第9話
翌日、三島は豊橋市内に部屋を借りた。短期滞在用で即日入居可能ないわゆるウィークリーマンションだ。
香村が言った第二GMビルの所在はインターネットの地図から豊橋駅の西口側と判っている。借りたマンションは線路を隔てた東口側の店舗やビジネスホテルが並ぶ地区にある。外観は一般的な小規模の集合住宅と変わらず、周囲の景観に溶け込んでいる。香村がやられたことで当然山本も警戒していようが、まさかこうも至近にケルベロスを連れた敵が潜んでいるとは思うまい。それに居場所を替えられる前に始末をつけるには近いほど好都合だと三島は判断したのだ。
「ここは狭いな」
部屋に入るなり、エドガーが不満げに呟いた。
「まあ我慢してくれ」
二部屋と小さなキッチンというこの手の物件としては標準的な間取りだが、犬の体に巨体を隠す彼等には狭苦しく感じるのだろう。なだめて手荷物を置き、三島は早速切り出した。
「今のうちに偵察に行こう。人通りが少なくなってからでは危険だ」
「よし」
今回の目的地は暴力団配下の拠点だ。有名人に化けていた香村の時とは違い、夜闇に紛れる必要はない。三島は道中買った野球帽のつばを折り曲げて目深に被り、ジャンパーの上から懐の短剣に手を当てて確かめ、来たばかりの玄関へ魔犬と取って返した。
ミニに乗り込み始動スイッチを押すと車内の時計は午後三時三十分を表示した。ちょうど学生達が下校する時間だ。豊橋駅周辺は学校が幾つも集まる学生街でもある。駅前は混雑しているだろう。人混みは多いほどいい。
カーナビにビルの番地を打ち込むと〝1キロメートル以内〟の文字と矢印が示された。パーキングからミニを発進させ、少し直進するともう駅は目の前だ。駅舎の背後にはホテルや商業施設の入ったビルが周囲に高層建築の少ない空へ鷹揚に建っている。予想の通り辺りは学生や買物客で混んでいた。だが三島はその中に様子の異なる者達がいることに気付いた。正面のバスターミナル、駅舎へ続く橋上部、車寄せなどそこかしこに佇んでいる。時折携帯やメモ帳のような物を確認しては鋭い視線を周りに放つ。スーツ姿だが明らかに警官ではない。
「アラン」
三島が顎でその内の一人を指すと、魔犬は無言で頷いた。
ナビはバスターミナル前で右折を指示していたが、三島は手前でハンドルを左に切って脇道に入った。車は違うが顔は変えられない。連中が自分の写真を持っていることを警戒して迂回する。ナビはすかさず新たな道を呈し、ミニは遠回りして駅の西側へ出た。
目的地を示す旗印が近付くと三島は更に迂回をして、第二GMビルがほぼ正面に見える二筋ほど離れた路地に車を停止させた。
「ちょっと様子を見てくる。待っててくれ」
「俺も行くぞ」
「いや、今は一緒だと目立つ」
エドガーに断って三島はドアに手を掛けた。
「待て」
アランが制した。
「あの中には山本がいる。用心しろ」
アランはビルを睨んだ。三島は指先の一瞬の躊躇を押し潰すように力を込めてドアを開けた。
「分かった。十分くらいで戻る」
いかにも駅前通りといった賑やかさのあった東側に比べ、此方の町並みは子供用の自転車や鉢植えを玄関前に置いた民家が目につき、市井の風情が残っている。だが三島はビルの一筋手前で足を止めた。巨大な見えない障害物に遮られるかの如く人々がその一角を避けて行く。そして彼等に代わるように、十人近いスーツの男達がビルの前で肩を怒らせていた。三島はそれ以上近付かず、携帯を見るふりをして建物を観察した。米田の根城だった六本木のビルとよく似た古びた五階建てだ。しかし異なるのは襲撃除けか目隠しなのか、一階部分を薄い塀が囲み、外部から完全に遮断していることだ。正面にはその塀と繋がった門と車庫があり、監視カメラの下で二人の男が門番よろしく睨みをきかせている。窓は全てミラーフィルムが貼られ、青空を映すばかりで内部は見えない。
三島は歩道に出て通行人に混じり、大回りをしてビルの裏側に移動した。やはり一筋置いた位置の、開店前の飲み屋と倉庫の間の一間ほどの路地に半ば身を隠して観察を開始する。
裏には勝手口のようなドアがあり、そこでも門番が野卑な顔付きで通行人を威嚇している。表側と違って窓は少ない。屋上には何も見えず、建物内に出入りできるかは不明だ。非常階段もないようだ。となると侵入するには門番を脅すか、魔獣の力を借りドアを破壊するしかないだろう。いずれにしても決行は夜間だ。だが、山本は終日あの中にいるのか、どう確かめると三島は考えた。
「おい、おまえ何しとんのや」
背後に横柄な声を聞き、三島が振り向くと二人の男が路地の向こうから見ている。声は二十代前半の若い男で、鼠色のスーツをだらしなく着崩している。もう一人は喪服のような黒背広の、三十過ぎの逞しい男だ。騒ぎを起こすのはまずい。三島は何とかこの場を切り抜けようとした。
「あ、僕は観光客なんですけど、道に迷ってしまって」
若い男はずかずかと近寄り、袖口を乱暴に掴んだ。
「何やと?観光客が来る所と違うぞ。ちょっと来いや、こら」
三島は抵抗せず、飲み屋の店舗裏の駐車スペースへと引っ張り出された。
「何しとったか言うてみい、ええ!俺達を誰だと思っとんのや」
男が三島の帽子を払い飛ばした。三島は顔を伏せたが、その容貌を一目見て男は驚いた様子を表した。
「あっ、兄貴、こいつ、例の奴に似てへんか?」
尋ねられた黒服の男は携帯を見て弟分に言った。
「おお、そうだな。連れてけ、支部長に確認してもらう」
若い男は三島の左腕を強く掴み、大声で虚勢を張った。
「来い!逃がさへんぞ、調べて痛い目に遭わしたる」
三島は周囲を素早く見回した。近くには数人の歩行者がいたが、甲高い怒鳴り声を聞いて関わらぬように散って行った。すると三島の腕を掴んだ掌の力がすっと抜けた。光の剣で胸を一文字に斬られた男はよろめき倒れた。
「くそ、貴様やっぱり」
黒服の男は青く輝く刃を凝視して苦渋の色で呟いた。そして突然駐車場の隅に積んであったビール瓶を掴み、渾身の力で振り下ろしてきた。しかし三島は男に背を向け、建物の壁を瞬時に数歩駆け上がった。ビール瓶が砕ける音が響いたとき、三島は壁を蹴って黒服の頭上で宙返りしていた。
「騒ぐな。静かにしろ」
背後に降り立った三島は腕を回して切っ先を男の顔に突き付けた。黒服は背広の下に入れようとしていた右手の動きを止め、必死に取り繕った声で凄んだ。
「貴様、三島か。支部の真ん前で舐めた真似しやがって」
「あそこは支部なのか。だが今は総本部だろう。山本がいるな?」
冷徹な問いに男は渋面を背けた。三島は男の背広の
「いる!特別室の中だ!」
「いつもそこに?」
「そうだ。籠もりきりで俺達とは滅多に顔を合わさないが」
「おまえはビルの鍵を持っているか」
「持ってない。鍵を持ってるのは幹部以上だ。俺のような下っ端はいちいちチェックしてもらわなけりゃ入れねえ」
鍵もないうえに検問されるのではこの男も使えない。強行突破しかないかと三島が考えあぐねていると、男は開き直ったのか毒づき始めた。
「おい、大西隊長を倒したからっていい気になるなよ。総督は凄い人だぞ。それに支部の中にゃ腕利きが三十人は詰めてる。貴様なんか」
口の減らない奴だ。三島はうんざりして右手に力を込めた。
「ああ、もういい」
黒服は弟分の横にぐにゃりと横たわった。三島は帽子を拾って被り直し、二人のポケットから携帯を取り出した。黒服のスマートフォンのボタンを押してみるが、ロックがかかっている。オリーブ社の少し前の型だ。三島は黒服の右手を持ち上げ、人差し指をボタンに触れさせた。すると、どこから入手したのか学会の名簿に載っている自分の顔写真が現れた。三島は苦い表情で二台の携帯を地面に叩き付けて壊し、男達に戻した。そして駐車場脇のゴミ置き場に並べて座らせ、カラス避けのネットを頭から被せた。これで少しは時間が稼げるだろう。三島は急ぎ足で車へ引き返した。
「遅かったな」
ドアを開けるとアランが憮然と言った。
「気付かれた」
「言わんことじゃないぜ」
呆れたようなポーの台詞には応えず、三島は続けた。
「見張り二人に気付かれたが始末した。他の連中にはまだ知られていないが、時間の問題だ。今日の夜やろう」
魔犬は少しの間黙っていたが、意を決した三島の瞳を見つめて返答した。
「よし。だが今度は恐らくこれまでのようには行かんぞ。山本は他の奴等とは違う」
三島は息を凝らしてアランの言葉を聞き、ためらいつつ尋ねた。
「違うとは、どんな」
「山本には恐れも後悔もない。ただ目的のためだけに殺す機械のような奴だ。脅しや手加減は通用しない」
魔犬にこう言わせる未知の敵のどす黒いイメージが胸の中に広がり、三島は息苦しくなった。悪い物を吐き出すように空咳を一つして、三島は話を再開した。
「山本はあのビルの特別室という所にいるらしい。用心棒が三十人ほど待機しているとも言っていた」
「雑魚がどれだけいようと問題ではないが、山本には油断するな」
エドガーが低く太い声で言った。
「多少自信が付いたと言ってもおまえは生身の人間に違いないんだ。無茶をせず俺から離れるな。いいか」
普段の気さくな調子が消えた警告は耳に重く響いた。いつの間にか固く握った手は汗で湿っている。三島は黙ったまま頷いた。
部屋に戻り、三島は魔犬に促されて午睡を取った。逃亡者達も人間の身体を借りている以上夜は就寝せねばならない。守りが手薄になる深夜に乗り込む手筈とし、魔犬は三島に休息を取らせたのだった。
充分な休息と軽い食事の後、西川邸に乗り込んだときと同じように服装を整えた三島と魔犬が部屋を出たのは午後十一時半を過ぎていた。点々と残る深夜営業の店の明かりが却って物寂しいほど往来の途絶えた道を白いミニは静々と進んだ。あちこちにいた見張りの姿もない。
三島は昼間と同じ辺りに車を停めた。降車した二人は前後に気を配りながらビルを目指す。正面に建物が見える位置まで来て、三島は場所を間違ったかと思うほど意外な光景を目にした。ビルの前には誰もおらず、門番すらも姿を消している。
「どうした」
足を止めたままの三島にアランが尋ねた。
「誰もいない。見張りも。昼間はあの前に大勢いたんだが」
「夜中だから引っ込んでるんじゃないのか」
ポーが鼻先を向けた壁の上の窓はフィルムを透かして光が漏れている。そうだ、手薄になるのを期待して来たのだ。わだかまりを抑え、三島は魔犬に目で返答した。
しかし、裏へ回っても状況はやはり不可解だ。裏口の番がおらぬばかりか闇に隠れて見張る者の気配もない。
『まさか、既に逃げられたか』
昼間の警戒ぶりから夜も数名は警護を置くはずという当てが外れ、三島は戸惑った。門番を捕らえて踏み込む手もなくなり、魔犬に考えを尋ねようとしたとき、やっと三島は微かな気配を背に感じた。
「おまえ、三島か」
迂闊にも背後に迫る者に気付かずにいたことに焦った三島は瞬時に剣を抜いて向き直った。すると声の男は狼狽し、ばたばたと数歩退いた。右手に持っていたナイフは構える間もなく光の剣で弾き飛ばされる。
「ま、待って!殺さないで!」
なぜか同じく気付いていなかった魔犬は三島と顔を見合わせた。
「こいつは違うぞ」
魔犬の呟きを耳にしておどおどと見回すその顔はまだ少年の面立ちだ。
「おまえは?どうして僕の名を呼んだ」
少年は答えるのも容易でなさそうなほど震えている。
「お、俺はあんたを連れて来いと言われた。ナイフは脅すために持ってただけだ」
「山本にか?」
「そう、そうだよ」
やはり組織の者か。だが、なぜこんな少年が。
「案内する。山本さんがあんたに会いたいと言ってる。本当だ」
三島は困惑した。会いたいとはどういう意味か。必死に訴える表情に疑いは感じられないが、待ち伏せがあろうかとも思える。
「中には用心棒が大勢いると聞いたぞ」
「今はいない。山本さんだけだ。絶対に嘘じゃない」
「行くぞ」
アランが一言を残して歩き始めた。その背に確信を感じ取った三島は剣の先で指図してまごつく少年を先頭に行かせ、後に付く。
少年は時折不安そうに振り返り、おぼつかない足取りで、しかし周囲を気にせず最短距離を進んだ。三島と魔犬は緊張感をみなぎらせつつ少年を追ったが、数十メートル先のビルの裏口へ何事もなく辿り着いた。
「今開けるから」
少年はポケットから取り出したキーを鍵穴に差し込んだ。三島は剣を構え、両足の裏に力を込める。
ドアが開いた。そこは風除室のような小部屋で、脇に階段と小型のエレベーターがある。奥には開け放された扉があり、事務所らしい部屋の中が見えるが、誰もいなかった。
「山本さんは三階の特別室にいる。これで上がる」
少年はエレベーターを指差したが、三島はすかさず遮った。
「いや、階段で行く」
少年は無言で従い、先に立って階段を上り出した。
二階にも人影はない。少年の主張が事実だとすると、見張りの言っていた三十余名はどこへ消えたのか。山本が人払いを?いや、やはり罠では。推測と懸念が交錯する。どうすべきかとの考えがまとまらぬうち、三島は三階へと導かれて来た。
「こっちだ」
少年は奥のドアを開けた。その向こう側は下階とは造りが異なり、部屋でなく廊下が続いている。壁に沿って進むと、奥にぽつりと一つだけ扉があった。屋内だというのにインターホンが備え付けられている。少年がボタンを押した。
「秋本です。三島…さんを連れて来ました」
「開いている。入れ」
通話口から声がした。ドアは僅かに開いており、数センチの隙間ができている。三島が刃先で先に行くよう示すと少年はレバー式のノブを両手で掴み、力を込めてドアを押した。ゆっくりと開いた厚い扉の奥はがらんとした簡素な部屋だった。30平方メートル程の空間に、安っぽい応接セットと、上座にはそれと対照的に立派な机と椅子がある。所狭しと武器が並んでいた香村の書斎に似た景色を想像していた三島は意外さに部屋を見回した。
「そいつはただの使い走りだ。放してやれ」
部屋の奥から低い声がした。机の向こうに椅子に浅く身を預け、こちらを見る男がいる。
「零時、逃がせ。ただの子供だ」
少年は魔犬が喋ったことに心底驚いた様子で、わっと小声で叫んで飛び退いた。
「行け。ここへはもう来るんじゃない」
男が身体を起こし、少年に言い付けた。三島が剣を下ろすと少年は慌てて男に一礼し、部屋を駆け出た。
少年が消えるのを見届け、男はやおら立ち上がった。姿形は中年のビジネスマンにも見えるが、隠しきれずに漏れ出る力があたかも負の磁場となって借り物の身体を覆っているように感じる。気圧されまいと三島は身構えて耐えた。
「おまえ達には会わねばならないと思っていた」
男が数歩進み寄った。人を射るが如くの眼光に三島の心肝が怯みかかる。
「俺達もだ、山本。雑魚では要領を得ん」
アランが言った。普段と何も変わらぬその物言いに励まされ、剣を持つ手に力を込めると、反力が勇気となって胸に届いた。
「李英傑の居場所を言え」
肺の空気を無理に押し出すように三島は語気を強めた。
「おまえが死神の名代か。見えないな」
山本は悠然と続けた。
「あきらめてもらおう。俺が困るのでな」
何を言うかと憤る三島の後ろで、重い音をたてドアが閉じた。山本の手にはスイッチのような物が握られている。三島は総毛立った。
「悪く思うな」
一言の後、山本は驚くべき俊敏さで身を翻し、脱出口に身を投じるように窓から外へと飛び出した。三島も劣らぬ速さでそこを目指すが、全ての窓は降りてきたシャッターに塞がれた。三島は歯噛みしてドアへ走り、懸命にノブを押した。微動だにしない。剣を握り締めたまま三島は開かぬ扉を茫然と見た。
突然、階下から轟音が響いた。僅かの後、床が傾き始めた。まさかを疑ったとき、再び階下から、更に階上からも爆発音が連鎖した。
「零時!」
魔犬の叫びが耳に届いたのとほぼ同時に、三島は鼓膜を引き裂くような大音量と圧力に晒された。身体が床を離れて浮き上がる。魔犬が変身しながら飛んで来るのが見えた。浜名湖でのときと同じ、情景がゆっくりと目に映っている。天井が崩れてきた。熱い空気の渦に巻かれ、瓦礫と煙の嵐の中を三島は木の葉のように舞った。
『残念だ、ここまで来て』
気が遠くなり、三島は闇へ落ちた。
DEATHBLOW デスブロウ 奏村 尚 @mormyrus
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