3

 窓の外からは高校野球のテレビ中継の音が聞こえている。

 こんな暑い日に、何の遮るものもないグラウンドで、力いっぱい走ったりボールを投げたりバットを振ったりしてる高校生というのがいるんだ。

 あと二年すれば、顕生と、いま向かい側で手枕をして寝ている裕美とは、その歳になる。

 いや。いまだって、同じ学校の野球部の男の子たちは、おんなじように暑い夏の太陽の下、練習をしているはずだ。もしかすると試合よりも激しい練習を。

 同じ歳や、一年下の子たちが。

 「ねえ」

 裕美の声がだらけ声に戻っているので、顕生は安心した。

 「うん?」

 「夏ってなんでこんなに暑いのかなぁ……」

 お。

 なんか踏んだ。

 なんか踏んだぞ、この美女っぽい女は。

 「そうだよねぇ」みたいな答えを期待しているとしたら、甘い。

 「それはさあ、地軸っていうのが傾いてるおかげでさあ、北半球は夏には太陽の熱をたくさん浴びることになるんだよね」

 「うん……」

 美人は、手枕をしたまま、また目をぱちっとまばたきさせる。

 だらだらと顕生の科学的な解説をきいている。

 それでも扇風機をつけただけ涼しくなった。この美人の背中にもその風は吹きつけているだろう。

 「それでさあ、太平洋の海の水もあったかくなるんだけど、アジア大陸の奥のほうって砂漠とかあってさ、もっと熱くなるんだよね。で、熱い空気は軽いから、アジア大陸の奥の超熱い空気が高いところに上がって、そこに太平洋の上の空気を引っぱりこむんだよね。太平洋の上の空気って、その砂漠とかの超熱い空気よりはまだ温度低いけど、そのかわり生あったかい水が蒸発してできた空気で蒸し暑いんだよね。そうやってできた太平洋高気圧っていうのが日本列島の上まで出て来ちゃってさ、もともと空気があったかい上に晴れが続くからよけいに暑くなるんだよね」

 「ふぅん……」

 「そのうえさ、このへん、地面がアスファルトとかコンクリートとかだらけで、地面がめちゃくちゃ熱くなる上に太陽の光を反射するから、さらに空気を暖めちゃうんだね」

 だめだ。

 「ヒートアイランド」の説明はこれでいいはずだが、説明が正しいかどうかはどちらでもよく、その説明をしているだけで首の周りに汗が噴出してくる。

 「おーお」

 裕美はわざとらしく感心した。だらけた声で。

 「さすがは気象部だ」

 わかっててやったな、さては!

 美人は黒い目をうるうるさせている。

 こいつにも部活ネタを振ってあいこに持ち込んでやろうと思いついた。

 でも、この美人、どこの部だったっけなぁ?

 わりとスポーツ万能のくせに、運動系の部には入りたがらなかった。演劇とか音楽とかでもない。もしかするとお母さんが許してくれなかったのかも知れない。

 「ねえ、顕生って……」

 美人が声も潤ませてきく。

 「やっぱり気象予報士受けるの?」

 ああ。

 その話、したんだっけな、こいつに。

 「うん……」

 けだるく答える。

 「受けるよ。でも、すぐは無理」

 「なんで?」

 「数学わかんないから計算問題が解けない」

 「あー」

 美人の声からは緊張感が抜けきっている。

 扇風機の風が二人の上を撫でて行く。

 それが、美人のほうから顕生のほうに来て、また美人のほうに戻るまで、話が途切れる。

 美人が言う。

 「どっかそういう難しい数学勉強できるところに行くんだ、高校……顕生って」

 「あ、き、お、って」とゆっくりとつけ加えてから、唇を閉じずに、黒い瞳で顕生の顔を見ている。

 唇の内側がきれいな赤色で、やっぱりうるうるしている。

 おんなじ女なのにそれでどきっとしてしまう。始末が悪い。

 「あ、いいや」

 顕生は軽く目を逸らした。

 「わたしって、そういう理系っぽいの苦手なんだよね」

 「だって、いまの説明、理系っぽかったじゃない?」

 絡んでくる。

 「そんなことないんだけどなあ」

 だいたい、理系だとか文系だとか、中学生で気にして何か意味あるのかな?

 わからない。

 気象予報士試験の数学の問題は高校の「難しい数学」を勉強していないと解けないのかどうかも知らない。もしかすると、高校のふつうの数学や、中学校で習う数学で解けるのかも知れない。

 だからわからないでいると、目をうるませた美人の裕美が甘い声を作った。

 「そこでお願いなんだけどさあ」

 「うん?」

 何だろう?

 「おでこにチューして」とかだったらどうしよう?

 いや、「おでこにチューさせて」とかだったら……。

 平気で「いいよ」と言って、いいのだろうか?

 「夏休み前半の気温、写させて」

 そういうのか……。

 気を回して損した。

 さては、そのための前振りとして、気象の話をさせたな、この美女っぽい女は。

 「だあぁめ」

 断る。きっぱりと。

 「えーなんでーぇ」

 声がゆるみきっている上にべつに怒った顔もしていない。

 「気象部のデータ写したらすぐにばれるでしょうが」

 気象部がとった気温のデータは学校のホームページで公開している。

 つまり、だれでも見られる。写すのはかんたんで、写したことがばれるのもかんたん……。

 「あー」

 美人は意外でもなさそうだ。

 「でも、自分の家の温度とか記録取ってないのぉ……?」

 そう来たか。

 「とってるけど」

 裕美は二重のまぶたを大きく開いて目を輝かせた。

 とっている。この部屋の気温の記録は。それも、学校の気象部と同じ装置で記録しているからかんぺきだ。何がかんぺきかというと、いちいち見て記録する必要がなくて、データが常に学校のパソコンに送られている。顕生は装置を置くだけであとは何をする必要もない。ときどきネットの接続が切れてないかどうかはチェックしないといけないけど。

 とっている。でも。

 顕生はわざとらしくあくびをして、大きく鼻から息を吐いて、間をとる。

 言う。

 「でも、だあぁ、めっ!」

 「えーぇえっ?」

 同じ会話が繰り返す。

 「なんで?」

 ぱちっと瞬きする。目がぱっちりしていて色っぽい。

 でもそんなしかけにはさそわれてやらない。

 だいたい女の子がなんで女の子のそんなしぐさに気をとられないといけないんだ?

 「だって、この部屋の温度だよ? 三十何度とかなんだよ? ときには四十度とかなんだよ」

 言っただけでまた汗が吹き出しそうだ。

 いやもう吹き出してるけど。いまはそれが扇風機の風で蒸発してそのときだけ涼しくなってくれる。

 「そんなのをさぁ、冷房のきいたぁ、裕美の部屋の気温だって言ってもぉ、それはぁ、だれも信じないよぉ」

 「うーん」

 裕美はじれる。

 「先生って、そんなとこまで、見ないよぉ」

 そうだろうと思う。だいたい、その夏休みの気温の記録を集めるのは、理科の先生や気象部の顧問の先生ではなくて、社会の科目を教えている担任の先生なのだ。それに、どうせ、気象庁かどこかの気象会社かのホームページを見て、そこに出ている数字を丸写しする子が何人もいる。

 だとしたら、学校の気象部のデータを写すなんてかわいいもんだ。

 「それでも、だぁあ、めっ!」

 断固、言い返す。

 「なんでぇ~?」

 会話が進歩しない。

 「だって、裕美って、クラスの、いや、全校の、いや少なくとも学年のあこがれの優等生なんだよ」

 言いたいことを言う。これでちょっと会話が進歩するだろう。

 そして、たぶん、事実だ。

 「それがズルしたなんてばれたら、全校が悲しむよ。裕美だけの問題じゃないよ」

 なんかシーツからももわもわした熱気が上がってきた感じがする。

 それを扇風機の風がときどき持って行ってくれるので、まだなんとかなってるけど、もうベッドの本体にも二人分の体温がたまっているのだろう。

 「それってさあ」

 ここまで大げさに言われて、こいつがどう反応するか、予想がつかない。

 「その、全校が悲しむ、ってさ」

 あんがい平気だ。

 「全米が泣いた、とか、そういうやつっ?」

 「やつ」の「つ」を高い声で言って、じっ、と顕生の目を見る。

 はあ?

 「なんだそれ?」

 思ったままを言い返す。裕美もとろとろと言い返す。

 「いや。だから、あのアメリカ合衆国って国でさ、そのときまで映画を見た人のうちのさ、しかも映画館でどう考えても一人か二人? まあ多くて十人ぐらいしか泣いてないのに、全米が泣いた、とか言うんだからさ。それって、わたしのズルがばれても、悲しむのは全校で一人いるかいないかってことじゃないのぉ?」

 なんかいろいろ話が飛んでるような気がするんだが……。

 「顕生は悲しむ?」

 「いーんやぁ……」

 鼻にかけた声で答える。

 「ぜんぜんん……」

 軽く寝返りを打ちかけて、途中でやめる。

 「わたしは裕美の正体知ってるもんね」

 寝返りのかわりに、手を頭の上に伸ばして大きくあくびをした。

 そういえば寝ようと思っていたところにこいつが来たんだな。

 「だったらいいよぉ……」

 裕美はまた眠そうな声に戻っている。

 「顕生が悲しまなければ、それでいい」

 「ありがと」

 そうは答えしまったものの……。

 「でも、裕美さあ」

 言って、一つ深呼吸する。

 体を上に向ける。扇風機の風が上を吹き抜けていくあいだ、待つ。

 「うん……」

 「自分が、全校のあこがれの優等生って自覚」

 話を終わってやらない。だってきいてみたかったのだ。

 「ある?」

 言って、こんどは横目でだらけ美女を見る。

 「うーん」

 裕美も上に体を向けて、頭の下に両方の腕を突っ込んで腕枕にした。

 「わかんないんだよねーぇ」

 答えをごまかしたのかな。

 「だって、自覚って自分で感じてるかどうかだよ? それが、なんで、あるかないか、自分でわかんないとか?」

 「うーん」

 だらけ美女は腕枕のまま頭の上のほうに目をやっている。

 扇風機の風が吹いてくるほうに。

 それで、ふと、ぱちっとまばたきすると、また顕生の目を見た。

 「あ! わたし、顕生にしか関心ないから、っていうの、だめぇ?」

 「だあーあ、めっ!」

 残念だ。

 「っていうの、だめぇ」をつけなければ、OKだったかも知れないのに。

 「なんでぇ?」

 甘く言う。またまぶたが閉じかけている。

 「問題は、全校生徒からあこがれの目線で裕美が見られてる、ってことにあるわけだから」

 社会の時間っぽい答えだと自分で思う。

 どうだ?

 「だから、それ、全米が泣いた、みたいな感じの誇張だから」

 言ってることはさっきといっしょだが、こんどは答えになっている。

 「もちろん、気にはしてるけどさ、ほかの子にどう言われるか、とか。あと、それ以上に、ほかの子の親に、とかさ」

 声をはっきりさせて答えてくる。

 「気にはしてるけどさ。そんなので、窓から顕生の部屋に来れなくなるとかいうの、いやだから」

 はあっ?

 だからぁ……。

 「あんたがこういう来かたするのは、この近所の人はみんな知ってるし、それに、ほんと、危ないよ」

 いちおう言っておく。アーメン。このだらけ美女が言ってきくとは思えぬが。

 「だったら、わたしが屋根伝いに顕生の部屋に来てる、って、学校に告げ口とかされたら、わたし、どうなるのかなぁ?」

 答えの正道をたどっているようであり、なんかずれているようでもあり……。

 少なくとも「危ないよ」の警告は無視した。

 「っていうか、顕生は、どうなるのかなぁ?」

 なんだ?

 「なんでこっちに話を持って来る?」

 「わたしがひどいことになっても、顕生がハッピーなら、それでいいから」

 だんだんそういうのの効力が切れてきた、と思うんだけど。それで、

「だーあぁあっ、めっ!」

 同じように言い返す。こんどはきかれる前に答えを言う。

 「だって、わたしだって、裕美がハッピーだったらいいって思ってるから、裕美がひどいことになるなんて、だーあっ、めっ!」

 いや、何の話をしていたんだ?

 「わたしも裕美もハッピーじゃないといけないから、とりあえず、データ写すの、だーあ、めっ!」

 屋根から来るのもだめ、って言うべきなんだろう。

 でも、こいつが屋根から来ないようになったら、ものさびしい。

 うちのお母さんが、中学もそろそろ三年生なんだから、そういうのはやめなさい、って言ってくれればやめるだろうけど、絶対言わないだろうな。

 自分自身が、いまでも、柵乗り越えて遺跡に入ったり、道路が封鎖されてる場所に海岸の岩伝いに入り込んだり、そういうの平気でする人だからなぁ。それで、そこの警察につかまっても「あいかーんとあんだーすたんいんぐりっしゅおあえにあざらんげーじ」とかだけ言い続けて相手を根負けさせたりするんだもんな。

 言わないだろうなぁ……。

 「うん。わかった」

 あ。なんかかんたんに折れた。

 「温度、見損ねたところとか、バツつけといて、あとでなんかで補うかなぁ」

 「うん……」

 「見損ねたところ」ということは、最初から何もやってないわけではないわけで、いちおう、ちゃんとやっていたのだ。

 全校あこがれの優等生らしく……。

 なんだ、つまらん。

 でも、裕美ってそういうやつだよね。

 期待を裏切らない。

 だれの期待も。

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