られている。名門だ。

 でも何を言えばいいのだろう?

 「たしか、中学のときも正令って話あったよね、裕美は?」

 「うん……」

 口ごもりながら「うん」と言う役割が入れ替わる。

 扇風機の風が二人の上を吹き過ぎていく。

 「裕美のお母さんの出身の学校だったよね」

 「うん……」

 美女は無気力に言ってから、ごろんと寝返りを打とうとした。

 でも、そのまま寝返りすると顕生とぶつかってしまうことに気づいて、体を横にして顕生の顔をすぐ横から見られるところまで来て、ね返ってまた上を向く。

 なんだつまらない。このままぶつかってくれれば面白かったのに。

 あ、いや。それだと暑いんだった。

 それも、とびきり。

 美女は、脚を中途半端に立てて、両手を胸の前に組んで伸ばして伸びをする。

 「大学まで正令卒で、商社行って結婚して退社して、でも結婚したところがうちだったからそれからまた散髪の勉強し直していまも仕事中……」

 それで、ふっ、と顕生のほうを向く。

 「それでも自分の卒業した学校に入れたいものなのかなぁ?」

 そんなことを言われてもなあ……。

 たしか、中学に進むときも、この細野裕美は、その正令女子中学校という学校を受けるように親に言われていた。本人も途中まではその気だった。ところが、小学校の六年生になって、私立の正令に行くと小学校の友だちの大半と離ればなれになってしまうことに気づいて落ち込んだ。ものすごく落ち込んで、何日もくよくよと泣き続けた。勉強どころではなくなった。それで結局は顕生と同じ公立の中学校に進んだのだけど……。

 さっき、気温を写させてほしいと言うために、わざわざ日本列島の夏の天候について顕生に説明させた美女のことだから、最初、乗り気だと周囲に思わせたのも、急に友だちと離れなければいけないと気づいて落ち込んだのも、計算づくの演技だったのかも知れない。

 だとしたら、それで、今度こそは正令女子の高校に入りなさいと言われて、もう小学生じゃないんだからお友だちと離ればなれになりたくないでもないでしょ、と言われたら、防ぎきれなくなってしまうわけだ。

 「それはさ」

 顕生も天井を見上げて、両手を頭の上に伸ばして、大きくストレッチをしながらあくびをした。

 それだけの間を取ってから、そのままの姿勢で言う。

 「裕美が美人だから、へんな虫がついたら困る、って、裕美のお母さんが考えてるからじゃないのかな?」

 裕美のお母さんも美人だからな。

 美人というか、小柄なかわいい人で、顔立ちはもちろん裕美と似ている。裕美がお母さんに似たのだろうけど。それで背丈はもう裕美のほうが大きいんじゃないかな?

 「虫ならもうついてる」

 つまらなさそうに、裕美がつぶやく。

 どきっとした。無理やりどきっとさせられた。

 何か飲みかけていたらぶふっと吹き出してしまうところだ。

 なっ……!

 何、それ?

 「だっ……」

で、喉が詰まる。その喉を息を無理に押し通して

「だれ、それ?」

ときく。

 絶世の美女だけあって、いや、絶世かどうかは知らないけど、鼻の高さだけのピンポイントで超絶美人なクレオパトラと違ってオールラウンドに美人の美女だけあって、こいつにちやほやしたい男というのはいっぱいいる。上級生のあいだでも人気絶大だと先輩からきいた。

 それでも、決まった相手を持たず、みんなの人気者という地位を持ち得ているのがこいつだ。

 でも、じつは、だれかいたのか?

 学年の何人かの男子の顔が目のまえを流れて行く。同じような優等生、不器用だけど熱愛しそうなやつ、不良っぽくしているけどじつは考えかたがすごいナイーブなやつ……。ああそうだ。あの、顕生に絡まれて最後に謝った先輩も、なんかこいつのこと気にしてるみたいだったから……。

 そうやって脳がフルで回り始めたところを、扇風機の風がゆっくりとかすめていった。

 脳以外のところがすーっとクールダウンする。

 この美人女の髪が長ければ、顕生の顔にその髪がなびいてきて当たるはずなのに……。

 「だれ、それ、って」

 物憂ものうげに、美女が告白する。

 「そんなの決まってるじゃない」

 いや決まってないんですけど!

 ゆっくりしゃべっているのが、じらそうとしているのかどうか、顕生にはわからない。

 そんなんだから、だめなんだなぁ……。

 美女は、白い首筋と白いあごの線を顕生の目にさらして、ゆっくりゆっくりと言う。

 「あ、き、お、だ、よ」

 はあ?

 「それ」

 慌ててきき返すと足もとを見られそうだ、とこんどは自制がきいた。自分も声をゆっくりゆっくりに押さえながら言う。

 「どこのあきおさん……?」

 だいたい、どんな字を書くんだろう? それとも秋尾とかいう苗字の人なのかな?

 そんなの、いたっけ?

 いれば気がつくと思うんだけど。

 「なあに言ってるの」

 つまらなさそう度をぐんと上げて、顕生から目をそらしたまま、裕美が言う。

 「顕生以外に、あきおなんているわけないでしょ?」

 顔を下げて、困った子だという感じに笑い、得意げに顕生の顔を見る。

 ベッドの上の高さ的には上下はないのだけれど、いまは、寝てる位置のせいで、こいつがこっちを見るときには見下ろす目線になってしまう。

 「は……あ?」

 いや、ちょっと待て。

 「わたし以外にもあきおって子はいくらでもいるって。その男みたいな名まえのせいで一年のときに男子にまちわれたんだからさあ」

 さえぎるように言う。

 「だから、男子の話なんかしてない」

 は?

 だらけていたはずの美女は、唇をとんがらせて、顕生の顔を見下ろしている。

 あ?

 いや、さらに待て。

 「だって、悪い虫って言ったら」

 「わたしにつく虫で顕生以上に悪い虫っている?」

 こんどは「遮るように」は言わない。露骨に遮って言う。

 ああ……。

 それで覚悟ができた。顕生も不機嫌そうに言い返してやる。

 「わたしは寄生虫かなんかか」

 「いや運命共同体っていうやつでしょ」

 あ? あ? はい?

 ……はい?

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