2
こいつの名は細野裕美という。いま自分で名のったとおりだ。
正体は、部屋で顕生がベッドに寝ているのを直接確認することのできる唯一の場所、つまり、表通りの四階建てのビルの四階の住人だ。
裕美の両親はそのビルの一階で散髪屋さんを開いている。二階は別の会社の事務所、三階と四階が裕美の一家の家だ。見晴らしがいいからと言って、こいつは、そのエレベーターのない家のいちばん高い階に部屋を持っている。
顕生は、寝たまま、自分のすぐ横の狭いスペースに立つその細野裕美を、まだじーっと見上げている。
しばらくそのままでいる。
裕美もそのままでいる。
顕生が言う。
「裕美さあ」
できるだけ興が乗らないように言う。
「いいかげんにしないと、屋根から落ちて死ぬか、感電して死ぬよ」
「いいじゃない。そのときはそのときだよ」
言って、裕美は、また
「よいしょ」
と言って顕生の足を軽くまたいで越えた。
用心はしている。前に同じことをやって顕生の足につまずき、ベッドから派手に転がり落ちて、机で頭を打ってたんこぶを作ったことがあるから。
しかも、そのときは、入って来かたが入って来かたなのでだれにも事情を言うわけにいかず、顕生がいっしょにお医者さんに行こうかと言っても目に涙を溜めながらかたくなに首を振り続けた。それでそのあと何日か不機嫌に押し黙っていた。
そんなやつが、何が「そのときはそのとき」だ。
裕美がベッドから床のじゅうたんの上に無事に下りたのを見て、顕生は無愛想に言う。
「そのときはそのときって、死んだらそのときなんか来ないよ」
裕美はちらっと振り向いて自分の肩越しに顕生の顔を見た。
睫毛が長い。赤いTシャツに白のキュロットスカートという姿が、その色の白さを際立たせている。
頬も唇もきれいなピンク色だ。化粧なんかしてきていないだろうから、もともとなのだ。
「化けて出てやる」
裕美はこわそうな
ほんとうは、澄んだ、よく通る声なのだ。
そこで顕生もめんどうくさそうに反応してやる。
「なんでわたしが裕美に化けて出られないといけないわけ? 屋根で滑っても感電しても自業自得でしょ?」
裕美はすかさず言い返してきた。
「だって友だちでしょ?」
友だちだから、屋根から滑り落ちたり感電したりする危険があると、忠告してあげているのだけど。
そう言おうと思ったが、やめた。かわりに言う。
「だったらさあ」
仰向けに寝たまま手を頭の上に組み、ここで一つ大げさにため息をつく。
「せめて、取りついてやる、とか言ってくれない?」
それのどこがいいかというと……。
こいつに取りつかれたら、こいつの美人さと声のきれいさが自分のものになるのだ。
自分が不美人だとは思わない。けれど、髪は中途半端に縮れて不規則に巻いていて、肌も中途半端に茶色で、しかも顔立ちも微妙に目と鼻と唇のバランスがとれていない。何もかも中途半端だ。声もちょっとしたしゃがれ声で、それは自分でも好きなのだけど、でも裕美の澄んだ声にはもっとあこがれる。
色白で素直な黒髪の美人で声もきれいなこいつがとりついてくれたら、どんなにいいだろう?
「ああ」
裕美は笑った。
「取りついたりはしないけどさ」
言ってベッドに横座りする。顕生の顔を見るならすなおに右の肩越しに見ればいいのに、わざわざ逆に首をひねって左の肩から顕生の顔を振り返る。
「顕生の横に並んで寝てあげる」
いやそれ解決にならないから。何の解決にもならないから。
でも何も言わずにいると、裕美は、そのまましなやかにその体を傾け、顕生の横に身を横たえた。
「うーん」
と声を立て、寝返りを打って顕生のほうを向く。顕生のベッドは一人で寝るには広すぎるのだけど、もともとベッドのまんなかに顕生が寝ている横に裕美が寝ると、やっぱり余裕はない。それがさらに顕生のほうに転がってきたのだ。
目と鼻の先に裕美の顔と黒髪がある。
肩のところで切りそろえた、癖のない、まっ黒という色から一段階だけ黒さを引いたような黒髪が。
つん、と、かすかに汗のにおいがした。
「うぅん、もう、暑苦しいなぁ」
顕生が言う。そのとおりだ。裕美の体温に、外を歩いてきてその体がため込んだ夏の暑さまで加わって、その温度が伝わって来る。
裕美はどうするだろう?
自分から少し後ずさりするか、顕生に「もう、ちょっと場所譲ってよ」と言うか、それとも、何もしないか。
何もしない、に賭ける。十円ぐらいなら賭けてもいい。
「まだまだだなあ」
裕美はその黒い瞳の目を細めて笑った。
はずれた。正解は「そのどれでもない」だった。
十円、あとで、何かいいことのために使おうといちおう思っておく。
すぐ忘れるだろうけど。
「何がまだまだなの」
思い切りけだるく言ってやる。裕美は笑ったまま細めていたその目を開いた。
「だって、取りついたらもっと暑苦しいじゃない? 距離がゼロになるんだから」
それは「取りついたら」じゃなくて、「くっついたら」だろう?
「んもう……」
こんなときにそんなことを言うこいつの元気さ、どうにかならないか?
ええい。こういうときは、寝ているものでも裕美なら使ってもいいだろう。
「だったら、裕美さあ」
「うーん……?」
裕美がとろんとした声で言う。振り向くと目がうるうるしている。
なに?
いまのいままで元気だったのに、使ってやろうと思ったとたん、眠くなってきたというのか。
だったら、なおのこと、使ってやろう。
「そっちに寝てるんだったら、起きて行って、扇風機つけてくれない?」
裕美は扇風機の場所は知っている。顕生が起きて行くより裕美が行くほうが近い。
何十センチかだけだけど。
「うーん」
裕美は動かない。一つ押す。
「おねがいぃ」
裕美の声の「とろん」ぐあいを上回るとろんとした声で言う。しっかりした声で言えば
「顕生がつければぁ? 顕生の扇風機なんだからぁ」
と言い返してくるかも知れないから。
「うーん……」
まだ動かない。
裕美がこのままなら、自分で起きてつけに行こうか、めんどうくさいから。
その裕美の体をまたがないといけないけど。
「つけるんならエアコンつけないのぉ?」
裕美はだらけきった声で言う。
「それはさあぁ」
顕生もそれを上回って声をだらけきらせた。
「このまえ説明したじゃないぃ?」
この部屋はエアコンをつければかえって暑くなる。なぜかというと、エアコンの吹き出し口が部屋の高いところにあるので、そこから風を吹き出すと上にたまっている熱い空気を下に吹き下ろしてしまうからだ。
「うーん……それでもさあぁ……」
長い睫毛の目をぱちっとさせて、裕美は言う。
「設定温度を下げて強めにかけたら効くんじゃないのぉ?」
それが、あんまり効かないのだ。たぶん顕生が生まれる前からついている古いエアコンで、「ガタ」が来ているのかもしれない。夕方とか夜とかには効くのだけれど、エアコンがいちばん効いてほしい昼間にはろくに効かない。
でも、そうは言わないで、
「何その地球に優しくない提案?」
と言う。
「うーん……」
やっぱり動かない。
「地球に優しくなくても顕生に優しければそれでいいんだけどなぁあ……」
嬉しいことを言ってくれる。
……と、言ったほうがいいのか。
でも、それで言いたいことは言ってしまったらしく、裕美は
「ういしょっ」
とかけ声をかけて、手を使ってはずみをつけ、体を起こした。
ベッドを通してずんと反動が伝わる。色白でほっそりした美人でも体重がゼロというわけではない。
裕美はベッドの横に立ち、背筋をしゃんと伸ばして歩く。ほんの数歩だけなのに。
見上げると、外からの照り返しで、その赤いTシャツの色が白い顔に映っている。
チアリーダーみたいでかっこいい。
扇風機の前でかがみ込み、裕美は振り向いた。
「ねえ」
ちぇっ! 「降臨っ」とか言ってたときの元気声に戻っていやがる。
「うん?」
それで顕生も普通の声に戻す。
「エアコンで暑くなるんだったら、扇風機だったらよけい暑くなったりしないの?」
うるさいやつ……。
「上向けにかけなければだいじょうぶ」
理屈を言えばだいじょうぶではない。上を向けなくても。扇風機をかけるだけで、扇風機の後ろには高いところの熱い空気も吸いこまれ、上にたまっている熱い空気を引っぱりこむ。やっぱり熱い空気が下に下りてきてしまうはずだ。
でも、効かないエアコンよりは確実に風を当ててくれる扇風機のほうが涼しい。
裕美は扇風機のリモコンを手に持って戻って来た。この短い距離、このあんまり片づいてない部屋を、優美に、爪先立ちでもしているように歩いてくる。
それで、また、顕生の横に寝る。こんどは最初から顕生のほうに体を向け、しかも、ベッドを揺らさないように優雅に横になる。
今度は最初から距離を取り、リモコンを二人のあいだに置いて、くすんと笑った。
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