シエスタ(お試し版)
清瀬 六朗
1
昼ご飯を食べて片づけて、自分の部屋に戻って来たところで、動く気がなくなった。
二階に上がってくるまでは、机に座って夏休みの宿題の続きをするつもりだった。
「気分が乗って来たところでわざと中断すると、次に始めるときにその続きから始められるから楽だよ、中断する前に先の見通しがついてるからね」
……と、先生に言われたとおりにやってみた。
でもそれ以前の問題だった。
二階に上がるとじめっとした暑い空気が淀んでいた。その空気に触れただけで汗が湧き出す。その汗はすぐにしずくになって、Tシャツの下の肌を流れ下った。
くすぐったい。
くすぐったさが消えたあとには、べたべたの気もち悪さが胸から首回りの肌の一面に残る。
「どうでもいいけど」
いやどうでもよくない。
いや、どうでもいい。どうでもいいかどうかを考えるのがまずどうでもいい。
「下りたときより暑くなってないぃ……?」
声に出して言うとよけいに暑くなった。
言わなきゃよかった。
ドアを開けっ放しにしてある自分の部屋に入る。椅子の背もたれからタオルを取る。右手で後ろの髪を軽く持ち上げ、首にかける。そのタオルの端のほうであごの下の首の汗を拭く。
机の上にはやりかけの英語の宿題が載っている。長文読解の問題で、途中の段落まで単語を調べてある。その向こうにはスケッチブックが斜めに投げ出してある。朝、最初に図画の宿題を片づけておこうと思って引っぱり出して、何を描こうか考えているうちに三十分経ったので後回しにしたのだ。
朝からずっと勉強している。自分偉いと思うかというと、思うことは思うけど、何やってるんだ、という気もちのほうが強い。
夏休みなのに……。
その横には、午前中に下から持って来た氷入りのほうじ茶のガラスのポットが置いてある。いまもガラスの表面にはびっしりと水滴がついている。
そのほうじ茶を一口飲んでから、と思ったが、やめた。さっき下でアイスコーヒーを飲んできたばかりだ。ここでまたお茶なんか飲んだらトイレに行きたくなってしまう。トイレは一階なのでまた下りて上がって来るのがめんどくさい。
そのまま、机の反対側のベッドの上に、お尻をついて、勢いよくごろんと横になる。
横になると、立ち上がるどころか、顔を上げる気力すらなくなった。
ベッドのすぐ横の大きな窓はいっぱいに開けたままだ。薄い白いカーテンを閉める気力も出ない。
どうせ、外からは見えないのだ。
ただ一か所を除いて。
向かいの家は狭い道路をはさんだすぐ向こうで、二階の窓がこちらを向いている。しかし、
見えるとすれば、その四階建てのビルの四階の窓からだけなのだが……。
顕生はふうっと息をついた。
汗はおさまるどころか、Tシャツの下でところかまわず吹き出してきている。シャツの下で汗がいくつも筋を作って流れているのがわかる。
まだ少ししか経っていないのに、シーツがじとっとしてきた。
いまこの部屋のエアコンは役に立たない。
せめて扇風機はつけようか?
でも、扇風機は部屋のいちばん奥に置いてあるので、起きて、ベッドから下りてそこまで行かなければいけない。めんどうくさい。
だから、顕生は、タオルの先を首筋から胸のまんなかに押しこんで、高い天井を見上げた。
屋根に沿って斜めになった天井は「ベニヤ板」というのでできているのだろう。色は全体に赤っぽくなり、ところどころ茶色に変色している。
その天井のすぐ上が屋根だ。屋根が太陽に焼き焦がされ、天井も熱くなり、天井のすぐ下に熱い空気がこもる。女の子一人お留守番で、ほかの部屋の窓は不用心だからと閉め切っているから、その熱い空気はどこへも逃げてくれない。
「あー……」
あえぎ声を立てる。ぜんぜん色っぽくない。発想が危ないかなと思いかけて、その想いを続ける気にもならないぐらい、暑い。
首から胸に押しこんだタオルの端を引っぱり出して頬の汗を拭い、それをまた胸につっこみ、また大きく息をつく。
天井のベニヤ板の色の変化を眺めていたら、眠くなってくるだろうか?
羊を数えるのと同じで……。
いや、そんなことをしなくても、汗が流れるのさえ気にしなければ眠れそうだ。もともと眠いから横になったのだから。
目を軽く閉じる。
窓の外で、がりっ、ばこんっと音がした。
「ちぇっ!」
舌打ちする。
目を閉じたばっかりなのに……。
身を起こしかけたが、やめた。
屋根から侵入しようとしている不届き者がいる。
それがだれか見当がつかないならば大ごとだが、見当がつくので、だらっと寝たままだ。
「見てやがったな、あいつ……」
この部屋に屋根から侵入するのは難しい。台所の横から、樋の金具やガスのメーターの箱を伝って、いまは使っていない物置の屋根に上がる。物置の屋根は、アクリルか何かの透明っぽい板でできていて、足の置き場を少しでもまちがうと屋根を踏み抜いて落ちる。物置の屋根から台所の屋根に上がり、さらに顕生のいる部屋の外の屋根によじ上らないといけない。そのときには電気を家に引きこむ引き込み線の支柱を握らないと上がれない。しかも、そのルートは、ほぼ全部、ほかの家から丸見えだ。
やつは、まだ物置の屋根を踏み抜かない体重のときに安全な足の置き場を覚えた。そういう冒険というのが大好きな顕生のお母さんが教えてしまったのだ。お父さんが困った顔で笑いながら横できいていた。
このルートを知っているのは家族のほかにはやつだけ、そして、実行するのは、正真正銘、やつ一人だけだ。
顕生は顔を軽く窓からそむけて待つ。音は顕生のいる部屋へと着実に近づいて来る。
「あっ……あったぁ……っ」
いや、あまり着実でもなさそうだが。
続けて
「あつっ!」
と小さい澄んだ声がする。
そりゃ熱いだろうって。この夏の太陽に焼かれている屋根瓦に手で直接にさわったりしたら。
それでも、とん、という軽い音がして、こっちの屋根に乗るのには成功したらしい。さっさっさっと靴で瓦を擦る音が急に近づいてきた。
その音に合わせて横目で窓の外を見る。
窓の外に影が現れた。その大きさは顕生より少し小さいはずだが、見上げるとやっぱり大きい。
その顔は、外の明るい光を背景にしていても、くっきりと白く浮かび上がっていた。
「やっほー! 遊びに来たよー」
「やっほー」と言うわりに声が小さいのは、やっぱり近所に声が響いて、自分のやっていることを知られるとまずいと思うからか。
近所の人はだいたい見て知ってると思うけどね。こいつがこの部屋にこういう来かたをするということは。
顕生はだまって横目で相手の顔を見上げつづける。
「よいしょ、っと」
ささやくように言って、相手は窓枠を乗り越えてベッドの上に下りる。
下りてからいちど外に身を乗り出したのは、たぶん脱ぎ捨てた靴を揃えて、日射しがじかに当たらないところに置き直しているのだろう。そうしないと靴底のゴムくらい融けてしまいそうだから。
「
窓から降り立った色白の美女はそんな尊大な名乗りを上げ、うふふふふっと自分で笑った。
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