第2話 少女の専属教師に

 さて、難題である。


 沙織こと、さおりんに今日も放課後の空き教室にて勉強を教えていた。科目は数学である。このさおりんの呑込みの遅さはもはや自慢できるモノであった。そして、対価は無し、極めて厄介である。


 大体、わたしの人生に『女子』の二文字が無かったのも事実である。さおりんの髪の香りは甘く、綺麗な女子そのものであった。それはまるで、さおりんが妖術でも使っているかの気分である。女子が隣にいるだけで鼻血でも出したらと思うと余計に空回りするのであった。


「三角関数がよく解らないよ」


 さおりんは頬を赤らめて、モジモジとわたしに話しかけてくる。何が狙いだ……財産か?若い生き血か?そうか悪夢を見せて喰らうのだな。負の妄想が広がり困惑していると……。


「だから、三角関数を教えて」


 少し膨れて怒るさおりんの言葉に少し正気を取り戻す。ここは教師としてしっかりせねば。


「えーと、これは公式を使って……」


 しかし、普通に教えているつもりだが、さおりんの甘い香りに、近くにある吐息はわたしをこれでもかと苦しめる。そんな半分パニックから抜け出す為に『少し休憩』と言ってトイレに駆け込む。洗面台に向かうとゲッソリした自分の顔が鏡に映っていた。


 とにかく落ち着こうと蛇口をひねると水が出る。その水でわたしはで顔を洗うのである。しまった、ハンカチが無い。普段ハンカチなど気にしないのだが、さおりんが待っていると思うとだらしくなくしていてはダメだと自分を責める。


 ここは、もう一度顔を洗って落ち着こう。わたしは二度目の冷水での洗顔で少し自我を取り戻す。


 しかし、あーまだ、ドキドキするな。


 さおりんか……。


 良い匂いがしたな。いつまでもトイレに隠れていられない。渋々、さおりんに勉強を教えていた空き教室に戻る。


「ぷ~遅い!」


 不機嫌そうに頬を膨らませている。女子高生は皆、こんな感じなのか?わたしは可愛げに怒るさおりんに本当に愛しくなる。


 中学の途中までT大を目指して勉強漬けの日々には無いエピソードである。そして、わたしはさおりんに素直に謝り、勉強に戻る。


「この三角関数が解らないって」


 そうそう、三角関数である面倒くさいから、三角関数の微積も教えてしまうか?


「えーと、こっちの参考書に……微積が載っているので……」

「だから、解らないよ」


 三角関数の微積は早いか。渋々、参考書を閉じて大きく息を吐く。それから基礎をきっちり教えていくと少しは理解できたらしい。これで、対価が無いのは不条理である。


 また、髪の香りがしてくる。うううう、対価無くても良いか……。


 そんな日常の始まりであった。


 放課後、さおりんに勉強を教えた後のことである。わたしは四階の教室から窓に向かい黄昏を眺めていた。 それは、子供の頃に夢描いていた、学者になる事を諦めであった。 挫折した人生でさおりんに勉強を教えるのは少しの生きがいを与えてくれて、教師に成るのも悪くなかろうとの思いが溢れ始めていた。


 この世の中で教師になりたいとは変わり者なのかもしれない。 ふっ……親はカリスマ塾講師の方を薦めるだろうな。 それとも、もう一度、T大を目指してみるか?


 わたしが思いにふけていると、さおりんがやって来る。 慣れとは恐ろしいモノで、さおりんの綺麗な黒髪から流れる甘い香りにも一定の免疫がついたのである。


「えへへへ、隣いいかな?」


 わたしの隣は普通に空いているのに聞いてくるところがさおりんらしい。


「許可は取らなくていいぞ」


 さおりんが隣に座ると。ヘラヘラしている。 こいつには悩みが無くて幸せ者だなと思わせるのであった。


「さおりんは悩みが無くていいな」

「えーわたしにも悩みはあるよ。朝食の目玉焼きを半熟にするか固くなるまで焼くかだよ」


 さおりんは真面目な顔で話を始めるのであった。 さおりんらしいな。 そんな彼女にわたしは癒されていた。


 この義足の左足を失ってからのリハビリの時間にT大を諦めた無気力な日々は、わたしから多くのモノを奪い、挫折なる感情に支配されていた。


 やはり黄昏が眩しい。


「泣いているの?」


 さおりんの問いにわたしは沈黙で返した。 そんなわたしにさおりんの髪の香りが届いた瞬間であった。 担任の角田先生が教室に入ってくる。


「まだ居たのか、高校生でも遅くなると問題だ」


 相変わらず、角、角、した口調である。 それでいて、マイワイフはなどと自慢する変わり者である。 わたし達は簡単な返事をして教室を出ることにした。


「とーう、昇降口まで競争だよ」


 さおりんが両手を水平にして走り始める。 階段も駆け降りてしまい完全に置いていかれ、見えなくなってしまう。 わたしはそれでも急いでさおりんを追いかける。 すると、さおりんは昇降口で待っているのであった。


「わたしの勝ち!」


 おいおい、こっちは義足だぞ、イヤそれ以前の問題か。


「もう!シャキッとして」


 わたしは頭をかきながら謝るはめになった。 この時間はきっと特別なのであろう。 そんな気持ちにさせるさおりんであった。

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