第8話

 「御苦労様です、三島先生」

 警視庁の正門には先週と同じ立ち番の若い警官がいた。異なっていたのは、彼が若葉色のパンダと三島を覚えていて、挨拶をして迎え入れてくれたことだった。

 「こんにちは」

 三島も笑顔を返し、パンダを先と同じ場所に駐車した。今日の会議は長時間を見込んで、後席を畳んだ車内後部の広いスペースで魔犬はゆったりと寝転んでいる。

 「じゃ、行ってくる」

 魔犬に声をかけ、三島は庁舎へと向かった。受付で案内された会議室へエレベーターで上がる間、三島は頭の中で発言すべき内容を反芻していた。これまでで知った事柄をうっかり口にしては〝秘密の暴露〟になりかねないからだ。

 会議室の前では真理が待っていた。三島を笑顔で迎え、真理は早速切り出した。

 「御苦労様、零時さん。待ってたのよ。お願いしたコピーあるかしら」

 昨日の午前中、発表の要旨を書面にまとめたものを出席者の人数分コピーしておいてほしいと電話で依頼されていたのだ。

 「ああ、これだよ」

 コピーの束を受け取ると真理は素早くドアを開けて中へと導いた。だが会議室へ一歩踏み入ったとき、三島は突然身が竦み、足が進まなくなった。どこからか飛んできた矢の毒が身体中に回っていくような恐怖を感じる。三島は眼球を動かして室内を見回した。ぎこちない視線で探った先の一点で目の動きが止まる。クーンが三島に微笑を送っていた。

 「さあ零時さん、もう始まるから。席はそこ」

 青ざめた三島に真理が促した。催眠術の被験者が意識を取り戻すように三島はその声で動き出した。

 「ああ、うん」

 会議室の中は正面の電子黒板に向かってU字型に長机が並べてある。三島の席は最前のクーンから二人置いた左隣だった。両脇は以前にも会ったことのある大学教授だ。三島はクーンを避けて席に着いた。程なく若い刑事が出席者の一覧と各自が持ち寄った資料のコピーを配り始めた。三島のものもある。警察関係者以外の出席者は二十名足らずと、こういった会議にしては少人数だ。今回は東京都を管轄とする警視庁の会議ということのようだ。

 「では皆様、本日はお忙しいところを御参加いただき誠にありがとうございます。私は会議の進行役を務める組織犯罪対策部の小林と申します」

 準備が整ったのを見て、堂々たる恰幅の中年の刑事が開始の挨拶をした。続いてこの会議では警察のトップとなる警視長が立ち、短く挨拶をして小林刑事に後を譲った。進行役の彼は三島の対面側に座る真理達警察官をざっと紹介し、名簿を見てゲストの一人一人の名を呼んで改めて礼を述べた。

 「三島先生、先の浜名湖では私どもの警備に到らぬところがあり大変御迷惑をお掛けしました」

 小林刑事は三島には詫びを言って頭を下げた。三島は会釈を返す。

 会議の次第書には研究者の名前と発表順が記されている。だが添えられた資料にクーンのものがない。彼は一体何を話すのだろう。そうっと横顔を覗き見ると、謎の司祭は向こう側の真理を見ていた。穏やかな表情だが、目だけはガラスのように冷たい。

 「では、早速皆様方の御意見を頂戴していきたいと思います。高橋先生、お願い致します」

 小林刑事がゲスト側左端の人物を指名した。時折テレビのニュース解説等で顔を見ることのあるアジア研究の専門家だ。

 ところが高橋教授の話は途中から三島の耳に入らなくなった。その道の第一人者だけに、語られたUNFALLSのアジアでの活動の目的や思想的背景、そして今後については緻密な推論ではあったが、彼はあの組織の正体を知らない。既知の犯罪組織やテロ集団の概念を超えられぬのは致し方のないことだ。それはここに集った他の研究者も同じだ。質疑応答では皆一様に回答に窮した。

 「その点についてはまだ明らかになっておりません」

 「何分これまでの例とは異なるところが多く」

 「現在の所は事態の推移を見守る他ありません」

 口々にエクスキューズを繰り返す彼等に警察官達は失望の色を露わにした。

 「では次に三島先生お願いします」

 弁解を聞き疲れた小林刑事はさほどの期待もない様子で三島を指名した。三島はクーンの方を見ず、真理と視線を合わせて立ち上がった。

 「ええ、今日皆さんにお話しするのは私の専門分野からはいささか離れたことになります。それは、あの組織の中枢が日本に存在する可能性が高いということです」

 両側の列席者達がざわめいた。歴史的に見てこの種の犯罪組織は欧州や中東諸国にその起源と中心部が集中しているからだ。三島が招集された理由でもある。

 「根拠は、日本特有の企業系列を利用した経済犯罪に酷似の例が欧米先進国に相次いで伝播、発生していることです」

 「ちょっと待ってください、三島先生。経済の分野の犯罪とテロリストがどう繋がるんですか?」

 小林刑事が訝しみつつ、また興味もありそうに口を挟んだ。

 「少し長くなりますが、御説明します。テロ組織が莫大な資金を必要とするのは周知です。その調達先として彼等が目をつけたのが巨大企業です。外面を重視する大企業に手を突っ込めれば、薬物や人身売買のようなリスクを取らずとも多額の資金を秘密裏に得られるのです」

 集中を欠き気味だった警察官達は目を覚まされたような表情で三島に注目した。

 「昨年、日本を代表する巨大家電メーカー、帝三電機とニチノー電機において発生した前代未聞の事件は皆さん御承知の通りです」

 三島は半年ほど前に発覚した二つの名門大企業が舞台となった犯罪を挙げた。それは、家庭用電気機器メーカーとしては国内第四位の帝三電機が鳴り物入りで発売したエアコンの性能偽装を発端とした背任事件である。

 今から二年近く前、帝三電機は画期的な新製品を発表した。ウイルス除去・防カビ・防虫効果を発生させ、しかも空気中の有害物質を測定限界値以下まで分解するというルームエアコンである。また冷蔵庫など同社製の他の家電製品を無線通信で監視し節電コントロールする司令塔の機能も併せ持ち、家庭内の電気機器による消費電力を最大25パーセント削減可能といううたい文句で高額商品ながらこのエアコンは大ヒットとなった。

 しかしながら発売後間もなく、ユーザーの間に期待したほど電気代が下がらないとか除菌効果があるはずなのに子供が病気になっただのといった疑問の声が上がり始めた。不満の声は日増しに高まり、やがて消費生活センターやメーカーの顧客相談窓口には苦情が殺到するようになった。

 帝三電機からOEMで商品供給を受けていた国内第二位のニチノー電機がクレームのあまりの多さに帝三の技術部に問い合わせたところからこの不正が発覚した。両社の技術者が合同で検証を行ったところ、売り物の機能全てが満足に働かないことが判明したのである。

 防カビ、防虫効果は認められず、除菌機能については送風口に消毒用の二酸化塩素の溶液が塗布されていただけであり、持続的な効果は期待できないものだった。

 節電コントロール機能も機器間の通信こそしていたものの、深夜などユーザーが一定時間使用しない間のみ出力を落とすというだけの初歩的な技術に過ぎなかった。

 このエアコンを実際に製造していたのは帝三電機直系の傘下企業で一次下請けのテイサンテックだった。帝三はテックに製造させた製品を出荷していただけで、修理やメンテナンスもテックに丸投げという杜撰ずさんな姿勢であった。

 「報道を御記憶のことと思いますが、帝三電機の上層部からの、技術的に困難な機能の搭載と大幅なコストダウンの要求に抗しきれずに開発製造元のテイサンテックが不完全な製品を性能偽装して納入した。これが事件の第一段階でした」

 警察官達は身を乗り出している。真理も意外そうな表情で三島を見つめていた。

 「そして欠陥製品が世に出たのは製造を指示した帝三電機の責任との認識が広まると同社の業績は急降下し、更に購入者への巨額の補償で未曾有の経営危機に陥って株価は大暴落しました。そこへ救いの手を差し伸べたのが提携相手のニチノーです。帝三の株式の45パーセントを取得して傘下に収め救済することを発表し、事態は収束に向かうかと思われました。ここまでが第二段階です」

 「実はニチノーはホワイトナイトではなかった、ということでしたよね」

 知っていると言いたげに、小林刑事がまた口を挟んだ。

 「仰るとおりです。真相はニチノー首脳部に帝三を安く買い叩いて手中に収めようと画策した者がいた。帝三内部には協力者がいた。既に明らかになっていますが、テックに無理難題を命じたのは当時の帝三専務、Aとしておきますが、この人物はニチノーの副社長、Bと事前に結託していた。Aは技術的に無理と知りつつテックの開発部技術本部長をやらねば解雇すると脅し、不完全な製品を故意に作らせ、それを市場に流していました。そして多数が消費者に行き渡ったのを見計らい、OEMを受けていたニチノーのBが指示して帝三へ指摘させたのです。結果ニチノーは日本最大の規模を誇る家電メーカーの地位を得ることができたというわけです。その後、規模拡大の功労者Bは社長へ昇格。AはBの引きでやはり帝三の社長へと昇進しました。真相を知らない当時の両社の社長は道義的責任からいずれも代表権のない会長へと追いやられています。つまりAとBは帝三とニチノーを牛耳る地位を得たことになります。ところが、欠陥品製造を咎められ懲戒解雇されたテイサンテックの技術本部長がAから恫喝されたことを暴露して事件の本質が明らかになりました。その後A、Bは背任の容疑で逮捕され今に到ります」

 「しかし三島先生、その両名がUNFALLSと繋がっているという証拠はありませんが」

 「AとBがそれぞれ社長に就任した直後、両社は合計1000億円近い特別損失を計上していますね。表向きはこの不正問題に関する処理費用とされていますが、両名が逮捕された後の監査でこのうちの一部が使途不明となっていることが判明しています。しかも両社ではこの他にも多額の使途不明金が数件見つかっています。それについてAとBは今も詳細な供述を頑なに拒んでいるそうですが」

 「その通りです。しかし…」

 「身の危険を感じて喋れないということでは?それから、両名には事件以前と性格などが変わったということはありませんか?もしそうなら、それは人間性を変化させられてしまうほどの相手との繋がりを持ったからだと推測できます」

 「あのヤマは二課だな。問い合わせろ」

 腕組みして聞いていた警視長が若手の刑事を手招きし、小声で命じた。刑事は会議室を飛び出していく。

 「最初に申し上げた通り、系列ケイレツとは日本独特のものです。支配企業の命令は絶対という慣習は会社同士が一致団結して力を発揮する反面、自浄作用が働きにくいと言えます。この事件の後に欧米で多発した酷似の例、米国のダイナスティ・エレクトリックとグランド、英国のブリティッシュ・ローランドとライオンズ、ドイツのDSUとヴィーゼンバッハなどでも、やはり巨額の金が消えています。帝三とニチノーの例を範に取ったような犯罪が各国でほぼ同時期に起きていることから、指揮命令を行った者の存在は間違いありません。それが日本にいると考えられます」

 三島は帝三電機とニチノーの事件の二人が逃亡者に違いないと魔犬からの助言で確信していた。経済犯罪としてUNFALLSとの関連については一顧だにされてこなかったこの事案を見直させる意図であった。

 「失礼、よろしいですか」

 クーンが挙手した。小林刑事に許されて立ったクーンは警察官達を見渡した。

 「宗教者としての分析を求めて招いていただいたことに反するようで恐縮ですが、私はあの組織は宗教との関連性はないものと思っています」

 「それは、どうしてですか。クーン先生」

 思いがけぬ発言に警視長はクーンへぐっと体を向けて尋ねた。

 「私が調べたところでは、構成員の素性は旧来の犯罪組織出身者を始め、急進過激派、ネオナチズム等々まさに種々雑多です。ことに注目すべきは、本来相容れないはずの欧米と中東の宗教系テロ組織にかつて所属した人物が多数同時に存在することです。これは棄教でもせぬ限り有り得ないはずです。更にUNFALLSがその活動において宗教を一切語らないことが、冒頭に申し上げたことを補強する事実です」

 「ですが、彼等なりの何かの目的のために呉越同舟ということも考えられるのでは?」

 「その可能性はありません。〝最後の血の一滴がれるまで戦う〟ことを標榜する戦士が不倶戴天の敵と協調するでしょうか。私は三島先生の説に賛同します」

 クーンは三島を見てにこりと笑った。視線を受け止められず、三島は下を向いた。

 「信仰や主義主張を置いても、という相手と結びついたと?」

 「その通りです」

 突然、部屋の片隅の内線電話が鳴った。取った小林刑事の広い背中が揺れている。受話器を置いた刑事は警視長に耳打ちし、二人は揃って三島を見た。

 「三島先生、皆さん—」

 言いかけて小林刑事は警視長を見る。許可の合図を受け、彼は話を続けた。

 「これからお話しするのは、まだマスコミには発表していないことです。どうか御内聞に。報道で御覧になったかと思いますが、先日西川公正弁護士の自宅で発砲騒ぎがありました。居合わせたという者が一名現場で名乗り出て、現在重要参考人として事情を聞いております。詳しくは申せませんが、自分と西川弁護士はUNFALLSの関係者だと証言していて、更に多数の人物の具体的な名前を挙げています。えー、只今入った情報によると、三島先生から御指摘のあった帝三電機とニチノーの件の容疑者二名もその中に含まれているということです」

 両側の机から驚きの声が上がった。だが三島は予断が正しかったことより酒向が約束を守ったことに安心した。

 「それから、えー、参考人は、喋ったことで非常に自分の身を案じ、強く保護を求めておりまして、三島先生のお話と符合する点があります」

 会議室はやにわに騒がしくなった。周囲が色めき立つ中、真理だけが熱い眼差しをじっと三島に向けている。

 「皆さん」

 警視長が立ち、押っ取り刀の警官達を制してゲスト側の列席者に呼びかけた。

 「大変申し訳ありません。本日の会合はここまでとさせていただきたく思います。私共としては風雲急の事態に対処せねばなりません。どうぞ御理解ください」

 警視長は一礼すると部下に目配せをした。ばたばたと部屋を出て行く警官達の最後尾で真理が小さく手を挙げて三島に視線を送っていった。

 時計を確認し、三島が書類を片付けていると、発言の機会がなかった研究者に詫びていた警視長が歩き寄ってきた。

 「三島先生、今日はありがとうございました。慧眼、感服しました。今後とも貴重な御意見をお願い致します」

 幹部警察官らしい鋭い眼を細め、警視長がねぎらった。三島はカンニングで満点を得たような後ろめたさを感じ、態度を取り繕った。

 「いえいえ、そんな。微力がお役に立てば」

 頭を下げて警視長は去った。見るとクーンの姿は既にない。三島はふっと息をついて帰り支度を続けようとした。

 「すみません、三島先生ですね」

 目を上げると中年の男が一人立っている。会議にはいなかった顔だ。

 「五課の尾形と申します」

 刑事は名刺を机に置き、軽くお辞儀をした。

 「あ、はい。三島です」

 名刺には〝組織犯罪対策第五課 警部補 尾形一将おがたかずまさ〟とある。課は異なるが真理と同じ組織犯罪対策部の所属だ。白髪交じりの七三分けに地味な紺のスーツの尾形警部補は五十代前半の叩き上げといった風貌だ。

 「少しお話を伺いたいんですがよろしいでしょうか。それほどお時間は頂きません」

 「ええ、結構です」

 出席しなかった課の刑事として尋ねたいことがあるのだろう。三島は気軽に承諾した。

 「では、どうぞこちらへ」

 尾形警部補に案内された部屋は狭く薄暗かった。中は机と椅子が二揃いに、簡素な折り畳み式のパイプ椅子が数脚置いてあるだけだ。尾形警部補は三島に椅子を勧め、向かいに腰掛けた。

 「どうぞ」

 若い刑事が運んできたお茶を三島に差し出し、隅にパイプ椅子を置いて座った。

 「それで、お話とは何でしょう」

 「三島先生、一昨日の火曜日、午後6時30分頃から午後8時頃まで、どちらにいらっしゃいましたか」

 三島の身体が瞬時にこわばった。

 「家…にいましたが」

 この刑事は何かを知っているのか。懸命に平静を装ったが、心中は乱れた。

 「証明できる方はおられますか」

 「いえ、一人暮らしなので」

 ふむ、と尾形警部補は小さく頷き、話し始めた。

 「御存知でしょうが火曜日の夜、西川公正弁護士の自宅で何かの騒ぎがありました。現場では調べが続いていますが、今日の午前中、匿名である物が警視庁に届きました。当日の西川邸の防犯カメラの記録映像が入ったUSBメモリーです。内容は検証中ですが、三島先生とよく似た人物が写っていまして、ちょうど今日こちらにおいでだと聞いて参考までに伺った次第です」

 カメラには気を配ったはずだ。あれ以外にも気付かぬ所に、しかも記録を警視庁に送りつけた者が—三島は奥歯を噛み締めた。

 「御覧ください」

 尾形警部補が手元のファイルから写真を取り出した。そこにはやや不鮮明ながら、西川邸の庭で建物を背にした三島が写っていた。手前には魔犬もいる。南側の壁内側のどこかに、敷地内を写すカメラがあったのだ。

 「暗くて鮮明ではありませんが、署内にこの人物が三島先生によく似ていると言う者がおりまして、見ていただきたいと」

 「騒ぎがあったとき現場にいたと証言している参考人がいるそうですね。その人にこれが僕かどうか訊いてみてください。それに、僕がそこにいる理由は何でしょうか」

 「私もそれが知りたいのです」

 尾形警部補は三島の問いを静かに撥ね返した。茫漠とした印象は消え失せ、眼鏡の奥から鋭敏な視線が放たれている。狭い部屋の空気が沈黙で澱んだ。三島は胸苦しさに耐えていた。

 「尾形さん、尾形警部補!美園です」

 強いノックの音が固まった空気を崩した。真理の声が部屋の外で響いている。若手刑事が立ってドアを開けた。

 真理が踏み込んできた。真理は三島の顔を確かめると口元を少しばかり緩め安心した表情を見せた。身体の力が抜けた三島も思わず笑顔になった。

 「尾形さん、ちょっと」

 真理が尾形警部補を外へ促した。

 「少しお待ちを」

 尾形警部補は三島に断って真理と廊下へ出た。

 「尾形さん、どういうことですか」

 扉の向こうから低い声が聞こえる。真理が尾形警部補に詰問している。

 「三島先生に少しお話を」

 「三島さんに何か疑いでもあるんですか」

 「いえ、参考までに伺っただけです」

 「三島さんは次長の要請で捜査に協力してくれているんですよ。失礼じゃありませんか」

 「それは存じてます」

 尾形警部補は若い上役に冷静に答えている。真理は看過できぬという調子で詰め寄っている。

 「大体、これは許可を取ってのことですか。今日の会議の責任者は警視長ですよ」

 「何分、緊急のことですから。それにわざわざ別の機会にお時間を頂くよりも今日お聞きした方が早いと思いまして」

 「とにかく、三島さんにはお帰り頂きます。これ以上お引き留めできません」

 「そうですか。分かりました」

 ドアが開いてまた真理が入ってきた。

 「さあ三島さん、行きましょう」

 急き立てるように真理が声をかけた。部屋を出る三島に尾形警部補は一礼し、無言で見送っている。

 「ごめんなさいね、零時さん」

 エレベーターへ向かう廊下を歩きながら真理が詫びた。

 「みんな一生懸命なのよ。五課は銃器を扱ってるから尚更ね。気を悪くしないで」

 「いいんだよ」

 三島は笑顔で応えた。すると真理の表情がふと和らぎ、桜の色をした唇が僅かに動いた。

 「零時さん、この頃、何だか…」

 「何?」

 ぽつりと呟いた言葉の意味を聞き返すと、真理は一瞬浮かべたはにかみを笑顔で隠した。

 「ううん、何でもないの」

 エレベーターが来た。

 「ありがとう。また電話するね」

 真理は軽く手を振った。扉越しに三島は微笑を返した。

 車に戻ると、退屈そうに寝転がっていた魔犬が言った。

 「遅かったな」

 「ごめん。長引いちゃったんだ。ドーナツでも買って帰ろう」

 キーに指を掛けて前方を見たとき、三島は異様な光景に目を留めた。正門前に二十代から六十代程の女性十数人が詰め掛け、何事か訴えている。対応しているのは二人の警官で、一人はあの若い門番だ。両名とも勢いに押され困惑している。ウィンドウを開けると気色ばんだ声が聞こえてきた。

 「だから言ってるじゃないの。タイ先生をお迎えに上がったのよ」

 「どうして入れてくれないのよ。私達はタイ先生の信徒ですよ」

 「あなた方、何の権利で邪魔をするの?信教の自由を妨害する気ですか!」

 よく見ると中には確かに昨日川崎駅前の通りで見た者もいる。皆クーンが身を寄せている教会の信者か。しかしやはり女ばかりだ。

 「どうか落ち着いてください。先生はじきいらっしゃいます。ここは駐車禁止ですのでまずはお車を移動してください」

 門前に乱雑に駐められているアウディやボルボ、ベンツなどを指差し、中年の警官が興奮する女性達をなだめるように言う。

 「だから中へ通せと言ってるのよ!主人は警察の上の方とお知り合いですからね。言っておきますよ」

 六十前後の婦人が警官を面罵した。身なりは上品だが、何かに浮かされているかのような悪相だ。

 「おや、皆さん来てくださったんですか」

 魔犬と三島ははっと声の方を見た。クーンがいる。彼はパンダの横を通り過ぎ、微笑みながら女達に言った。

 「皆さん、どうぞお気持ちを静めてください。お巡りさんが困ってらっしゃるじゃありませんか。さあ、私と一緒に行きましょう」

 クーンの一声で女達の顔付きが別人の如くに変わった。うっとりと司祭を見つめる集団の一人が感極まったような声を上げた。

 「さすがタイ先生だわ。お優しいこと」

 唖然とする警官を尻目にかしずく女達に取り巻かれ、クーンは迎えの車の行列で去った。

 『タイ先生の信徒…』

 後に残されたもやもやとした気味悪さに三島は窓を閉じ、魔犬に言った。

 「今の、おかしいと思わないか。昨日も—」

 そのとき、誰かが運転席のガラスを叩いた。音に驚いて見ると真理が立っている。

 「零時さん、大変!研究所が」

 真理が信じ難い言葉を叫んだ。

 「爆発があって、大怪我をした人がいるそうよ」

 彼女は今何と言った?もどかしく窓が下り、青ざめた真理に質問しようとしたとき携帯が鳴った。

  「三島先生、無事ですか」

 松本だ。落ち着きを失った声でこちらを案じているのがむしろ不安をかき立てる。

 「僕は大丈夫だけど、松本君、爆発って」

 「お聞きですか。お昼頃、三島先生宛に小包が届いたんです。先生は警察の会議で留守だから、間先生が預かってくださったんです。それが爆発して」

 驚愕で三島は絶句した。

 「それで、三島先生の身が心配で」

 「間先生は?怪我は?研究所はどうなった」

 言葉が詰まってうまく質問できない。松本が沈んだ声で答えた。

 「間先生は救急車で病院へ運ばれました。命は心配ないそうですが、重傷で…。研究室の一部も焼けてしまいました」

 ほんの僅か、三島は自分の周りの時間が停止したように感じた。その間に、一つの確信が固まった—僕を狙っている者がいる—。

 すぐ行く、と言って三島は携帯を切った。苛烈な魔犬の瞳が見ている。

 「待って、零時さん。今は危ないわ」

 真理が窓枠に手を掛けて訴えた。だが、行かねばならない。

 「所のみんなが心配だ。責任もある」

 「あなたが標的かも知れないのよ。それに現場はまだ混乱してるわ」

 「僕の職場なんだ」

 真理は遺憾の表情でドアから手を放した。

 「気を付けてね。何かあったら必ず連絡を」

 「分かった」

 パンダは警視庁の門を飛び出した。

 「香村の家での僕等の映像を警察に送った者がいる」

 助手席に移動した魔犬に三島が告げた。

 「逃げおおせた奴がいたのか」

 アランが尋ねた。

 「だろう。不鮮明だったから深くは追求されなかったが、明らかに僕等を追い込む意図だ」

 「おまえの職場に届いた爆弾もそいつの差し金だな」

 「この車は目立つからな。あの後、例の司祭と立ち話などしていたから番号を見られたんだ」

 腹立たしげなアランに続きポーが素っ気なく言った。三島は唇を噛んだ。そうだ、あのときクーンに呼び止められ言葉を交わしている間に香村宅から逃げ延びた者にナンバーを見られたのに違いない。迂闊だった。唇の端から後悔の呻きが漏れた。

 研究所の周囲は警察と消防車両、報道機関の者達で混乱していた。三島は規制を敷いている警官に断って車を駐め、魔犬と敷地内へ入った。火災は既に鎮火していたが、扉が外れた研究所の正面玄関は消防士と警察官が忙しく出入りしている。建物側面の間教授の研究室の窓から吹き出た黒煙の跡が感情をかき乱す。

 「三島先生!」

 松本が駆け寄ってきた。彼がいた敷地の隅には数人の職員が残っていた。

 「先生、よく無事で」

 松本の白いシャツは黒く汚れていた。この状況でなお自分への心配を口にする松本の顔を正視できない。申し訳なさで身の縮む思いだ。魔犬は身を寄せ合う職員達の傍へ行き、その顔を一人一人確かめていた。

 「ポーちゃんも無事だったのね。よかった」

 女性職員が涙を拭いながら魔犬を撫でている。

 「間先生の容体は?」

 やっとの思いで三島は松本に尋ねた。

 「爆発が目の前で起きて…。小包を研究室に預かった後、音がするのに気付いて近寄ったときに爆発したそうです。それで、右手の人差し指と中指を切断されました」

 悪夢を語って聴かされているように三島は冷たい汗を流して身動きできなかった。松本が話を続けた。

 「救急隊の人によれば、指はすぐに再接着手術が必要だけれど、意識もはっきりしていて命の心配はないそうです。積んであった本が盾になって命拾いしたと」

 その言葉を聞いて、いつも分厚い書籍資料に囲まれていた教授の幸運を三島は胸の奥で喜ぶと同時に神に感謝した。

 「病院は?」

 「聖マドレーヌ国際病院です」

 三島がさっと踵を返すとすかさず魔犬が走ってきた。共に走り出そうとして、三島はふいに足を止めて振り向いた。

 「ごめん、松本君。僕のせいでこんなことになった」

 松本は困った表情で微笑み、胸の前で両手を振った。

 「誰もそんなこと思ってませんよ。三島先生こそ、警察の協力者だからとまた狙われるかも知れません。気を付けて」

 三島はずいと松本に歩み寄り、その手を握って頭を垂れた。

 研究所を後にした三島と魔犬は間教授が搬送された病院へ急いだ。

 「おかしな連中だな。心配されるべきは自分達だろうに、なぜあれほど俺達を」

 アランが独り言のようにぽつりと口にした。三島もまた、誰に言うでもないふうに答えた。

 「いい人達だからさ」

 魔犬はそれには何も言わなかった。

 ナビに現れた大きな区画が近付いてきた。聖マドレーヌ国際病院は文京区では最大の救命救急センターを持つ総合病院だ。救急隊の選択は適切だった。手指の再接着術は一刻を争う。車を駐め、三島は手術の成功を祈りながら魔犬とセンターの入口へ走った。

 「すみません。今日の午後、指を切断して運ばれた人がいるはずですが」

 入るなり三島は息急き切って尋ねた。一般救急外来の受付カウンターにいた看護師が応答した。

 「ああ、爆発で怪我をなさった方ですね。御家族ですか」

 「同僚です」

 「手術直後ですので御家族以外の面会は御遠慮ください」

 「お願いします。先生は私の身代わりで怪我をされたんです。何とか一目」

 看護師は困惑の色を浮かべたが、仕方ないという表情で応じた。

 「では、なるべく短くお願いしますね。場所はこちらです」

 センターのある病棟の案内図を見せ、看護師が指差した。一階の最も奥にある個室だ。

 「分かりました。ありがとう」

 言うが早いか三島は駆け出した。伏せていた魔犬に気付いた看護師の動物は困りますという声や、すれ違う患者達の驚く様子には構わず二人は走った。

 長い廊下の終わりまで来て、その部屋の患者の名札を確認すると『間哲朗』とある。ドアは開いていた。面会者はいない。三島と魔犬は足音を忍ばせて中へ入り、静かにドアを閉めた。

 間教授は眠っている。瞼には血の塊がこびり付き、頬にも幾つか傷があった。

 「間先生…」

 三島のか細い嘆きが聞こえたのか、間教授は麻酔の浅い眠りから覚め、小さな呻きと共にゆっくりと目を開けた。

 「ああ…三島先生か」

 「間先生、すみません。僕のために」

 「何を言ってるんだね。君が悪いんじゃない」

 間教授は普段のままの穏やかな口調でがっくりとうなだれる三島を諫めた。三島の肩が震える。

 「おや、君も来てくれたのか」

 傍らでじっと見つめている魔犬を認め、教授は頬を緩めた。上体を僅かに起こし、厚く包帯が巻かれた右手を魔犬の頭へと伸ばした。包帯の間から覗くガーゼには血が滲んでいる。魔犬はその手を鼻先でそっとベッドへ押し戻した。

 「間先生、どうか…」

 言葉を続けられない。間教授は分かっている、とばかりに眼を細めて遮った。

 「心配ない。私はまだ死なないよ。あの世には研究を持って行けないからね」

 三島は悲嘆と苦渋に歪む顔を両手で隠した。指の間から小さい嗚咽が漏れる。

 ノックの音がした。二人の看護師が入ってきて、一人が咎める口調で三島に言った。

 「ちょっと、ここは病院ですよ。動物はいけません」

 「この子は聴導犬ですよ。彼は少し難聴で」

 間教授が微笑して言った。看護師は怪訝な顔になり、ひそひそと何か言葉を交わした後、きまりが悪そうに付け加えた。

 「それなら最初に言って頂かないと。じゃ、お早めにお願いしますね」

 看護師達は魔犬を避けるようにそそくさと立ち去った。

 間教授は柔和な表情のままだが、三島は既に言うべき言葉を考えられなくなっていた。居たたまれず、ただ深く頭を下げて病室を出た。

 「アラン」

 魔犬は閉じたドアへ向いたまま沈黙している。

 「エドガー、…」

 「いい、黙ってろ」

 抑制した声でエドガーが応えた。その肩に触れて魔犬の頭を覗き込んだ三島は思わず手を放して後ずさった。六つの目が憤怒の赤光しゃっこうを放ち、隠しきれぬ牙が口吻から飛び出していた。背筋の毛はアザミの棘のように逆立ち、熱い息に合わせうねっている。

 『そうか、おまえ達も』

 三島は腰を落とし、厳つい頸に額を当てた。


 三島と魔犬が自宅に着いたのは午後七時に近かった。薄暗い駐車場から重い足で三階奥の自室に辿り着き、ドアに鍵を差し込んだとき、魔犬が低く鋭い声を発した。

 「待て」

 三島は静電気の軽いショックを感じたように指先の動きを止めた。魔犬がドアへ鼻先をしゃくった。鍵から静かに指を放し、姿勢を低くして口吻に耳を寄せる。

 「中に誰かいる。数人だ。扉を開けたらまず俺が飛び込む。おまえはすぐに明かりを点けろ。剣を抜いておけ」

 三島は頷いて鞄から剣を取り出した。抜くと既に光がまばゆい。抜き身を内ポケットに差し、立ち上がってゆっくりと鍵を回す。魔犬が合図した。三島はドアを素早く半分ほど開ける。隙間から魔犬が矢の如く飛び込んだ。一秒と経たぬうち、ぎゃっという悲鳴が聞こえた。室内へ滑り込んだ三島は剣を抜いた。闇の中の幾つもの足音と悲鳴を聞きながら、壁のスイッチを目視せずに押す。

 照明の下、姿を現したのは五人の男だった。革手袋をした手にナイフやナックルダスターを持っている。男達は壁を背にした三島を扇形に囲んでいるが、何人かは魔犬の牙にかかって血を滴らせていた。

 「こっちは五人だ、手早く片付けるぞ」

 中央の短髪の男が言った。黒いトレーニングウェアでスポーツマン風だ。他の者が口々におう、などと応じた。この男がリーダーらしい。

 いち早く左端の男がナイフを低く構え突進してきた。遅れじと他も続く。三島は先頭を左に避けざまに剣で首筋を薙いだ。

 四人の男は素早く三島へと向き直ったが、目の前にどさりと倒れた仲間に一瞬視線を落とし、たじろいだ反応を見せた。

 「はええ、見えんかった」

 一人が呟いた。憎しげにリーダー格の男が指で指示すると、暗殺者達は三島と魔犬を包囲した。そしてリーダーの舌打ちの音を合図に、上段、中段、下段に分かれ、それぞれの武器を振るって飛びかかってきた。

 『遅い』

 攻撃は空を切った。それとほぼ同時に、二人の男が悲鳴を上げた。頭上に跳び上がった三島が一人の頭を蹴り、もう一人は魔犬に片手を砕かれ引き倒されていた。着地した三島は倒れた二人を撫で斬りにする。

 「くそ!」

 茶色い髪をモヒカン刈りにした格闘家風の男がタックルの姿勢で突っ込んできた。が、三島が体勢を整えたときには魔犬が男の顔目がけ跳躍していた。男はわめきながら魔犬を引き離そうともがくが、牙が更に顔面へ食い込む。リーダーが渋面も露わに不明瞭な言葉で罵りながらポケットに手を突っ込んだ。

 「アラン、危ない」

 サイドボードに飛び乗った三島は跳ね返るように空中に踏み出して剣を構えた。

 「この野郎!」

 男も速かった。素人目には瞬間移動にも見えるだろう三島の動きに即座に反応し、銃口を魔犬から三島へと向けた。だがそこまでだった。指が引き金を引ききる前に三島は身を縮め、男の手に剣を振り下ろした。

 鈍い金属音がして、青い残光の中にオレンジ色の火花が散った。剣を避けようと男が手を引っ込めた途端、刃が銃身に食い込んだのだった。拳銃は落ちて転がった。猫のように床に下りた三島は魔犬に顔を食いちぎられそうな男の頭に剣を突き刺した。

 「畜生」

 一人残ったトレーニングウェアの男は眉間を寄せて悪態をつき、拳を構えた。

 『この男もボクサーか』

 三島は男のリーチを見つつ半身の姿勢で間合いを取る。切っ先はまっすぐ相手の顔に向けている。

 睨み合ったまま数秒過ぎた。いきなり男が敏捷な足さばきで正面から迫った。剣を巧みにかわし、ボディブローを繰り出す。

 『今までの奴等とは違う』

 男の拳はこれまで戦った誰より速かった。しかし戦いの中での三島の思考と視力の速度はもはや常人の域を外れている。三島は海老のように腰を引き、パンチをかわした。

 「んっ!」

 三島の上がった顎を目がけ、下から恐るべきスピードで黒い物体が接近してくる。首に風圧を感じながら三島は思い切りのけぞった。バランスを崩し後ろへ倒れ込む。

 「ようけたのう」

 男が唇の片端で苦笑した。この男はキックボクサーだった。今の膝蹴りが命中していたら危なかっただろう。

 「ぶっ殺したる」

 立ち上がろうとする三島に男は軽いフットワークを駆使して攻めかかった。中腰の三島の頭に回し蹴りが飛んできた。

 「ぐあっ」

 男の蹴りが揺らぎ、スピードが鈍った。魔犬が軸足に食い付いている。横目で蹴りを捕捉した三島は左腕で防御したが、これも間一髪だった。

 「零時、大丈夫か」

 魔犬が三島を庇うように跳び戻った。体勢を戻して三島は頷いたが、男の蹴りは重く、ガードした左腕が痛い。

 「くそ、番犬が」

 男は噛まれた左足をぐらつかせながら、怒りと苦痛に頬を震わせている。再びファイティングポーズを取る男と、六つの目を燃やす魔犬、そして三島が対峙した。

 「はっ!」

 男が前進した。三段跳びのように迫る動きは手負いと思えぬ速さだ。三島は視線を集中して正面で剣を構えた。男の右腕が顔を狙うストレートを繰り出す動作に入ったのを目測し、上体を低くする。

 次の瞬間、三島はしばらく忘れていた恐怖を感じた。ギロチン台に架されたように身動きが取れない。ストレートを放つと見せかけた男が三島の頭を両手で掴んだのだ。焦る三島の目前に再び膝蹴りが迫る。三島は恐怖に目を見開きながら、剣を持つ右手を咄嗟に顔の前にかざした。

 「ぎゃっ」

 男は三島を放してよろめき、倒れた仲間に足を取られて尻餅をついた。剣の柄が膝頭を痛打したようだ。三島はすぐさま数歩後退した。そのとき、男に魔犬が襲いかかった。牙を避けようと振り回す右腕に噛み付く。

 男が絶叫した。魔犬の口元から血しぶきが飛び散る。必死の抵抗と悲鳴に構わず、魔犬が男を三島の近くへ引き摺ってきた。

 「やれ、零時」

 男の腕を放し、口吻を血で染めたエドガーが言った。男は伸びきった右腕から血を床に滲出させて半ば失神したように倒れている。三島は吸血鬼に止めを刺すが如く、男の前で剣を構えた。

 「あっ」

 男の右足が腕を蹴り上げた。振り下ろしかけた剣が手から後方へ弾かれる。男は左側へ転がって飛び起き、窓へと走った。ソファーを跳び越し、窓を一撃で蹴破るとベランダから躊躇なく飛び降りた。

 「三階だぞ」

 驚く三島を差し置き、魔犬が後を追って飛ぶ。剣を拾いベランダへ走る三島の耳に地上から叫び声が届いた。夜闇を見下ろすと駐車場の中央付近に倒れた男と蹂躙するように立つ魔犬の姿があった。三島は剣を鞘に収め、室外へ出て階段で一階へ下りた。

 男は両足のアキレス腱を噛み切られていた。腕にも深手を負っている男は這うこともできず全身をわななかせている。

 三島は後ろをそっと振り返った。五階建ての三十戸のうち、数軒の住人が騒ぎに気付いたのかベランダから覗いている。三島は落ち着いた態度で建物を背にして男の横に腰を下ろし、住人達に見えぬように刃を首に突き付けた。男は恐怖を苦痛に隠して顔をしかめ、視線を背けた。

 「誰の命令だ。なぜここが分かった」

 「山本総督だ。おまえは三島だろう。車のナンバーから調べた。香村さんをやったな。山本総督が怒ってる」

 三島は思わず唇の間から噛み締めた歯を覗かせた。

 「研究所に爆弾を送ったのはおまえ達だな。警察に届いた映像もそうだろう」

 「爆弾は部下がやった。警察は知らん。俺達はおまえを殺せと言われて来ただけだ」

 やはりこいつらが—三島は激情にかられて刃を突き刺したくなるのを堪え、質問を続けた。

 「日本総本部は豊橋だな?そこに李英傑はいるか」

 男の顔に微かな狼狽の色が現れた。

 「知らん。総帥の居場所など俺達兵隊には分からん」

 「山本はどうだ。正直に答えないと今すぐ冥界に戻ることになるぞ」

 「ふん。覚悟はできてる。やるならやれ」

 「おい、大西」

 捨て鉢に言い放った男の横顔を踏みにじり、魔犬が名を呼んだ。男は驚いて視線を上向ける。

 「冥王様が新しい罰を用意して待っているぞ。おまえはズタズタの切れ端になるまで打たれ、踏まれ、引き裂かれるんだ。永遠にな。それでもおまえが面白がって殺した者達の無念は消えん」

 男の表情が一変した。暗殺部隊の指揮を執った精悍な顔付きは下等な動物のように弛緩し、涙と鼻汁を流しながら訴えた。

 「ゆ、許してくれ、頼む」

 男は踏まれた頭を地面に擦りつけた。

 「山本の居場所を言うんだ」

 「総本部のはずだ。俺は豊橋からの電話で総督に直接指示された。嘘じゃない」

 「分かった。よくも間先生を傷つけたな」

 三島は首の根へ剣を深く差し込んだ。

 「あれ、三島さんじゃないか?」

 背後で声がした。剣をポケットの鞘に戻し、肩越しに振り返ると顔見知りの一階の会社員がベランダに出てこちらを見ている。三島は意識を失った男の背を押さえ、後ろを向いた。

 「ああ、伊藤さん」

 三島は口元を少し緩めて返事をした。

 「どうしましたか」

 「泥棒に入られたんですが、今捕まえました」

 伊藤はええっと驚いて恐る恐る尋ねた。

 「大丈夫ですか。怪我してませんか」

 「ええ。番犬が護ってくれましたから。あの、すみませんが縄かロープのような物はありませんか」

 伊藤は急いで部屋に戻り、結束用のビニール紐の束を持ってきた。

 「こんな物しかありませんが、大丈夫ですか。暴れたりしませんか」

 「構いません。気を失ってますから。こっちによこしてもらえますか」

 伊藤は紐の束をベランダから投げた。魔犬が拾う。どうせ当分意識はないが、住人達を安心させるためだ。三島は紐で男をぐるぐる巻きにすると抱え起こし、駐車場の暗い一角に座らせた。

 「警察に電話しましょうか」

 心配そうに伊藤が声をかけた。

 「警察に知人がいますので、直接電話します。どうも御心配を」

 三島は笑顔で会釈し、駐車場から自室へと戻った。

 部屋は戦いの跡で荒れていたが、戸棚や引き出しなどは物色されていなかった。三島は電話を取り、真理を呼び出した。

 「どうしたの、何かあった」

 緊張感を帯びた声で真理が応答した。

 「今自宅だ。待ち伏せしていた組織の者に襲われた」

 「えっ、何ですって!無事なの、怪我は」

 口調から普段の冷静さが消えた真理を落ち着かせるよう、三島は淡々と答える。

 「大丈夫、無事だよ。番犬に助けられた。犯人がここにいるから来てほしい」

 「犯人って、何人?今どうしてるの?」

 「五人だ。全員気を失ってる。怪我をしてる者もいるから救急車の手配も頼む」

 「五人!」

 真理は絶句した。数秒後、信じられぬという気配で聞き返した。

 「本当に怪我してない?大丈夫?」

 「うん、平気だ。僕の部屋に四人、駐車場に一人いる。拳銃や武器もあるから急いで。他の住人に危険が及ぶので僕はしばらく家を離れる。ここを保全してほしい。それから、祖父母の家にも警戒を頼みたいんだ」

 「出て行く?だめよ、そんなこと。危ないわ。警察で保護します」

 真理は言下に三島の言葉を退けた。

 「普通の相手じゃないんだ。それに僕にはやることがある」

 「それは分かってるわ。でも場合が場合なのよ。お願い、すぐに行くからそこにいて」

 三島はふっと少し笑い、真理に優しく言った。

 「ありがとう、真理ちゃん」

 三島は電話を切った。戻した受話器はすぐに鳴り出した。無視して着替えや当座の現金など最低限の荷物を手早く用意する。旅行鞄に詰めていると今度はサイドボードに置いた携帯が鳴った。画面に真理の名が表示されている。三島は携帯のGPS機能と電源を落として内ポケットに入れた。

 「ここにはいられない。しばらく旅になるぞ」

 魔犬は黙ってドアの前で待っている。三島は荷物を手に、部屋を出た。


 若葉色のフィアット・パンダは目白通りを西へ向かっている。もう午後九時に近い。三島は車を路肩に停め、携帯の電源を入れた。

 「車を換えよう」

 祖父母の家の番号を呼び出して応答を待つ。

 「はい、三島でございます」

 いつもと変わらぬ穏やかな口調の祖母が出た。安堵して三島も普段のように話す。

 「おばあちゃん。零時だけど」

 「零ちゃん?どうしたの、今どこにいるの」

 祖父母がニュースを見聞きしていないことを期待したが、やはりそれは無理だったようだ。

 「今そっちに向かってる」

 「警察から二回も電話があったのよ。真理さんと、オガタっていう人から。零時さんは行ってませんかって。それから、何か異常はありませんかとも」

 尾形警部補の名を聞き、三島は緊張感に短い沈黙を強いられた。あの刑事はやはり僕を追っているのだ。

 「電話したのよ。あなたのマンションと携帯に。どうして出ないの。心配したのよ。怪我はしていないの」

 「大丈夫。爆発があったときは別の場所にいたよ。怪我をした上司を見舞いに病院へ行ってたから携帯は切ってたんだ。警察からの電話は研究所の職員だからさ。おじいちゃんはどうしてる」

 「心配してるわよ。代わりましょうか」

 「いや、いいよ。あのね、車を貸してほしいんだ。おばあちゃんのミニ」

 一年程前に軽度の白内障と診断された祖母は最近は運転を控えている。彼女のオフホワイトのミニは目立たない。

 「車はどうしたの」

 「最近調子が悪いんだ。しばらくしたら着くから僕のと入れ替えさせてほしい」

 「分かったわ。それじゃ待ってるから、気を付けてね」

 祖父母が待つ家に着くと、三島は二人から質問攻めに遭った。だが幸いなことに、真理も尾形も老夫婦に配慮してか孫がテロリストに命を狙われていることや西川邸での発砲事件に関係している疑いについては話していなかった。三島は注意深く祖父母の心配を解くように説明した。高校教師だった祖父と小学校の教諭を務めた祖母は理路整然とした三島の話に得心し、それ以上は訊かなかった。

 「じゃあおばあちゃん、しばらく車を借りるよ」

 三島はキーを受け取り外へ出た。魔犬はパンダの中だ。彼等はここが三島の祖父母宅と聞くと車で待つと言った。

 庭の隅の古いカーポートの扉を開けると祖父のプジョー508と、白い車体に少し埃を被った祖母のミニ・ファイブドアが置いてある。三島はミニに乗り込みイグニッションを慎重に作動させてみた。気持ち長めのセル音の後、エンジンが回り出した。アイドリングは安定している。安心して三島はミニを路上へ出した。

 「こっちに乗ってくれ」

 パンダのドアを開け魔犬をミニの後席へ導き、荷物をトランクへ移すと三島は途中ホームセンターで買ったボディーカバーとロープを降ろした。ミニと入れ替えたパンダにカバーを被せ、車体とナンバーが完全に隠れるようにしてロープで固定した。

 「おや、カバーを掛けたのか」

 出て来ていた二人がパンダを見ている。

 「雨漏りするんだ。エンジンも調子が良くないし。でもイタリアから部品を取り寄せるのに時間が掛かるって言われて」

 そう祖父に答え、三島はポケットから取り出した鍵を祖母に渡した。

 「じゃあ、そろそろ行くよ。警察から僕のことを訊かれたら、分からないから直接本人に電話しろと言って。それから、何か変なことがあったらすぐ真理ちゃんに連絡して。こんな世の中だからね」

 渡した鍵は車のキーとは関係のないものだった。目立つパンダを万一にも祖父母に運転させないためだ。

 「気を付けてね。何かあったら必ず連絡するんですよ」

 「うん。また電話するよ」

 昭和初期から文人や知識層が多く居を構えた土地柄の名残で、今も古き佳き雰囲気を残す静かな街並みを後に、三島と魔犬の乗った車は走り出した。見送る老夫婦の姿を振り返り、エドガーが言った。

 「あの老人達は樹の匂いがした」

 「樹の?」

 「そうだ。森の中のすがしい香りだ」

 「冥界に落ちてくる奴等にはない」

 ポーが一言口を挟んだ。

 「冥王様の城には森がある。冥界であの匂いがするのはそこだけだ。だがこの世界には同じ匂いを持つ人間がいると知った。零時、おまえもそうだ」

 僕はそんな人間だろうか。返す言葉を考えつかず三島は黙っていた。

 車は首都高速を東名へと走っている。既に夜更けだ。今夜はサービスエリアで仮眠することになるだろう。豊橋までは遠い。ニュースを聞くために点けていたラジオを消し、オーディオを操作してみるとピアノを学んだ祖母らしく収録されているのはクラシックばかりだ。シューベルトの〝冬の旅〟が車内に流れ始め、ミニはETCゲートをくぐった。

 新東名高速は空いていた。深夜割引の開始時間前のせいか大型トラックも少ない。三島はミニを走行車線につけ、クルーズコントロールを使って粛々と巡航させた。

 「ここらで休憩しないか」

 サービスエリアを示す標識が近付くのを見て三島は魔犬に声をかけた。

 「いいだろう。休め」

 疲れを見透かしたのか、アランが間を置かずに応えた。三島は小さく息をついて頷き、巡航装置を解除した。アクセルを踏む足先に疲労を感じる。長い一日だった。遂に生活の基盤も変えざるを得なくなったほどの目まぐるしい状況の推移に晒されて高ぶった精神のざわめきはまだ胸に余韻を残しているが、夜の静けさと共に降りて来た倦怠が重くのし掛かり、三島は先を案ずることを休みたかった。

 本線を離れ、ランプウェイを進むにつれ高速道路の開けた空に電飾で輪郭をぼんやりと浮き上がらせた大きな建物が見えてきた。三島は広い駐車場の施設から少し離れた位置に車を停めた。

 「何か食べるものを買ってくるよ」

 魔犬を待たせて降り、三島は営業していた施設内のコンビニエンスストアでサンドイッチとコーヒー、ドーナツを買った。車に戻ると十個ほどあるドーナツを開けて魔犬に差し出し、自分はコーヒーとサンドイッチで遅い夕食を取る。

 「この世界に人間はどのくらいいる」

 ふと、アランが尋ねた。

 「七十三億くらいだ」

 アランは少し沈黙し、やがて問わず語りのように話し出した。

 「俺は、この世界はいずれ遠くないうちに滅ぶだろうと思っていた」

 コーヒーを持つ手を止め、三島はアランを見つめた。

 「ソドムとゴモラを知っているな。この世界の全てがあの悪徳の都と同じ運命を辿ると俺は考えていた。今や人間の多くは悪人ばかりだと思っていたからだ。だから俺は悪人どもが冥界を逃げ出した後、罰として犬小屋に閉じ込められたその仕打ちを恨んだ。どうせ滅ぶのだから同じだとな。だが、この世界へ来て考えが変わった」

 アランは窓の向こうを見ている。外には夜も働くドライバー達が買い求めた食物の袋を手に、背を丸めて歩いていた。

 「俺は良い人間というものを知らん。しかし、この世界には冥界に落ちて来るべくもない者達が少なからずいることは分かった」

 普段の厳格さが薄らいだアランの横顔は愁眉の面持ちに見える。

 「この世界は滅ぶべきではない」

 それきりアランは黙り、横を向いて頭を伏せた。三島はシートを少し傾け、静かに目を閉じた。

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