第7話

 翌日、三島と魔犬は日没直後の午後七時に出発した。西川宅の住所をインターネットで調べたところ、付近は閑静な高級住宅街のようだ。そういった地域は人通りの引くのが早い。それに深夜ではパトロールの警官に出くわしたら犬の散歩だという言い訳が通らない。闇に紛れて下調べをするには今頃が向いていると判断したのだ。

 酒向から聞き出した番地を入力したナビが目的地まで残り約2キロメートルと表示したのを見て三島は魔犬に言った。

 「もう少し行ったら車を駐めて歩こう」

 モーツァルトのピアノ協奏曲第21番を聴いていた魔犬が目を開けた。

 「剣と電話以外は持つな。身軽にしておけ」

 ナビが残り約1キロメートルと示した頃、車外の景色から飲食店やコンビニエンスストアが消え、パンダは住宅街の中心部に入った。三島はナビに逆らって来た道をやや戻り、コインパーキングを見つけて駐車した。剣を内ポケットに入れて降り、携帯のナビゲーションアプリを起動する。

 「こっちだ」

 二人は案内の方向へ歩き出した。8時を過ぎたばかりだが、人通りは少ない。周りは生垣や板塀に囲まれた屋敷や、小規模の古い集合住宅だ。また辺りには商店の類いが全くなく、静かだ。

 携帯に導かれてしばらく歩くと二人の前に壁が現れた。道はそこで遮られ左右に分かれている。なぜこんな所に壁がと見上げると監視カメラが通りを見下ろしている。

 壁ではない。塀だ。高さ3メートル近いコンクリートの塀が要塞のように張り巡らされている。更にその内側には高い植木が並び、中の建物を隠している。三島は携帯を見た。目標を示す赤い三角形がこの塀の内側で点滅している。三島は思わず後ずさった。

 「ここだ」

 魔犬が三島を見た。

 「これが奴の家か」

 アランが尋ねた。左右を見回している。無理もない。三島の目線でも見えるのは壁ばかりだ。刑務所のような外観は一見住宅には見えない。

 「そのはずだ。感じないか?」

 「昨日の建物と同じ臭いはするが、薄い。痕跡だ。中に香村はいないだろう」

 二人は左へ曲がり、塀からやや距離を取りながら歩く。20メートルほど進むと出入り口があった。表札に『西川』とある。ここまで来てようやく敷地内が見えた。門の上から建物の一部が覗く。三階建てだ。酒向の言っていたペントハウスはこの角度からは確認できない。三島達が移動しようとしたとき、出入り口横のシャッターが上昇し始めた。二人は素早く向かいの住宅の植木の間に隠れた。

 「それじゃ、奥さん、お嬢さん、お気を付けて。こんな御時世ですから」

 開いたシャッターの中はガレージだ。スペースは二台分あるが、アウディA4が一台だけ置いてあり、その横に三人の女性がいる。上品な身なりの六十過ぎ位の婦人が言った。

 「大丈夫よアキさん。ハワイはもう何度も行ってるもの」

 「そうそう、心配しすぎだってば」

 二十代と思われる女性が続けた。二人は親子だろう。すると西川の妻子だ。

 言われたやはり六十代程度の婦人は旅行鞄を娘に手渡した。

 「アキさんも骨休めしてね」

 西川夫人と娘がアウディに乗り込んだ。車が出て行くのを見送ると家政婦らしい女性はガレージに戻った。シャッターが閉まる。

 酒向の言葉通り、香村は西川の妻と娘を海外旅行に出したのだ。

 三島と魔犬は通りに出て再び歩き始める。ガレージを過ぎると角だ。塀に沿い右へ曲がる。建物は北側の塀を背にしていて、木の上にその上部が見えた。建物と塀の間隔は2メートル位だ。よく見ると屋上にサンルームのようなものの一部が確認できる。これがペントハウスだろう。更に進み東側に出た。角から5メートル程の箇所に裏口がある。庭へ出入りできるようだ。扉の上でカメラが見張っている。

 西川邸周囲を半周して、敷地は約50メートル×30メートルのほぼ長方形で、建物は敷地の北側に寄せて建てられていることが分かった。隣接する建物はなく、数軒分の区画を西川邸一軒で占めている。ここまでで監視カメラは最初のT字路と正門、ガレージ横角、そして裏口の四箇所だ。

 観察していると突然裏口が開いた。三島はさっと背を向けて魔犬の背を撫で、散歩を装う。今気付いたように振り向くと自転車を引いて出て来たのはさっきの家政婦だ。扉の奥を盗み見る。芝生の約10メートル向こうに屋敷が立ち、壁面を屋上へ上る外階段がある。消灯されていて見辛いが、上にはガラス張りの部屋があった。三島と魔犬が視線を交わす。家政婦は三島達をちらりと見て、扉を施錠し自転車で去って行った。

 「あの屋上を調べてみる。来い」

 塀の北側に戻ると、アランが言った。

 「あれは外の様子を写しているんだろう」

 魔犬が鼻で指すガレージ横角のカメラはこちらを向いている。屋敷の北側を警戒しているのだ。

 「そうだ」

 「それならおまえは少し離れてろ」

 三島はカメラの撮影範囲外と思しい所まで下がった。魔犬は軽々と塀に飛び乗る。

 「誰か来たら知らせろ」

 三島は手を上げて応えた。屋上へ飛び移ろうと魔犬が構えたとき、塀の内側で数匹の犬が激しく吠え出した。魔犬はうるさそうに一瞥して声の方へ飛び降りた。数秒後、番犬達の悲鳴が聞こえ、それきり静かになった。

 魔犬は再び塀の上にジャンプして現れ、次に屋上へ飛び移った。

 三島は姿をカメラにできるだけ捉えられないよう注意しながら東側へ出た。角まで来るとここにもカメラだ。北側のものと対角の位置で南側を監視している。素知らぬ顔で三島は通り過ぎ、屋敷の周り残り半周を歩いた。

 周囲は幅5〜6メートルの道路を隔てて民家が立ち並んでいる。古くからの住人なのか、若年層が住んでいそうな感じではない。派手に騒ぎを起こすと目立つなと三島は思った。

 「零時」

 アランの声が聞こえた。足を速め、彼等が侵入した場所へ戻る。目の前へ魔犬が飛び降りて来た。

 「どこへ行ってた」

 「向こう側を見てきた。カメラは全部で五台あった。ペントハウスはどうだった」

 「目隠しがされていて中は見えんが広いようだ。だが会議をそこでするかは酒向に確かめる必要がある」

 「今香村がいたら簡単なんだがな」

 口惜しげにエドガーが呟く。

 「戻るのを待つか?」

 ポーの提案をアランが蹴った。

 「だめだ。いつ戻るか知れん奴を待つわけにはいかん。会議には他の幹部も来ると言っていたろう。そいつらの口も割らせよう」

 「ペントハウスから家の中には入れそうか」

 「行けるはずだ」

 アランも指摘したが、西川の家族が不在なら会議は母屋で行うだろう。ペントハウスからの侵入を想定しておくべきだ。

 「それじゃ、帰って段取りを考えよう。庭の様子も教えてくれ」

 「よし」

 二人は西川邸から引き上げる。ふと三島が尋ねた。

 「番犬がいただろ。どうした」

 「近寄ったら勝手に逃げていった」

 エドガーがあっけらかんと答えた。やっぱりと三島は含み笑いした。


 翌日、三島と魔犬はいつも通りに出勤した。正午近く、三島が電話で蕎麦屋に出前を注文したときには魔犬は三島が彼等のために持参したビスケットをもう食べ始めていた。

 「三島先生」

 軽いノックが一二度鳴って、三島の研究室のドアが開いた。上司の教授だった。

 「あ、はざま先生。何か」

 「金曜日、講義を休んだんだってね。具合でも?」

 間教授はドアを後ろ手で閉めながら尋ねた。細身で眼鏡の奥の眼光が鋭い風貌から神経質そうな難物に見える彼は、これで意外に穏やかな紳士だ。そうと知っていても、相対すると僅かな緊張をいつも三島は感じる。

 「ええ、頭痛で。でももう大丈夫です」

 「そう。大学から、渡したい書類があるから次回の講義の際事務室に寄ってほしいと連絡があったよ」

 「そうですか、どうもすみませんでした」

 三島が詫びると間教授は頷いてケルベロスに視線を落とした。

 「おや、ミステリーの巨匠君はもうお昼かい。じゃあ、これをあげよう」

 教授は笑って上着のポケットからビーフジャーキーを取り出した。愛犬用だろう。ところが魔犬は目の前のジャーキーに一瞬視線を向けた後は無視を決め込み、ビスケットを囓っている。

 「先生、この犬は甘いものが好きなんです」

 三島が申し訳なさそうに告げると、間教授ははたと立ち上がり、切れ長の目を輝かせた。

 「そうかね、いいものがある」

 彼はばたばたと部屋を出て行き、程なく紙袋を抱えて戻ってきた。

 「さあどうだ、これなら食べるだろ」

 彼は袋からドーナツを取り出してケルベロスの足元に置いた。魔犬は初めての菓子に戸惑いの表情を見せたが、すぐにその甘い香りに心を奪われたようだった。鼻を近づけて匂いを確かめた途端、ドーナツは大きな口の中に消えた。

 「はははは、美味かったかい。もっとお食べ」

 教授は袋を三島に渡した。魔犬は複雑な表情で彼を見ている。

 「すみません、先生。いいんですか」

 「娘の差し入れでね。私はもう食べたから後は君とポー君とでどうぞ」

 間教授が去った後、三島が魔犬に声をかけた。

 「いい人だろう?」

 しばしの沈黙の後、エドガーが言った。

 「ああ、美味かったな」


 午後六時、研究所を後にした三島はパンダに乗り込むと魔犬に言った。

 「少し買い物がしたい。すぐ済む。酒向へは帰ってから連絡しよう」

 「分かった」

 三島は秋葉原へ向かった。ナビには調べておいた防犯用品専門店を打ち込んである。賑やかな中心部からやや離れた一角の店で、三島は防刃ベストとグローブを買った。西川邸の立地から見て、恐らく敵は銃器ではなく刃物を主な武器に反撃してくるだろうと考えたからだ。

 次に、靴の量販店でバスケットシューズを買う。広い世代が好む定番モデルだ。侵入は無論土足なのでゴム底で動きやすく、尚かつ流通量が膨大で警察の捜査に足が付きにくい物でなければならないのだ。

 そして最後にドーナツ店で間教授からのプレゼントと同じものをあるだけ買って、二人は帰宅した。

 「明日だが—」

 家に入るなり、三島は切り出した。大仕事を前にして、なぜだか気が急く。周到な準備をしておかねばと不安に追い込まれているのかもしれない。魔犬はそんな三島の心持ちを察していように、すたすたと先を進みソファーに飛び乗った。

 「何だ」

 いつもの場所に身を落ち着け、悠揚迫らぬ態度でアランが応えた。

 「まず、気付かれずにどう屋敷に入る。カメラがあちこちにあるし、見張りが大勢いるかも知れない。それに会議はペントハウスでなく別の部屋ですると思うが、家の中の様子は分からない。酒向に確認して、経路と香村を捕らえる手順をよく考えておかないと」

 「まあ待て」

 エドガーがざわめく三島の心中をなだめるように言った。

 「確かに、西川の家族を追い出したんなら別の部屋を使うだろう。見張りも一人や二人じゃあるまい。だから酒向に手引きさせるんだ」

 「と言うと?」

 三島は身を乗り出した。アランが代わる。

 「あいつに会議で幹部どもに実は自分と桜田は米田をやったらしい者に襲われたと言わせろ。大金を要求されたとな。応じなければ別の拠点を狙うともだ。ばらせば始末すると脅されたが、犯人には覚えがあるからとできるだけ大勢をその場に集めさせろ。そこを叩く。見張りが手薄になったら裏から入る」

 「部屋の場所は?」

 「下手な芝居でもいい、酒向にできるだけ大騒ぎするように言え。目の前で用心棒がやられ、自分も恐ろしい目に遭ったとな。あいつの声が場所の印になる」

 今更だが三島は魔犬の知恵に感じ入った。早速酒向に電話をする。

 「もしもし。酒向だ」

 「僕だ。周りは大丈夫か?明日の会議の開始時間を教えろ」

 「大丈夫、自宅だ。会議は七時からだが、六時半頃には皆席に着く。ワーキングディナーとか言うそうだが食事をしながら会議を始めるんだ。香村さんのやり方だ」

 弁護士らしいなと三島は思ったが、幾つか疑問が浮かぶ。

 「すると食事を用意する者がいるのか」

 「いや、すしとかそんなものを手配するんだ。七時前には届くようになってるはずだ」

 「会議の内容や進行は決まってるのか」

 「いつもはまず各支部が報告をして、香村さんが状況や成果を総括した後、関東統括本部と日本支部の方針を下達するという順序だ。だが明日は六本木の件についてだ。すぐにその話になるだろう」

 「ところで、会議はどこの部屋でやる予定だ。西川の家族が出て行ったのは確認した。ペントハウスではないだろう?」

 「ああ、流石だな。西川の女房と娘がいれば屋上だが、今回は切羽詰まってる。応接室だと思う。一階だ」

 やはりと魔犬を見ると、三島と同じ表情だ。

 「出席する幹部は何人だ。そして、それ以外の者も含めて会議には何人集まる」

 「香村さん以外の幹部は六人だ。ええと、千葉、茨城、栃木、群馬、山梨、埼玉の関東各支部長だ。東京と神奈川は香村さんが兼任してる。幹部にはボディガードや助手が二三人付くから二十人と少し、香村さんの周りもいつも三四人はいる。俺を入れて二十七、八人だろう。桜田も行くはずだったが…」

 「よし、では当日会議で今から言う事をやってもらう」

 三島がアランの指示を伝えた後、少しの沈黙を経て酒向が尋ねた。

 「それで、あんたらが幹部達をやった後、俺はどうなる。始末する気だろう」

 今度は三島が短い間を置いた。

 「悪いようにはしない。安心しろ」

 魔犬を見る。厳しい表情だ。

 「本当か」

 「僕を信じろ」

 「分かった。言う通りにする。それから、あんたの力を疑うんじゃないが、相手は大勢だぞ。それに幹部の護衛は猛者揃いだ。桜田かそれ以上の奴ばかりだ。大丈夫か」

 「先日はいささか不覚を取ったが、心配には及ばない。こちらにはケルベロスもいる。彼等はいつでも元の姿に戻れる」

 「そうか、ならいいんだ。でも、本当に助けてくれるんだろうな。頼むよ」

 「くどいな。それより上手くやるんだぞ」

 「分かった。すまん」

 電話を切るとアランが低く強い調子で言った。

 「酒向をどうするつもりだ。逃がしてやるんじゃなかろうな」

 「そんなことはしない。安心させておかないと、土壇場で寝返ったらどうする」

 アランは黙った。


 翌朝、三島は早朝に目が覚めた。寝直そうとしても眠りへ戻れない。仕方なく今夜の段取りを頭でしばらく反芻していたが、戦闘の中でどう行動すべきか確信が持てない。行き当たりばったりだったうえ、ケルベロスと死の騎士に救われた六本木でのことは参考にならなかった。

 『初めて戦争に行く兵士の気持ちはこんなふうなんだろうか』

 現実感を帯びてくる恐怖を振り払おうと三島は寝床を離れた。リビングルームでは魔犬が目を閉じてソファーに横たわっていた。足音を忍ばせて横を通り、洗面所に入る。鏡の中の顔色は悪くない。体調も充実している。パジャマとアンダーシャツを脱ぎ、自分の姿を見る。特に変化はない。ボディビルダーの真似をしてポーズを取ってみたが、痩躯には似合わない。三島は苦笑した。

 「そんな映画のスーパーヒーローみたいな事はないよな」

 パジャマを着て居間に戻ると魔犬は目を開けていた。

 「もう起きたのか。よく寝ないと身体に触るぞ」

 エドガーが言った。

 「目が覚めちゃったんだ。体調は万全だよ」

 「ならいいが」

 「早いけど朝食にしよう」

 キッチンに移り、三島は用意を始めた。卵を二つテーブルの上に置き、やかんを火に掛けた。パンを取ろうと二三歩移動したとき、魔犬がぬっと厨房に入ってきた。

 「食い物、まだあるか」

 その大きな胴にぶつかりそうになり、よけた三島の腕がテーブルをとんと押した。卵が転げ落ちる。

 「あっ」

 声を上げたときには既に二つの卵は手に割れずに受け止められていた。思わずじっと両手の卵を見る。

 魔犬はしばらく三島と卵を眺めていたが、一言言ってキッチンを出て行った。

 「用意できたら持って来いよ」

 三島達はゆっくりと朝食を取り、午前七時前に家を出た。今日は午後五時に退所するので、どうせならと早出をして少しでも仕事をしておこうと思ったのだ。

 「真面目な奴だな」

 フランク・プゥルセル・オーケストラの〝ミスター・ロンリー〟が流れる車内でポーが呟いた。


 その日、研究所でケルベロスは上機嫌だった。間教授が宣伝してくれたおかげで三島の同僚達からドーナツにクッキー、ビスケットやらが山と差し入れられたからだ。甘いものが好きなんて可愛いねなどと言っては皆魔犬の背や頭を撫でていったが、さしもの彼等もこれだけの贈り物を前に気分を損ないはしなかった。だが夕刻近く、三島が仕事に切りを付けようという頃には〝甘党の大人しいワンちゃん〟は辺りを払う魔犬に戻っていた。五時きっかり、ケルベロスはすくと立ち上がった。

 「用意はしてあるな」

 「ああ」

 退所してすぐ、三島は公園のトイレで服装を替えた。スーツを脱ぎ、愛用のジーンズから選んだ最も厚手ヘビーオンスのものを履く。丈夫とは言え気休め程度だが、スーツよりはマシだ。そしてアンダーシャツの上に防刃ベストを着け、軽く柔らかい馬革ホースハイドで強靱なA−2フライトジャケットを羽織る。父のささやかな服装趣味の形見の一つだ。

 靴も替える。普段履いている英国製のローファーからバスケットシューズにする。身支度ができると気が引き締まった。車に戻り、三島は魔犬に言った。

 「行こう」

 昨日はパンダを西川邸から離れた場所に置いた三島だったが、今日は屋敷から二筋しか離れていない路上駐車の列の中に駐めた。襲撃後すぐに遁走するためだ。まだ六時だが、そろそろ人が集まり始める頃合いだろう。二人は西川邸の方へさりげなく歩き始めた。三島は片手に小型の懐中電灯やハンマーなど、侵入に使う道具が入ったコンビニの袋を下げている。屋敷前のT字路まで来て、三島は隣家の陰から入口の方を覗いた。門の前に黒いBMW750iが停車している。助手席から暴力団風の男が降り、右後席のドアを開けた。車内からハゲタカのような顔付きの中年男が出て来た。幹部に違いあるまい。左からは鞄を抱えた若い男が降りた。これは助手か。二人は幹部を挟んで立ち、護衛がインターホンを押す。やりとりの後、屋敷から男が出て来て頭を下げ、三人を迎え入れた。それを見届けてBMWは去った。

 「来始めてるな。こっちから回ろう」

 三島達は隣家の裏へ回り、生垣の隙間から中を窺う。空はまだ薄明るいが、住人は高齢なのか既に閉め切った窓から室内の明かりが見える。入り込んだ二人は住人に気付かれないよう植木や盆栽棚の間を通って昨日西川の家族を見送った場所へ移動した。ここなら来訪者をよく観察できる。

 邸のガレージは開いていた。昨日はなかったメルセデス・ベンツSクラスクーペが置いてある。香村の車だろう。

 そこへ早くも次の客が来た。白いアウディA8が停まり、また同じように三人の男が降りて屋敷に入っていく。次はマセラティ・クワトロポルテが来た。こうして次々に高級車が数名の男達を運んでは何処へか走り去った。西川公正の関係者が違法駐車をしては体裁が悪いのだろう。

 六名の幹部が到着した後、一台のタクシーが来た。降りたのは酒向だ。冴えない灰色のスーツでなんとなく態度がおどおどしている。

 酒向がインターホンを押すと男が三人出て来た。男達は軽く会釈をし、一人が酒向を迎え入れ二人はそこに残った。煙草を取り出して火を点け合い、周囲を睨んでいる。出席者が揃ったようだ。

 「酒向が来たぞ。いつ踏み込む」

 三島が魔犬に尋ねた。腕時計は六時二十五分を指している。ところがまた車が来た。軽のライトバンだ。車体側面に鮨屋の屋号がある。出前持ちが降り、見張りに挨拶をした。男達は待ちかねたとばかりにバンからいくつもの鮨桶を下ろすのを手伝い、急いで屋敷の中へ運んだ。鮨屋が去ると見張りの二人は門の奥の玄関扉前に腰を下ろし、自分達の鮨をその場で食べ始めた。

 「表は二人か。裏へ回るぞ」

 魔犬と三島は来た道を戻り、西川邸の南側から裏口の方へ進む。裏口には黒いスーツに龍の柄のネクタイを締めた短髪の男がいた。三島は愛犬に話しかける仕草で魔犬に耳打ちをした。

 「後ろで少し待っててくれ」

三島はすたすたと男に近付いた。気付いて警戒の姿勢を取る見張りの少し手前で三島は頭を下げた。

 「あのう、西川公正先生の事務所の方でしょうか」

 「ああ?ああ、そうだが」

 法律事務所の職員には相応しくない外見の男はやや戸惑った様子で返事をした。

 「実は西川先生に過払い請求の御相談をお願いしたいと思いまして」

 緊張が緩んだらしく、男は懐に入れかけていた右手を出した。

 「生憎だが先生は今会議中だ。出直してくれ」

 「では、すみませんが書類だけでもお渡し願えませんか。遠方から来たんです」

 三島はジャケットから封筒を出して男に見せた。

 「ん、ああ分かった、渡しとく」

 男がカメラの撮影範囲外に立つ三島に近寄り、手を出すと三島は視線を素早く振った。そして封筒が男の手に渡ったとき、ジャケットから剣を抜き、左から右へ斬り払った。つんのめる男を受け止め、隣家の板塀の前に座り込んだ姿勢を取らせて下ろす。剣を収め、空の封筒を丸めて側溝に捨て、防刃グローブを手にはめながら三島は魔犬に言った。

 「あのカメラに僕等が映らないようにしてくれないか」

 「分かった」

 魔犬は壁に飛び乗り、裏口付近を見下ろすカメラをぐいと踏みつけた。ステーがぐにゃりと曲がり、レンズは真下の地面に向いた。

 ふと魔犬が庭を見て、壁から飛び降りた。

 「別の見張りが来るぞ」

 三島は剣を握り、壁に張り付いた。

 「おい高木、交代だ。表へ行って鮨を食え」

 壁の向こうで声がした。玄関にいた見張りの一人が交代に来たらしい。裏口が開いた。

 「おい、何やってんだ」

 出て来た男の肩を横から刺し、仲間の横に並べる。裏口から中の様子が見える。広い芝生の庭は死角を作らないためか、ゴルフ練習用のネットが隅にある程度で殺風景だ。その数カ所を建物に取り付けたスポットライトが照らしている。ペントハウスは消灯していた。

 「行くぞ」

 10メートルほど先に屋上への階段がある。三島は姿勢を低くしてエドガーに続く。庭をうろついていた番犬が気付いた。二匹のドーベルマンだ。ところが犬達は黙ってその場に伏せ上目遣いに魔犬を見ている。魔犬は一瞥もせず進む。

 「会議は一階だと言っていたな。見てみよう」

 魔犬は行く先を変えた。庭を臨む建物南側へライトの光を避けながら進む。

 「おい、裏口のカメラが変なんだが」

 正面玄関の方で声がした。二人は壁際の植栽の下にさっと隠れた。誰かが見張りに尋ねているようだ。

 「そうか?そう言えば高木が来ないな。ちょっとおまえも来い」

 男が二人歩いてきた。後を追う。座り込んでいる仲間を見て裏口から出た二人の背を三島は続けざまに軽く刺した。先の二人と向かい合わせに座らせ、庭へ戻る。これで外の見張りはいなくなったはずだ。

 壁際の高い植栽の下はライトが充分に届かず暗くなっている。そこを伝って進み、ゴルフネットの後ろから建物を見る。庭に面した屋敷南側はたっぷり採光できるよう大きなガラス窓が並んでいる。日が落ちた今はブラインドが下ろされて細い光が漏れるのみだが、玄関横の部屋だけは半ば開いたブラインド越しに室内が見えた。数人の影が立ち動いている。

 「あそこが応接室じゃないか」

 二人は室内が見える距離まで近付いた。部屋はかなり広い。中央の大きなテーブルを囲んで大勢の男達がいる。正面の上座に西川公正が腰を下ろしていた。テレビで見せる柔和な表情の面影はなく、尊大な態度だ。幹部達は西川の両脇の席でふんぞり返り、鮨を口に運びながら何かを話している。他は護衛や助手など、二十人近くはいそうだ。

 「いっそここから殴り込むか」

 エドガーが言った。

 「だめだ。取り逃がす奴が出る。中へ入り込んだ後、酒向が喋り出したらあの部屋に閉じ込めるんだ。屋上へ行くぞ」

 アランが即座に拒否し、先導した。

 屋上への階段に監視カメラは見当たらなかったが、用心しつつ上る。あと数段というところで屋上から物音がした。三島は反射的に這うような姿勢を取って剣を抜いた。だが数十秒待っても階段に現れる者はない。二人は屋上を覗いた。

 ペントハウスに明かりが点いている。下がったロールシェードが内部を隠しているが、裏で動く二つの人影がそこに映っている。その一つが側面のガラス戸を開けて出て来た。左手に鮨桶を持ち、右手にはボウガンを持った若い男だ。ここにも見張りが配されていたのだ。

 三島が魔犬に言った。

 「そこから顔を出して一声吠えてくれ。小さくでいい」

 意図が分かったらしく、魔犬は屋上の床に前脚を掛けて軽く吠えた。見張りが近寄ってくる。

 「ブロンディ、上がって来たのか」

 ボウガンを置いて魔犬の前に立った男の伸ばした掌が光の刃に貫かれた。三島は男の身体を受け止めたが、鮨桶が落ちて転がった。

 「おい、どうした」

 もう一人が出て来た。三島は男を寝かし、手すりを両手で掴んでしゃがむ。爪先つまさきに力を込め、駆け寄ってくる足音が最も近付いたとき、勢いを付けて屋上へ跳び上がった。

 仲間を抱え起こそうとする男の頭を三島は軽々と飛び越えた。背に一撃を受けた男は状況が理解できない表情のまま倒れた。

 もう人影はない。次々現れる見張りを始末するのは面倒だが、侵入口を向こうから開けてくれたのは幸運だった。

 「手間が省けたな」

 咥えてきた道具の入った袋を三島の前に落とし、エドガーが言った。三島はライトだけ取り出してポケットに入れ、必要のなくなった自動車用の脱出ハンマーや工事用の粘着テープは袋ごと隣家の庭へ投げた。

 ペントハウスをチェックすると、ガラス張りなのは前三分の一だけで屋上小屋というより増築された部屋だ。数台の机とソファーが据えられ、ちょっとしたオフィス然としている。右奥の引き戸から階段が見えた。

 「行けるぞ」

 魔犬の先に立ち、三島は慎重な足取りで三階へ下りた。ここは静かだ。だが踊り場の左手の部屋から僅かに音がする。開け放ったドアから覗くと四畳半ほどの空間に三台のモニターと操作機器が並び、男が椅子に胡坐あぐらをかいて鮨を食べていた。三島が背後から静かに肩甲骨の辺りを刺すと男はゆっくりと倒れ、鮨桶に顔を突っ込んだ。

 三島は画面のそれぞれを確認した。数秒ごとに各カメラに順に切り替わる。だが一台だけは暗い地面を映したままだ。

 「これはどうする。壊しておくか」

 エドガーが尋ねた。三島は少し考えたが、その必要はないだろうと思った。

 「いや、カメラの場所は覚えてる。今のところ僕等の姿は撮られてないはずだ。ここで物音を立てて人が集まってきたら面倒だ」

 ふん、と魔犬が鼻息を立てた。そのとき下から大きな声がした。何か訴えているようだ。

 「始まったか」

 アランが言った。酒向だ。幹部達に恐怖の体験を語っているのか。

 二階からざわざわと声が聞こえる。見張りが何名か詰めているらしい。

 モニター室を出てみると階段の右手は壁だ。ドアはあるが施錠されている。向かいは茶室風の和室になっている。西側も大きな部屋のようだがやはり施錠されている。モニター室以外に人の気配はなさそうだ。

 突然、階段を駆け上る音がした。二人は和室の床の間に身を隠した。足音が二階の廊下を走る。三島は耳をそばだてた。

 「おい、一人だけ残して応接室へ来い。先生が呼んでる」

 足音がどやどやと一階へ下っていく。ところが上がってくる足音が一つある。息急き切った男がモニター室へ駆け込んだ。仲間を揺すっていた男は腰の短刀に右手を掛けたまま三島に切り捨てられた。

 二人は二階へ下りた。階段の右手と西側奥に広くとられた部屋があるが、その前は消灯されている。右の部屋のドアには飾り付けがあった。娘の部屋のようだ。すると向こう側は夫婦の寝室だろう。ここはプライベートフロアなのだ。が、半ばの部屋の一つから光が漏れている。中を窺うと見張りが一人居残っていた。三島はドアの脇から声をかけた。

 「おい、ちょっと来てくれ」

 太った男が廊下に出て来た。男は袈裟懸けに腹を切られ、手のスタンガンを落とした。

 後は一階に集まっている連中だけだ。三島は階段から身を乗り出して下を覗いた。斜向かいにモダンな欧風家具がしつらえられたリビングルームの一部が見える。そのスペースの隣を仕切り、玄関の手前まで壁が伸びている。酒向の声はその中から聞こえる。見える範囲に見張りはいない。階段を下り二人は応接室に近付く。ドアは閉じているが、鋭敏になった三島の聴覚は話し声が聞き取れた。

 「先生、助けてください。今度は私がやられてしまいます」

 酒向が必死に訴えている。相手は香村だろう。

 「で、君はその男に金は用意すると言ったのかね」

 西川の声だ。口調は冷静だが、傲岸さを隠していない。

 「あの場合、そう言わないと…。次は自殺させると脅されたんです」

 どよめきが起こる。誰かが苛立った口調で言った。

 「一体何者なんじゃそいつは。覚えがあるんなら早う言わんかい」

 「それは…」

 三島は応接室のドアを開けた。集中する視線を浴びながら魔犬と中へ進む。奇妙な感覚だ。大勢のならず者の前に平然と歩み出る自分を別の自分が見ているような気がする。不思議なことに恐怖を感じない。三島はテーブルの手前で立ち止まり、正面の西川を指差した。

 「香村康秀だな」

 堂々たる三島の態度にあっけにとられ静まりかえっていた場に緊張が走った。香村は驚きの表情で三島を見ている。

 「何だこら、おまえ誰じゃ」

 酒向に詰問していた男が言った。

 「〝死〟の代理人だ」

 ざわめきの中、三島と香村は沈黙のまま視線を押し合った。やがて香村は不敵な微笑を口元に浮かべた。

 「そうか、君か。六本木をやったのは」

 驚きの声が上がる。それは次第に罵声や怒号となって部屋に満ちた。数人が拳銃を抜き、三島に向ける。

 「やめろ。銃は使うな」

 落ち着き払った香村の言葉に男達は次々に短刀や長刀、警棒などを取った。転がるように酒向が三島に駆け寄り、背後に隠れた。

 「酒向、裏切ったか!こんくそたわけが、拷問に掛けて首吊らしたるぞ」

 幹部の一人が怒鳴った。酒向が言い返す。

 「何とでも言え。あんたらよりもハデスの方が怖い」

 男達に動揺が広がる。かの恐怖の王が酒向の裏切りとどう関わっているのか、判断できぬ様子だ。

 突然護衛の一人が長刀を上段に斬りかかってきた。その動きは速い。確かに六本木のチンピラの比ではないだろう。しかし三島は瞬時に光の剣で刀を受け、そして引き、上体の前傾した男の脇へすいと回って首の根を斬った。足元にどさりと倒れた男に驚き、酒向は三島ににじり寄った。

 「香村と幹部は残しておけ。口を割らせるからな」

 「分かった」

 三島がアランに顔を向けたとき、二人同時に斜め前方から刀を振り下ろしてきた。胸の前に剣を構えてくるりと一回転し、一度に斬り倒すと三島はつかつかと前進する。

 「何やっとんじゃあ!殺せ、殺さんかい!」

 椅子から尻を浮かせ、逃げ腰で幹部がわめいた。ところが護衛達は早くも三島を攻めあぐね、刀を構えたまま鼓舞と虚勢のかけ声を叫ぶばかりだ。

 「手早く片付けるか」

 エドガーの呟きの直後、驚愕の声が口々に上がった。振り向くとケルベロスはもう魔獣の姿にほぼ返っていた。魔獣はドアノブを叩き壊し、誰も逃げられぬようガラス窓の前で仁王立ちになる。

 部屋は狂躁のるつぼとなった。なんとか身を隠そうとする者、武器を持ったまま自失する者、絶叫する者などで混乱を極める中、一人香村だけはその場に座し続けている。だがさしもの大幹部も顔色を失っていた。

 「香村、李英傑はどこにいる」

 三島は詰め寄った。しかし香村の表情は見る見る落ち着きを取り戻し、間もなくしてあの冷酷な笑いを浮かべた。

 「馬鹿め。我々には数十万の仲間がいる。ケルベロス一匹連れて来たところでどうにもならんぞ」

 魔獣が怒りの咆哮とともに燃えたぎる眼を香村に向けた。

 「いい度胸だな、香村。冥王様の前で同じ事を言ってみろ」

 手近の数人を弾き飛ばし、魔獣が言った。手足の骨を粉砕された男達は折り重なって苦悶の呻きを漏らす。

 「動くな!その変な武器を捨てろ」

 香村がジャケットの中から消音器付きの自動式拳銃を出して構えた。三島は動じず、更に香村に近寄る。

 「やめろ!動くなと言ってるんだ」

 減音されパンパンとクラッカーのような小さく乾いた響きになった発射音がした。そのとき三島は弾丸の軌跡の上を飛んでいた。大理石のテーブルを踏み台にした三島は思い切り手を伸ばして天井を叩き、反動を得て両足を蹴り下ろした。だが香村の動きも機敏だった。若き日に鍛えた西川の身体は今も衰えていないらしい。香村は蹴りを紙一重で避け、テーブルへ飛び移った。すると幹部の一人が発砲した。消音器は付いていない。他の男達も次々に拳銃を抜く。香村の銃撃が呼び水になってしまったようだ。

 「馬鹿めら」

 香村は苦り切った表情だ。そこへ魔獣が飛び込んだ。エドガーがテーブルを咥えて振り回し、ポーは銃を向ける者の腕を次々噛み砕いた。四肢は当たるを幸いに周囲を蹴散らす。たちまち多くの者が行動不能となった。

 しかしまだ果敢に発砲したり立ち向かってくる者もいる。三島は暴れる魔獣に言った。

 「アラン、自由にやってみてもいいか」

 数人を踏みつけたまま魔獣が応えた。

 「怪我をしても知らんからな」

 「気を付けるんだぞ」

 アランとエドガーに三島は頷き、応接室を見回した。累々と倒れた者達の間を這ったり蹲ったりしているのは幹部と助手だ。一方刀や拳銃を構え決死の形相で睨むのが六人いる。一人が香村を背後に隠して手を広げていた。三島はそれぞれの位置を目に焼き付け、窓の脇に据えられたグランドピアノの突上棒を叩き斬って天板に飛び乗った。そしてピアノの上から陸上選手の跳躍のように踏み切り、空中を駆けた。

 香村を庇う護衛が眼下に近付くと、うまい具合にその顔の辺りに足先が届きそうだ。三島は宙を行く足の運びをそのまま護衛の額に当てた。もんどり打って倒れる男の後ろから香村は慌てて他の者へと移動した。

 「気を付けろ!只の人間じゃないぞ」

 香村が叫んだ。心外なと三島は思ったが、むしろ感情は高揚した。

 『よし、じゃあやってやろうじゃないか』

 すとんと着地した三島は蹴った男の胸を刺し、香村を目で追う。その視線から逃げ回る幹部達を跨ぎ、小山のような男が三島に近付いてきた。男は手の日本刀を投げ捨てて言った。

 「俺が相手だ。うらなり野郎」

 男はどんと右足を踏み出し、柔道の組み手の構えを取った。格闘技には素人の三島でも相当の猛者だと判る。男は半身の姿勢から、桜田のパンチを超える速度で三島の襟を取ろうと分厚い掌を飛ばしてきた。

 「うっ」

 男の指がA−2ジャケットの襟を引っ掛け、三島は体勢を崩した。頬に風圧を感じて後ずさる。

 「逃げ足が速いな、このガキ」

 男は苦々しい顔で構え直した。

 三島ははたと気付いた。動体視力の劇的な向上でスロー再生を見るように敵の動きを察知できていると思っていたが、それだけではない。今朝の出来事が思い出された。テーブルから落ちた二つの卵、それを思う間もなく両手に受けた自分。そうだ、僕自身も速くなっていたのだと。

 「エドガー、背中を貸してくれ」

 背後で場を威圧していた魔獣に言った。巨体がすっと落ち、背に駆け上がると力のみなぎる四肢が立ち上がった。三島は背から応接室の高い天井すれすれに跳び、弧の頂点で剣を両手で構えた。

 だが、急降下が男の頭上僅かでがくんと止まった。空中で前屈するように姿勢を乱す。三島の左のくるぶしを摑まえた男の怒声が鳴り響いた。

 「死ねや、おらあ」

 振り下ろす剛腕で床に叩き付けられようとしたとき、三島は男の後頭部に刃を打ち込んだ。

 「冷や冷やさせるぜ」

 崩れ倒れた男の背の上に落ちた三島にポーが言った。微苦笑で応えて向き直ると、幹部のわめき声に押された護衛の残りが襲いかかってきた。三島は再び転がったテーブルを踏んで跳び、宙で身体を捻って一遍に二人を斬った。面白いように身体が動く。最後まで抵抗を続けていた二人の護衛も、いくら発砲しても三島の素早さに追いつかぬのに拳銃を投げ出して手を挙げた。

 「分かった、分かった。俺達の負けだ。降参だ、降参」

 躊躇なく三島は二人を斬り捨てた。

 三島の胸中にはいつからかある感情が発露していた。

 —僕は今正義を行っている。亡者どもから世界を救うんだ。ケルベロスと死の騎士に護られた僕は無敵だ。もう怖くはない—

 英雄的ヒロイックな自尊心が胸に満ちて、昂ぶりを抑えられない。剣を振るう三島の瞳は戦闘の直中ただなかにあって快感に輝いていた。

 「香村はどこだ」

 滅茶苦茶になった室内を見回す。幹部六人と助手が三人、そして香村は隅で壁にへばりついている。次はおまえだ、と三島は刃を向けた。

 「助けて、レイジさん、助けてください!」

 後方で酒向の頓狂な声がした。助手の一人に短刀を握らされ、胸を突かれようとしている。裏切り者にせめてもの仇をなすつもりなのだろう。

 「放っておけ。もう用はない」

 アランが言った。だが三島は酒向を組み敷いている男に光の剣を投げた。男の脇腹に刺さった剣がぽろりと落ちると、ピアノの陰から別の男が飛び出して取り上げた。三島は油断していた。男は脱兎の勢いで三島に体当たりし、歓声を上げた。

 「どうだ、やったぞ」

 A−2の腹に剣が刺さっている。それを三島はまじまじと見た。

 「だから放っとけと言ったんだ」

 ポーが言った。痛みは感じない。剣を抜くと、光の刃はどこかに消えていたかの如く衣服も身体も無傷だった。

 三島は剣を逆手に持ち替え、立ち竦む男の首に刺した。白目を剥いて倒れるその様を見て香村が言った。

 「おまえは一体、何者」

 ついさっきまでの余裕が消え失せ、上ずった声に三島はきっと答えた。

 「言っただろう。死の騎士の使いだ。冥界に戻ってもらうぞ」

 幹部の一人が三島の足下に膝行しっこうしてきた。

 「頼む、頼むから勘弁してくれ。わしはあんな所に戻りとうない。金なら幾らでも出す。ほれ、取ってくれ」

 幹部は懐の札入れから厚い札束を差し出した。三島は眉間に皺を寄せ、掲げた手を蹴る。数十枚の一万円札が飛び散った。

 「立つんだ。壁際に並べ」

 命じた三島を口惜しげに睨んだり懇願の表情で見つめたりしていた男達は、魔獣の咆哮の一喝で壁の前に慌てて整列した。

 「おまえは幹部か。李英傑の居場所を言え」

 白いスーツに香水をぷんぷんさせた右端の男に三島が尋ねた。

 「知らん」

 男はにべもなく横を向いた。間髪をいれず、三島は隣の助手の胸を刺した。風船がしぼむように身体を折って倒れる。

 「見ろ。魂が冥界へ引き戻されていく。ハデスがおまえ達を待っているぞ」

 三島は立ち上る靄を指差した。男は顔に汗を吹き出させ、血走った目を見開いて言った。

 「豊橋だ、多分。今はそこが総本部だ」

 「馬鹿もん、黙れ」

 秘中の秘を明かす者に冷静でいられず、香村が気色ばんだ。

 「豊橋?愛知県のか」

 「そうだ、今は豊橋だ。俺は先日行った」

 別の幹部が急いで同意した。

 「黙れ、自殺させるぞ」

 怒鳴る香村を無視して他の幹部も我先にと喋り出す。

 「豊橋駅から近い」

 「そうだ、何なら俺が案内する」

 「貴様ら!」

 香村が幹部の一人を羽交い締めにした。ポケットからボールペンを抜き、手に無理矢理握らせて心臓を突こうとさせる。幹部は絶叫した。三島は香村を目がけ剣で突いたが、盾にされた幹部の胸に刺さる。香村は更に別の者を襲う。

 「くそ、卑怯な」

 香村の動きは速い。幹部を解放させるための威嚇だったのだが、三島はまた一人斬ってしまう。アランが言った。

 「零時、幹部はもういい。香村を捕まえろ」

 魔獣は逃げ惑う男達を次々叩き伏せた。三島が手早く剣で始末していく。盾を失った香村は壁際をじりじりと逃げる。

 「観念しろ、香村」

 三島の手が届こうかというとき、香村が足下に横たわる男が握っていた短刀を奪った。いつの間にかすぐ横にまで移動していたドアの隙間に香村は刃を差し込んでこじ開けた。

 「あっ、待て」

 香村は一足飛びに階段を駆け上がる。三階に着くと東側のドアを開け、中へ消えた。三島が追って入ると左から飛んできた刃が鼻先をかすめた。ひやりとした感覚が空気を伝わり、後ろへよろめく。

 「ここは私の城だ。生きては出さんぞ」

 部屋の奥に薙刀なぎなたを持つ香村がいた。背後には膨大な量の本が置かれた書架と、無数の刀剣を飾る陳列棚がある。香村の書斎は一方でまさしく武器の砦だった。

 香村は巧みに薙刀を操って迫るが、接近戦では長い得物は却って不利だ。三島は舞う薙刀の間隙を縫って攻撃範囲の内側に入り込み、剣を振り上げた。すると香村は敏捷に後退しつつ突きを放ってきた。だが薙刀はなぜか横を素通りして壁に刺さる。思わず後ろを向いた途端、三島は脇腹に強烈な蹴りを食らい、壁へ倒れ込んだ。香村が薙刀の一方の端を書架の一つに掛けて固定し、柄を鉄棒のように使い蹴りを繰り出してきたのだった。三島は戦闘で初めて受けたダメージの少なからぬ衝撃で動けなくなった。

 「零時!」

 追ってきたエドガーが吠え、巨体ゆえ入れぬドアを破壊し始めた。

 「どうした、死神の代理人。案外弱いじゃないか」

 香村は棚から軍刀を引き出した。冷笑とともに介錯人の如く白刃はくじんを構える。

 「身の程を知れ」

 柄を握る香村の拳に力が込められたとき、三島はやっと身体の自由を取り戻した。素早く上半身を両手首に乗せて伏せ、回転して香村の足を払う。側転の格好で倒れ、自らが渡した薙刀の柄で頭を痛打した香村は老猫を思わせるぎゃっという悲鳴を上げて転がる。すかさず三島が立ち上がると香村は軍刀を拾い、苦し紛れに投げつけた。しかし脇にかわした三島は、光の剣を香村の頭に振り下ろした。

 「待て!零時、まだだ!」

 アランが叫んだ。刃が額の数センチ上で停止する。香村は青く照らされた顔を引きつらせて失神した。バリバリと音を立て、魔獣が壁に開けた穴から入ってきた。

 「小癪こしゃくな奴、目を覚まさせろ」

 三島はためらわずに剣の柄で香村の頭を殴打した。蹴られた脇腹が痛む。

 呻いて目を開けた香村は眉間にかざされた剣の光を直視して、ひぃーっと叫んだ。後ろ手に必死で床をまさぐって武器を探す。往生際の悪さに立腹し三島はもう一度殴りつけた。

 「やめてくれ!もう抵抗しない」

 香村は頭を押さえて訴えた。

 「総本部と李英傑の居場所を言うんだ」

 「当分は豊橋だ。駅近くの雑居ビルを丸ごと使っている。だが総帥のおられる場所は知らん。総帥は常に居場所を替えるんだ。嘘ではない」

 「山本はそこにいるのか」

 「恐らく」

 アランの問いに香村は頷いた。そしてまだ訊いていないことを饒舌にまくし立てた。

 「第二GMビルという建物だ。地場の暴力団系列の企業の所有だが、その組は全員我々が憑依して乗っ取った。それで元々入居していた連中を追い出して拠点にしている。中部は関東と関西の両方に目が届きやすいからだ。しかも豊橋は交通の便がいい上に警察の監視が名古屋よりも緩い。一時的にでも本部機能を置くには好都合だ」

 なるほどと三島は思った。東海道新幹線の停車駅がある豊橋は三大都市圏を行き来するには便利な場所だ。それに名古屋を擁する愛知県において中核市の指定を持つとは言え、三河国の歴史と農工業で知られる穏やかな街からは巨大な犯罪組織の中枢の存在を想像し難い。暗躍の根城には絶好なのだ。

 「そこで、君に提案がある」

 香村が言った。

 「私と組んで総帥を倒そう。私の知性と君の力があれば組織を我々のものとするのも難しくない。どうだね」

 三島は目を丸くした。この者達はやはり魔獣の言う通り、自らの保身以外頭にないのだ。

 「君の力には感服した。死神の名代を務めるというだけのことはあるな。しかもケルベロスまで手なずけているとは心強い」

 卑屈な作り笑いを浮かべ、香村はへつらいの言葉を並べ立てた。三島は魔獣を見た。彼等は沈黙している。

 「どうだ?世界を我々で牛耳るんだ。なんなら君には日本を与えよう。私は政府の人間だって動かせる。愚かな政治家どもなど思うままだ。奴らとは能力が違う。私はオックスフォードをファーストクラスで卒業したんだ。私の頭脳に君の力が加われば」

 声が途切れた。額に光の剣が突き刺さった香村は二三度空を手で掻いて動かなくなった。三島は剣を抜き、醜悪なものを見まいとするように視線を遠ざけた。

 「学歴は間に合ってるよ」

 西川の身体から立ち上った靄は未練がましく宙に浮いていたが、エドガーに咆哮を浴びせられると霧散した。

 「その口に砂を詰め込まれて干乾しにされるがいい」

 呪いの言葉の後、アランが三島に質した。

 「酒向はどうした。逃げてしまうぞ」

 応接室に戻ると、ピアノの陰で震えていた酒向が駆け寄って三島の手を掴み、憐れみを乞うた。

 「レイジさん、俺は助けてくれるんだよな?あんたに言われたとおり協力したよ」

 三島は黙っている。破壊されたドアの向こうから赤い瞳が覗き、アランが冷徹に告げた。

 「始末しろ」

 「そんな、約束したじゃないか!お願いだ、助けてくれ」

 酒向が号泣した。そのとき、インターホンが鳴った。すがる手を振り払い、加勢かと三島は剣を抜く。応接室を出て玄関を見ると壁に通話機がある。取るとはっきりした口調の声が聞こえた。

 「西川さん、警察ですが、何かありましたか。御近所から大きな音がしたと通報が来ていますが」

 無言で通話機を置き、三島は魔獣のすぐ傍へ歩み寄った。

 「アラン、酒向は自首させよう」

 「何だと」

 「全て警察に喋らせるんだ。そうすれば奴が操っている男は重罪になる。酒向は肉体の牢獄に入れておけばいい。李英傑を倒せばどうせ奴らも冥界に引き戻されるんだろう。ここまで来たんだ。その程度の猶予は与えよう」

 厳しい表情を向けるアランに三島は続けた。

 「それに酒向が喋れば組織の犯罪が明かされることになる。僕達がこうして李英傑を追っている間もあの連中は悪事を働いている。少しでも止めるためには世に知らせることが必要だ」

 「確かに今あいつを始末するより、その方が人間達の苦しみは減る」

 「一応の理はあるな」

 エドガーとポーが言った。だがアランはきっぱりと返した。

 「だめだ。この世界が混乱する」

 「冥界の逃亡者のことは隠しておけばいい。西川に繋がる悪人達が暴かれれば大勢の人間が救われる」

 アランは黙ったままだ。またインターホンが鳴る。戸外が騒がしくなってきた。

 「アラン、頼む」

 エドガーとポーも中央の彼を見ている。アランが口を開いた。

 「勝手にしろ」

 三島は応接室に駆け込んだ。泣き崩れている酒向に命じる。

 「おまえを助ける。よく聞くんだ。外に警官が来ている。出て行って自首をしろ。それが条件だ」

 酒向は子供のように泣き腫らした顔を上げ、がくがくと激しく縦に振った。

 「西川はUNFALLSの幹部だったこと、おまえが協力して資金提供していたこと、関係する者達のことも全て話せ。そして今日は組織の会議中に仲間割れが起きて騒ぎになったと言うんだ」

 「でも、俺達の正体を言っても警察は信じないだろう?」

 酒向が不安げに言った。

 「正体は言うな。ただの犯罪組織だと思わせておけ。そして喋った以上自分は命を狙われるから保護してほしいと言え。いいな?同意できないなら今すぐ冥界へ送り返す」

 「分かった!やるよ。それから、あんた達のことも秘密だな?」

 「無論だ。僕とケルベロスは行く。うまくやれ」

 嬉し涙を流す酒向に背を向け、三島は応接室を出た。その背に酒向が言った。

 「ありがとう、レイジさん」

 応えず、三島は鳴り止まないインターホンを目で指した。酒向が通話機を取った。

 「はい、私は西川さんの知人です。ちょっと騒ぎがありまして、出て説明します」

 酒向が目配せし、三島と魔獣は階段を上った。

 「お人好しめ」

 ポーが言った。三島は黙っていた。犬の姿になったケルベロスと三島が屋上へ出ると、屋敷の前にパトカーが二台停まっていた。表玄関側には三名の警官と、既に何人かの野次馬がいる。裏口側では三島が片付けて座らせた男達に一人の警官がしきりに声をかけている。

 「どうする。どこから出よう」

 三島が言うと魔犬は屋上をたたっと走り、周囲の家並みを見回った。

 「あそこへ移る」

 戻ったアランが鼻先を向けた北側には、二階建ての古い住宅がある。七十年代頃に流行した、直方体を組み合わせたような建築様式だ。

 「えっ、どうやってあんな遠くへ」

 その家の屋根までは道路を挟んで少なくとも二十メートル近くはある。

 「待て」

 ケルベロスがまた変身を始めた。本来の姿になったアランが言った。

 「乗れ」

 三島は固唾を飲み込んで言った。

 「アラン、首にベルトを掛けていいか」

 「いいから早くしろ」

 三島は魔獣の背に乗り、抜いたベルトをアランの首に回して両端を強く握った。伏せると針のような毛が痛い。身を固くする三島にエドガーが言った。

 「いいか、落ちるなよ」

 魔獣は二三歩後退し、助走して西川邸の屋上から跳んだ。三島は目を閉じ、衝撃に備えて広い背にしがみついた。一瞬の後、巨体に似合わぬ軽い音とともに隣家の平らな屋根に魔獣は降り立った。背の上で跳ねた後三島は恐る恐る目を開けた。するとアランが言った。

 「下に降りる。掴まってろ」

 魔獣はもう一度飛び、庭に着地した。その身ごなしは犬と言うより大きな猫のように軽やかだ。三島は魔獣に礼を言って下り、ベルトを腰に巻いた。家を見ると家人はもう就寝したのか窓に明かりがない。小さくなったケルベロスと三島は庭の隅に置かれた高齢者マークの付いた旧いセダンの脇を抜けて外に出た。

 「待て、ちょっと来い」

 アランが鼻先をしゃくった。二人は西川邸の東側へ進み、門が見える場所へ来た。そこでは酒向が警官と話していた。野次馬に紛れて見守っているうち、いきなり警官の顔色が変わった。別の警官に署へ連絡しろと言い放ち、酒向を伴い屋敷の中へ駆け込む。

 「あいつは約束を守ったぜ」

 ポーが言った。野次馬の喧噪で三島には聞き取れなかったが、彼等は酒向が指示された通りに話すのを聞いたのだろう。

 「行くぞ」

 アランが言い、魔犬は頭をすっと帰路に向けて歩き出した。酒向の消えた門を見ていた三島もきびすを返した。

 数人の西川邸の方へ向かう野次馬とすれ違い、二人は路上駐車したパンダに戻った。防刃グローブを外し、三島はポケットのキーを探る。

 「おや、三島さん」

 三島は総毛立った。上がった肩越しにゆっくりと振り向くと、クーンが立っていた。

 「あっ、クーンさん…こんばんは」

 三島は左手に持ったグローブをポケットに押し込み、どぎまぎする様子を隠しきれずに返答した。視線をちらりと足下に落とすと、体躯を引いたまま動かない魔犬もまた驚きを表していた。

 「奇遇ですね。こちらの方に何か御用ですか」

 クーンは変わらぬあの柔和な笑顔で尋ねた。三島は胸がどきりと鳴るのを感じたが、無理に微笑した。

 「ええ、学生時代の友人の家がこの近くで」

 「ほう、そうですか。私はこの街の教会の講話会に招かれました」

 クーンが住宅街の中のある方向を指差した。その先にはここへ来たときには気付かなかった小さな十字架が尖った屋根の上にライトアップされていた。

 「小さな教会ですが皆さん熱心で、私の話をよく聞いてくださいました。ところで三島さん、あちらが騒がしいようですが、何か」

 「えっ、さあ、向こうは通らなかったので」

 なぜ聞くのかと面食らい、三島は咄嗟に知らぬ振りをした。クーンはしばらく黙っていたが、その間も笑顔は崩さなかった。

 「そうですか。では、また木曜に警視庁でお会いするのを楽しみにしています」

 会釈をしてクーンは西川邸の方へ歩いて行った。

 車に乗り込むと三島は肺のよどんだ空気を全て入れ換えるように大きく息を吐いた。ポケットからグローブを引っ張り出して後席に投げる。

 「あの男、やはりただの司祭ではないぞ。気配を俺達が感じ取れなかった」

 アランが言った。三島は反論しなかった。既に心の奥に根付いていた疑念につい先程気付いたのだった。

 「注意しろ」

 「ああ」

 三島は憂鬱な気分でパンダを発進させた。その少し後、信号で停車中に三島は香村に蹴られた脇腹の痛みが消えているのに気付いた。おやと思い手に力を込め押さえてみても苦痛はない。肉体の回復力にも変化が起きているようだ。やはり自分は特別な力を与えられた—三島は頬を緩めた。心に高揚感が戻り、つい胸が躍る。

 「僕は今日役目を果たせたかな」

 三島は魔犬に尋ねた。目を閉じて伏せていた魔犬が顔を上げた。

 「まずまずというところだ」

 「生きているからな」

 エドガーとポーが答えた。アランは黙っている。言ってしまってから我にも無いことをと三島はいささかの後悔を覚えたが、好意的な評価に安堵し、意を強くした。ハンドルを操る手さばきも軽く、三島のパンダは繁華街に出た。

 「あ、あの子は」

 駅前へと続く大通りで、三島は道沿いに連なる賑やかなショッピングストリートの中にベビーカートを押す母親と少女を見つけた。

 「あの女の子だ。ほら、シュークリームをくれた」

 嬉しそうに洋菓子の箱を抱え、母と弟のカートの前を歩く少女を指差して三島は魔犬に言った。

 そのとき、先行する数台の車が次々に急停車した。外を見ると人々の視線がみな前方の一点に集まっている。そこから激しい衝突音とタイヤのきしみを伴ってエンジンの唸りが近付いてきた。三島は急いで窓を開け、身を乗り出して対向車線を来るそれを確かめた。フロントを激しく損傷した大型SUVが他の車両を撥ねのけながら突進している。運転手はハンドルに顔を埋めたまま動かない。通行人が悲鳴と共に逃げ惑い始めた。

 「あっ!」

 三島は叫んだ。進路を歩道に向けた車の先に少女と母がいる。母親は二人の子を連れてその場から懸命に逃げようとするが、人々の波に翻弄されて身動きがとれなくなっている。

 三島は瞬時にシートベルトを外しドアハンドルに手を掛けた。だが、その身を止めるものがある。魔犬がA−2の裾を咬み、行かせまいとしていた。

 「よせ。行くな」

 アランが言った。

 「今の僕なら助けられる。大丈夫だ」

 三島は車外へ飛び出そうとしたが、強い力で引き戻された。

 「だめだ。やめろ」

 「なぜだ!」

 「あの子の運命を変えるな!」

 次の瞬間、悲鳴と絶叫が交錯した。重量物が激突する轟音の後、一瞬の静寂を置いて慟哭が辺りに響き渡った。

 SUVは街路樹を薙ぎ倒し、電力会社が敷設した高圧受電設備キュービクルを前部にめり込ませて歩道上に停止していた。そしてその数メートル先で、あの母が路上の何かに覆い被さり身体を震わせている。やがて取り巻く人々の中から老婦人が歩み寄り、抱え起こすと彼女の下には動かぬ少女がいた。だが母親は婦人の手を振り払い、幼い娘を再び自分の身で隠した。

 SUVの運転手が数人の怒る者の手で引き出された。二十代半ば程のその男は意識がないのか目を閉じ、手足をだらりと投げ出している。

 「ああ、ああ…」

 三島は運転席の窓に手を掛けて呻いた。

 「あの子は死んだ。死んでしまった」

 苦悶に顔を歪め、悲嘆の声を上げる三島にアランが言った。

 「神が定めた運命だ。おまえの関わることではない」

 三島はもう一度ああ、と嘆いて両手で顔を覆った。

 「零時、もう行け」

 エドガーが言った。しかし三島は覆い塞いだ顔を深く垂れたまま動けなかった。

 「行くんだ!」

 霞む目を開き、震える手で三島はハンドルを取った。前の車両は既に動き出していた。三島達の車はよろよろとその場から走り去った。


 自宅に辿り着くと、三島はやにわに魔犬に詰め寄った。

 「アラン、運命だと言ったな」

 「ああ」

 「おまえはあの子が死ぬと知っていたのか」

 「命がもう残り僅かだとは分かっていた」

 「なぜだ」

 アランは少し間を置いて答えた。

 「この世界で生きた人間を見て知ったことだ。俺達は人間の瞳の奥に魂の光を見ることができる。あの子の光はもう弱かった」

 「いつそれを」

 「食べ物をくれたときだ」

 三島は愕然とした。あのとき少女を見つめた魔犬の表情を読み取れなかった浅はかさに忸怩じくじした。あどけない笑顔が思い出され、再び深い悲しみに沈むのを堪えられない。三島は既に答えが明白な問いを魔犬にぶつけた。

 「なぜ止めた、アラン。僕ならあの子を救えたのに」

 アランは黙って三島を正視している。エドガーが代わって言った。

 「零時、おまえはいい人間だ。しかし神の定めを変えることはならん」

 三島が叫んだ。

 「じゃあ、僕は何のためにこんなことをしてるんだ。目の前の子供一人助けられないのに」

 涙が三島の目から流れ落ちた。

 「もう嫌だ。無意味じゃないか。そうだろう、騎士、ああ、騎士。答えてくれ」

 呼び声に応えず、騎士は現れなかった。三島は寝室に駆け込んで泣き崩れた。〝選ばれた者〟などと慢心していた愚かさと自らの無力が惨めで情けない。

 「何が世界を救うだ。僕は馬鹿だ。あの子を見殺しにした役立たずだ」

 三島は夜通し泣きしきった。そして、長い夜が明ける頃には涙の奔流が驕りをさらい、涸れてひびのった心の中では召された少女の魂と蘇った亡者に奪われる多くの命の別の整理がついていた。三島は頬を拭い、寝室を出た。

 ソファーの上で目を閉じていた魔犬は、薄く開けた両眼で三島を見たが何も言わなかった。三島は洗面所で顔を洗い、鏡が映す容貌を眺めた。そこに幾許いくばくかの違和感を覚えて凝視すると、眉間と眼窩に苦悩の陰が差していることに気付いた。だが瞳に弱さは消え、いつからか心の奥にある意志が鋭い眼光となって表出しているように思えた。三島は唇を固く結んだ。

 「食事にしよう」

 居間に戻り三島は魔犬に言った。キッチンで自分と魔犬の軽い朝食を用意し、リビングテーブルへ運んだ。二人は言葉を交わさず、静かにそれぞれの食事を取っていたが、三島はふと気になってリモコンのボタンを押した。テレビ画面に早朝のニュースを伝えるキャスターが一大事の面持ちで現れた。

 『お伝えしていますように、昨夜午後七時過ぎ弁護士の西川公正さんの川崎市の自宅で…』

 キャスターは、近隣住民の通報で西川邸へ駆け付けた警官が西川を始め大勢の男が建物内外で意識不明で倒れているのを発見したこと、建物内にはおびただしい数の拳銃や刃物などの武器があったこと、また現場に居合わせたと名乗り出た男がおり、西川は反社会勢力組織の一員で、騒ぎは意見の対立による内部抗争であり、自分と西川は共謀して組織に利益供与を行っていたと証言したことを伝えた。

 『警察ではこの男性から詳しく事情を聞くと共に、西川さんらの回復を待って銃刀法違反等の疑いで調べる予定です。西川公正さんは著名な弁護士であると同時に、国内有数の大手弁護士事務所の代表でもあることから各方面に衝撃が広がっており…』

 これで芋づるを引き抜くように大勢の悪人の所業が明らかにされるだろう。三島は引き締めていた唇を緩めてコーヒーを飲み干した。

 『ではここで一旦別のニュースをお伝えします。昨夜、川崎市川崎区のJR川崎駅付近で起きた、幼児一名が犠牲となった自動車の暴走事故は、逮捕された運転手の男性に違法薬物の反応があり、事故当時は薬物により意識が朦朧としていた可能性が高いことが判明しました…』

 テレビを消し、三島がぽつりと言った。

 「後で行きたいところがあるんだ」

 アランが尋ねた。

 「どこだ」

 「昨日の事故の場所だ。あの子に花を手向けたい」

 魔犬は少しの間黙っていたが、短く返答した。

 「分かった」

 三島は勤めの休みを取った。研究所へは、体調が優れず半日ほど休息したいのと、明日の警視庁での会議に備え自宅で資料を整えたいと伝えた。

 既に心に区切りをつけていた三島は昼まで部屋に籠もって会議用の資料を準備した。組織の正体を知っている三島にとって、推測と考察という体裁を取ったぎりぎりの線の内容だ。

 そして正午に三島と魔犬は再び軽い食事を取って自宅を出た。

 ラフマニノフの〝ピアノ協奏曲第2番〟を黙って聴きながら二人はあの場所に来た。現場は警察の現場検証と道路設備の補修で渋滞している。三島は駅前のパーキングに車を駐め、花束を持って魔犬と共に少女が撥ねられた歩道へ向かった。

 倒れた街路樹が撤去された跡には献花台の用意があった。既に多くの花や菓子、ぬいぐるみなども置かれている。先に合掌していた二人の婦人は三島に気付くと場所を譲って立ち去った。花を置き、三島は台の前で片膝を突いた。

 『助けてあげられなくてごめん』

 合わせた両の掌に額をうなだれた三島は苦渋の色を浮かべた。

 「あの子は御許みもとにいる」

 耳元に鼻先を寄せ、アランが囁いた。固く閉じた眼を開くとその顔はアヌビス神の如くに静かだ。三島は魔犬の肩を抱いた。

 

 献花台を離れた二人がパーキングへと歩いているとき、対向車線の路肩に列をなした三台の自動車が急停止した。二台目、三台目の車のドアが次々に勢いよく開き、数人の女性が先頭を走っていた鮮血で染めたような色彩のメルセデス・ベンツEクラスクーペに駆け寄った。すると運転席ドアが開き、降り出た中年の婦人が歩道側の助手席へと足早に進んだ。

 三島は目を見張った。婦人が開けたドアから出て来たのがタイラス・M・クーンだったからだ。

 三島は街路樹に半ば身を隠してクーンと女性達を観察した。ここは彼が言っていた教会も近い。あれは信徒なのだろうか。腰を落として三島は魔犬に言った。

 「クーンさんがいる。何を言ってるか聞こえるか」

 魔犬が耳をそばだてた。

 「赤い車の女に礼を言っている。ここまで送らせたらしい」

 エドガーが言った。

 「女達がしきりにあの男を讃えている。心酔といったていだ」

 やはり信徒か。仰ぎ見るような眼差しを送る女達に囲まれたクーンはベンツの婦人の手を取って微笑した。

 「『あなたに神の御加護を』と言った」

 去って行く司祭と、その背に追いすがらんばかりの女達の集団。この名状し難い情景に、なぜか三島はクーンへの疑念が畏怖へと変わり始めたのを感じた。

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