第6話

 川崎市は京浜工業地帯の中核を占める関東有数の都市である。重工業や物流の一大拠点を臨海部に有し、内陸部は東京に隣接しながら豊かな自然を今も点々と残す閑静な住宅地が広がっている。しかし、かつては中京、阪神、北九州との四大工業地帯において一二を争う隆盛を誇ったこの地域も今はアジア新興国の発展の影響による産業規模の縮小に加え、不況の追い打ちで往年の市勢は失われている。

 悪化の一途を辿る財政の立て直しの窮余の一策として、約五年前に時の市長は国と所管省庁への執拗な提案と申請によって構造改革特区の導入を認めさせ、臨海部の遊休地に日本初の大規模カジノを誘致した。運営業者はノウハウを持つ外国企業から選ばれ、設備建物は市からの多額の補助金を得て建設された。

 底が見え始めていた市の財政に利することを期待した市長の目算は関東一円からの集客や外国人観光客の落とす金とカジノの法人税収によって一旦は当たったかに思われたが、開業後二年と経たぬ間に業者選定の担当責任者だった副市長の賄賂の収受が発覚し、しかも運営会社の経営陣にマフィアと繋がりのある人物が複数名存在する事実が明らかになると、元々カジノ誘致に反対だった市民団体や地元議会の野党が一斉にそれ見たことかと声を上げ、それを境に観光客など一般の客層は潮が引くように離れていった。次期選挙も再選確実と見られていた市長は大差で敗れ、後には海外から流入してきたアウトローが潜む賭場と、一攫千金を夢想する明日知れぬ身の者達が行き交う殺伐たるギャンブルの町が残った。

 「まるで宮殿だ」

 カジノ・ベラクルスの駐車場入口で、パンダの広いフロントガラスにさえ収まりきらぬ威容を仰いで三島は呟いた。本場ラスベガスのカジノの外観を模した超高級ホテル風の建築は、一見の客を無言の内に拒むような近寄り難さをふんぷんと匂わせている。

 突然、けたたましい車のホーンが背後から浴びせられた。慌ててルームミラーを確認すると、旧型の黒いジャガーXJがぴたりと後ろに付いていた。揉み上げを長く伸ばした髭面の男が運転席でこちらを睨んでいる。三島は一時停止の線からパンダを急いで発進させた。前輪がキュッと鳴く。

 「慌てるな。落ち着いて運転しろ」

 助手席に寝そべっているアランが言った。

 広大な駐車場は平日の午前中だというのに八分ほどは埋まっている。軽や小型車が目立つが、カジノの建物に近付くほど高級車が多くなった。そのまま進んでいくと豪華な噴水を中央に抱いて半円形を描く車寄せがあった。待機していたホテルのドアボーイ風の制服を着た従業員はパンダを見ると面倒臭そうな様子で先の立体駐車場へ追いやるように片手で指し示した。三島は車寄せの手前で右折し、建物の上部にある駐車場へ向かう。ミラーに視線をやると、さっきのボーイが後に続いてきたジャガーにぺこぺこと頭を下げ、上客専用なのか正面入口に近いスペースへ誘導していた。

 建物脇を奥へ進んだ所の入口から立体駐車場へ入る。カジノのフロアは一階から五階までで、駐車場は六階から十階だ。パンダはくるくるとパーキングの急勾配を登る。

 「ここで駐めろ。後は歩いて行く」

 六階の駐車場に来るとアランが言った。三島は手近な場所にパンダを入れ、鞄から短剣を取り出してジャンパーの内ポケットに差し込んだ。降車してすぐ、魔犬は駐められている車の程近くをゆっくりと歩き出した。

 米田が口にした川崎という土地から三島が真っ先に思いついたのがこのベラクルスである。ギャンブルの経験がない三島でも、巨大な金が動くカジノには犯罪の影がつきまとうことは容易に想像できた。そこで魔犬と共に手がかりを求めに来たのだ。今日金曜日は普段なら私大での講師の勤めがあるが、長丁場の探索になると見越して大学には体調が悪いと伝え、休講にしてもらった。

 立体駐車場は屋外に比べれば空いていたが、それでも区画の半分ほどには車両がある。外よりも高級車や新車が多い。そこかしこに防犯カメラのある立体駐車場に、車上狙い除けの効果を期待しているのだろう。

 魔犬は時々鼻先を車に向けて臭いを嗅ぎながら、上階の方向へ歩いている。低層階から上へ進めば、出て行く車も見落としがない。三島はなるほどと感心した。

 最上階へ来た。さすがに駐車車両は少ない。魔犬がここまで特に反応を見せなかったことで空振りだったかと三島が思ったとき、ケルベロスは足取りをやや速めて駐車場奥の片隅へ向かった。そこにはダークグレーのベントレー・コンチネンタルが目立つのを避けるようにひっそりと置かれている。魔犬は正面に立って動きを止めた。

 「これか?」

 三島は魔犬に尋ね、車を見た。ぬめるような曲線が薄暗い海中で獲物を待つ巨大な軟体動物を思わせる。セキュリティアラームが反応しないよう、注意深く接触を避けつつ三島は車内を覗き込んだ。外国煙草とゴルフ用のグローブが無造作に置いてある他は特に何も見当たらない。

 「まあこいつはいい。他を捜す」

 アランが言った。

 「臭うんじゃないのか」

 「それほどのことはない。雑魚だ。あの女殺しの方が臭かった」

 雑魚にしては大した車だ。これはカジノの経営に関わっている者の車ではないか。

 「でも、いいのか。資金源かも」

 「大方利用されているだけの三下だろう。それより香村って奴を見つけるんだ」

 懸念の色を浮かべる三島にエドガーがあっさりと答えた。アランが付け加える。

 「騒ぎを起こしたいか?」

 彼等は悪人の処し方を心得ているのだ。三島は黙った。

 「心当たりがある。行くぞ」

 魔犬は引き返し始めた。

 「心当たりって?」

 「後で話す」

 

 カジノの駐車場を出ると、正午近かった。

 「何か食べないか」

 「いらん」

 にべもなくアランが答えた。だが三島は空腹だった。

 「少し食べてもいいか」

 「好きにしろ」

 三島は安心して周囲を見回した。ちょうどよく数百メートル先にハンバーガーショップの看板を見つけた。ドライブスルーに滑り込み、チリソースを使ったホットドッグとコーヒーを注文する。

 包みを受け取ると三島はパンダを店の駐車場に移動し、チリドッグをダッシュボードに広げて食べ始めた。

 「それは何だ」

 「ホットドッグだ。うまいよ」

 三島は食べかけのチリドッグを魔犬の鼻先に向けた。

 「何だこの臭いは。ゴブリンの食い物か」

 魔犬は目を閉じて顔を背けた。彼等の嗅覚にはチリペッパーの香りは刺激臭に感じられるようだ。

 「早く食え。さもなきゃ捨てろ」

 三島は吹き出したくなるのををこらえて大急ぎでチリドッグを食べきった。

 「俺の前であんなものは二度と食うな」

 「分かったよ」

 三島はコーヒーを飲み干すとパーキングブレーキを外し、走り出す準備をして魔犬に尋ねた。

 「で、どこへ行けばいい。心当たりっていうのは何だ」

 「この世界には弁護士という職業があるな」

 「ああ」

 「人助けをする仕事だそうだな。だが、悪人を助けている奴もいるだろう」

 「弁護士にもいろいろな人間がいるさ」

 「香村という奴には覚えがある。生きていたときは弁護士だった男だ。逃げた連中にコウムラという名の人間は何人かいたが、こいつは一番悪かった」

 香村…三島ははっとその名を思い出した。十年近く前になるだろうか。反社会勢力の影響下にある企業の弁護士として辣腕を振るい、社員を次々と自殺に追い込んだ疑いで遺族から起こされた数々の裁判に連戦連勝を得たものの、合法的な待遇を与えていたとする証拠を被告の会社と共謀して捏造したことが明らかになって資格を剥奪され、その後謎の死を遂げた悪徳弁護士がいた。勝訴時の会見で、至極当然、責任の押しつけは迷惑千万とうそぶいていた冷血漢の容貌がまざまざと思い起こされる。

 『そうか、あいつが』

 「香村は恐らく元の知識を使ってこの世界でまた同じようなことをしてるはずだ。関係のない人間を巻き込まないよう慎重に辿るつもりだったが、雑魚しか見つからんのでは仕方ない。近いところから一気に攻め込む」

 「攻め込むって、どうする気だ」

 「まあ任せておけ」

 アランに代わりエドガーが答えた。真ん中の理論派とは異なり、豪胆な気性だ。

 「弁護士というのはどこで仕事をしてる」

 アランが尋ねた。

 「そうだな、裁判所の近辺に事務所を開いていることが多いと思う」

 「ではこの街のそういう場所へ向かえ。探してみる」

 川崎市の裁判所というとどの辺りか。土地勘のない三島はカーナビゲーションで検索してみた。すると川崎区富士見という場所が表示される。現在地から意外に程近い。目的地に設定し、三島はパンダを発進させた。

 スピーカーからラヴェルの〝ボレロ〟が流れている。魔犬は目を閉じて聴き入っていたが、走り出して10分余り経った頃、不意に鋭い声を上げた。

 「停めろ」

 三島はハザードランプを点滅させてパンダを停止した。ナビの画面を見ると目的地までまだ少しあるようだ。

 「この辺りなのか。裁判所まではまだ」

 そこまで言いかけて、三島は口を開いたまま後を続けられなくなった。目の前のビルに堂々と掲げられた看板が言葉を失わせた。

 〝西川公正法律事務所〟—それは恐らく日本で最も名を知られた弁護士であり、〝弱者の味方〟〝法の防人さきもり〟を自認自称する西川公正が設立した大規模弁護士法人だ。多数の有名企業の法務顧問を務め、所属弁護士のテレビ出演も多い。とりわけ政財界にも太い人脈を持つ代表の西川は、柔和ながら切れ者然とした語り口と、学生時代漕艇部で鍛えたというよわい七十に近いと思わせぬ容姿で一般市民にも一定の人気がある。三島は絶望に似た嘆きをやっと口にした。

 「あの西川弁護士が、そんな人まで…」

 「有名な奴か」

 エドガーが尋ねる。

 「ああ。いい人だと思われてる。間違いじゃないのか?政治や経済の世界にも繋がりのある人物だぞ」

 「弁護士にもいろんな奴がいるんだろう?」

 ポーが皮肉な調子で言った。冷淡な態度だ。

 「あの中から臭ってきているとすればまず間違いないだろうな。ここにいてさえ感じる。確かめに行こう」

 エドガーはそう言ってドアハンドルに前脚を掛けたが、その動きが止まった。

 「待て。ここから移動しろ。この植物のような色の車は目立つ」

 アランが指摘した。その通りだ。あの法律事務所の中に取り憑かれている者が存在するなら、目撃されるのは危険だ。三島は車を走らせた。

 法律事務所ビルの前を通り過ぎ、ナビの画面を見る。この先の交差点を二つ越えて左折した場所に何か大きな施設がある。行ってみるとスーパーマーケットやファストフード店、レンタルショップなどの複合施設だ。様々な車が集まるこの手の場所なら目立たない。三島は駐車場へとハンドルを切った。

 パンダをファミリーカーの列に紛れ込ませ、三島と魔犬は西川公正の事務所を目指して歩き出した。駐車場を横切って半ば程まで来ると、中央広場のような場所がある。マイカーを見つけやすくする配慮か、駐車場を見渡せるよう数段の階段で小高くなっている。通り過ぎようと二人が進むと、広場の上から怒鳴り声がした。

 「何だとこら、ふざけんじゃねえぞ」

 咄嗟とっさに三島は騎士との契約の夜を思い出した。UNFALLSの三人の男達に味わわされた恐怖と屈辱の苦々しい記憶が蘇る。だが今の三島は違った。下品な怒声になぜか名状し難い怒りを覚え、広場に駆け上った。

 そこでは二匹の犬を従えた力士のような大柄の男が、幼児二人を連れた母親を罵倒していた。子供の一人はベビーカー兼用型のショッピングカートで泣き声を上げている。二歳ほどの男児だ。そしてもう一人、五歳くらいの女児が母親の後ろに隠れて泣いている。その子と男の間には小さなバスケットとアイスクリームが落ちていた。

 「このは本物のイタリア製だぞ!五万円の高級品を台無しにして何がクリーニング代だ。弁償しやがれ」

 状況が判明した。少女が粗相をしてアイスクリームが衣服に付着したと咎めているのだろう。しかし、男の珍妙なスウェットスーツが五万円の代物とは思えない。三島が視線を魔犬に向けると、頭を小さく横に振った。UNFALLSではない。強請ゆすりの類いだ。

 「すみません、そんなお金は」

 若いが品の良さそうな母親が法外な要求に困惑した表情で何度も頭を下げる。母の後ろで恐怖に声を潜めて泣いている少女の頬は涙に濡れて真っ赤に染まっていた。

 「何い?なら調べてやる、見せてみろ」

 男が母親のハンドバッグを強引にひったくった。

 「あっ」

 その拍子にカートのハンドルが母親の右手から外れた。カートはごろごろと動き出し、駐車場へ下る石段に進んでいく。

 「危ない!」

 取り巻いていた数人の野次馬の誰かが声を上げた。カートの男児が泣き叫んでいる。母親が半狂乱となって後を追うが、スカートを掴んで放さぬ少女のためにその手は届かない。

 車輪が石段に達し、カートががくんと斜め下に揺れたとき、三島は飛び出した。自分に何ができるかなど考えてはいなかった。ただ衝動が身体を弾いた。広場の端を踏み切って跳躍する。転がっていくカートを眼下に見ながら飛び越えると、フィニッシュの演技を舞う体操選手さながらに身体をくるりと回転した。カートは正面に着地して待つ三島に受け止められ、男児は固く閉じていた瞼を開き、泣きやんだ。

 男児を抱き上げて三島は広場へ駆け戻った。奪ったハンドバッグを放り出し、その場から逃げようとしていた男は三島が男児を無事に連れ戻ったのを見ると足を止めた。茫然自失の表情がまだ消えない母親に男児を渡し、三島は強い調子で男を呼んだ。

 「おい、君!」

 男のそそくさとした態度が豹変した。脂肪に埋もれた細い目を見開き、黄色い歯を剥き出して三島を睨む。

 「何だあ、文句あんのかよ。モヤシ野郎」

 「小さな子供に何をするんだ」

 「てめえ、誰に向かって言ってんだよ」

 「しらばっくれるなよ、君」

 三島は応酬しながら目まぐるしい感情を抱いた。冥界からの逃亡者ではないと言え、巨漢の悪人に対峙して一歩も引かない勇気がどこから湧いてくるのか見当も付かない。ましてさっきの跳躍は本当に自分の仕業か。自分の中のどこかが変わってしまったのか。不安と不思議さが交互に去来する。だが以前とは違うそんな自分がまた誇らしく、胸がすくようでもあった。

 「舐めやがって、このガキ!」

 男は激昂し、右手に拳を構えて掴みかかってきた。しかし、男の鈍重な動きは三島の目にはコマ送りの映像にさえ見える。顔面を狙う拳を半歩横に移動して避け、軸足を靴の先ですっと払う。男は飛び込みの格好で広場の石畳に鼻を打ち付けた。悲鳴が野次馬の失笑を誘う。

 「あ、大丈夫か」

 三島がつい声をかけると、男は緩んだ蛇口のように鼻血を滴らせて怒鳴った。

 「野郎、ぶっ殺してやる!リキ、ジン、やってまえ!」

 低い唸り声を立てて命令を待っていた二匹の犬は素早く反応し、激しく吠えながら跳び出した。魔犬に並ぶほどの体格のピットブルだ。ところが二匹はすぐに停止し、吠えるのをやめた。

 そこには泰然と立つ魔犬がいた。二匹の犬は視線が定まらなくなり、尻尾を下げて後退を始めた。

 「何やってんだ!そんなちんけな犬、咬み殺せ!」

 主人の声はもう届かない。目の前のただならぬものから顔を反らせ、卑屈な態度でその場をうろうろと歩き回るばかりだ。やがて魔犬は煩わしそうに鼻先に皺を寄せ、六つの目全てを開いた。

 突然一匹がキャーンと叫んだ。狂ったように逃げていく。もう一匹はばたりとひっくり返り、震えながら泡を吹いている。

 三島は魔犬の横に立ち、さりげなく左右を見た。六つの瞳に気付いた者はいないようだ。額の二対は既に閉じている。

 「おい、おまえ!」

 野次馬の中から小柄な老人が進み出た。

 「わしは今110番したぞ。おまえのやったことは正真正銘、恐喝と傷害だぞ。警察が来るまでそこで大人しゅうしとれ!」

 手に古い型の携帯を握った老人は混乱の表情で座り込んだままの男を一喝した。

 わっ、と小さい叫びが男の口から漏れた。無様に立ち上がった男は白い腹を上に痙攣している犬のリードを乱暴に引っ張った。

 「おい!リキ、行くぞ!」

 男と犬は鼻血と涎を点々と石畳に残し、よたよたと走り去った。

 「あの、何とお礼を申し上げればいいか…本当にありがとうございます」

 目に涙を溜めた母親が男児を抱いて深々と頭を下げた。石畳に涙が落ちる。

 「いいんですよ」

 姉弟の濡れた頬にはもう微笑みが戻っている。三島も微笑した。

 「兄さん、あんた偉い奴だな。体操の選手かい?」

 老人が言った。声を上げたときしゃんと伸びていた背筋は丸くなり、好々爺こうこうやの風情だ。

 「二十歳若かったらわしがやったがな」

 老人は破顔一笑し、片手を挙げて去って行った。

 「ワンちゃん、ワンちゃん」

 彼を見送っていた三島が振り向くと、少女がバスケットを手に魔犬の傍に立っている。

 「あっ、いけませんよ」

 制止しようとする母親に三島が言った。

 「大丈夫です。賢い犬ですから」

 少女はたじろぎもせず魔犬に近寄った。バスケットの中からシュークリームをつまみ、にこにこしながら魔犬に差し出した。

 「あげる」

 魔犬は少女をじっと見つめている。彼女は小さな手を捧げ続けた。魔犬は贈り物を静かに受け取った。

 「では、お気を付けて」

 三島は深く腰を折って二人を送る母親に一礼した。

 「ワンちゃん、バイバイ」

 少女が満面の笑顔で魔犬に手を振っている。だが魔犬は一目も見ずに前へ歩き出した。

 「時間がかかった。行くぞ」

 アランが独り言のように呟いた。素っ気ない態度に三島は冷たいなと思ったが、性分だろう。何せ冥界の番犬だ。

 「おまえ、さっきのはいつ覚えた」

 エドガーが尋ねた。跳躍のことか。三島は率直に答えた。

 「それが、分からないんだ。あんなことは生まれて初めてだよ」

 三島は身に起きている変化について話した。

 「少し前からだけど、何か変なんだ。軽いと言うか、まるで地面から撥ね飛ばされるみたいに身体が動くし、ものの動きが凄く良く見える」

 魔犬は三島の顔をちらと見たが、黙って歩いている。三島は続けた。

 「前はとても無理だったことができそうに思える。いや、むしろ考えるより先に行動しているんだ。なぜかな」

 魔犬は少し首を傾げ、答えた。

 「俺は生きている人間のことはあまり詳しくないが—」

 エドガーが言う。

 「多分、閣下が何かしたんだろう」

 驚きと同時に、やはりという確信が三島の心に起こった。

「殆どの人間は、生きている間に自分の能力を半分も使えないんだと冥王様に聞いたことがある。閣下がおまえにそれを少しばかり使えるようにしてやったんじゃないか」

 アランが割って入る。

 「おまえの話が本当だとすれば、その通りだろう。ただし、思い上がるんじゃないぞ」

 厳しい瞳が三島を見た。三島が無論、と言葉を返す前に、ポーが喋った。

 「能力が使えた人間は大体が善人だったから良かったが、悪人だと面倒だな。冥界にも何人か落ちてきたがな。俺達が追ってるのもそんな奴だ」

 三島は言葉をぐっと飲み込んだ。そのまま黙って歩く。西川の事務所ビルが見えてきた。

 「臭いな」

 「ああ、臭う」

 エドガーとアランが声を交わした。魔犬の歩みが止まる。

 「こっちへ来い」

 言って魔犬は車道へ跳び出た。広い車道を一瞬で駆け抜け、車が数台驚いてブレーキを踏んだ時には魔犬は既に反対側の歩道にいた。

 「無茶するなよ」

 慌てて信号を渡ってきた三島に窘められたのを意に介さず、アランが言った。

 「やはりそうだ。あの中から臭ってくる」

 彼の視線の先を見ると50メートルほど隔てた斜向かいに西川公正の事務所がある。三島は植え込みの影から建物を観察した。七、八階建ての立派なビルだ。警備員が立つ正面玄関の横には地下駐車場の出入り口がある。見ている間にも所属の弁護士か、スーツ姿の男女が何人も出入りしている。さて、どうすると尋ねようと魔犬を見ると渋い表情だ。

 「どうした」

 「悪人じゃない奴が多すぎる」

 アランが言った。

 「恐らく、香村以外は関係ない人間だ」

 まさかと思った三島だったがすぐに考えを改めた。今の西川公正の正体が香村だとすれば、正義を標榜する弁護士として世間を完璧に欺いているほどの男だ。所員達に気付かせぬまま入れ替わり、その権限を行使することなどたやすいだろう。

 「ここでしばらく様子を見るか」

 エドガーが言った。

 「考えがある。少し待ってくれ」

 三島は携帯を取り出すと、素早く西川公正法律事務所の電話番号を検索した。番号非通知に切り替えて発信する。

 「西川公正法律事務所でございます」

 女性が出た。

 「お世話になります。私、ユシマソフトウェア工業代表取締役のユシマと申します。西川公正先生はいらっしゃいますか」

 三島は適当にでっち上げた会社名と偽名を名乗った。

 「はあ、お世話になっております。あの、西川とは本日お約束がおありでしょうか」

 怪訝な口ぶりで女性が聞き返す。

 「突然のお電話で申し訳ありません。私どもはこの度社内に法務課を設けることになり、取引先のスーパーソニック電工さんのヤマダ常務様に御相談したところ、西川先生と懇意でいらっしゃるとのことで、話はしておくから西川先生に法務顧問をお願いしてはとアドバイスをいただきまして」

 三島は実在の大企業の名と、架空のヤマダという人名を挙げてすらすらと話した。会社勤めの経験がなくとも、この程度のことはすぐに思いついた。

 「あら、そうでしたか。失礼しました。ですが、申し訳ございません。西川は只今会議中でして。よろしければ終わり次第西川から御社に御連絡差し上げますが」

 「お手数をお掛けします。電話番号は…」

 出任せの番号を言い、三島は丁重に礼を述べて電話を切った。

 「いるらしいぞ」

 「おまえ、なかなかやるじゃないか」

 エドガーが愉快そうに言った。

 「もう間違いないだろう。待ち伏せるか?」

 そこで不意にアランがエドガーと入れ代わった。

 「おい、あれを見ろ」

 事務所の前に見覚えのある大型車が付けている。ダークグレーのベントレーだ。

 「あっ、あの車は…」

 三島はそのナンバープレートの記憶があった。77−77という特徴のある数字の並びが印象に残っていた。午前中にカジノで見たベントレー・コンチネンタルだ。

 「これは都合がいいかもしれんな」

 ポーが呟いた。警備員がベントレーを地下駐車場へ誘導している。アランが言った。

 「あいつは利用できるかもしれん」

 「と言うと?」

 三島が尋ねた。

 「香村の所に出入りしているなら、恐らく上の連中のことも知っている。うまく使えば李英傑に近付ける可能性がある。いきなり香村を捕まえるよりもあれを叩く方が簡単だ」

 悪人への仮借を持ち合わせない彼等が何を考えているか、すぐに想像できた。

 「今日はこれで引き揚げる。あいつは明日だ。居場所は分かっているんだからな」


 パンダに戻ると、アランが唐突に言った。

 「おい、家に帰る前に俺達の食い物を手に入れろ」

 おやと三島は思った。ケルベロスも流石に空腹に耐えられなくなったのだろうか。

 「何がいい」

 「さっき子供がよこした物、あれでいい」

 「え?シュークリーム?」

 「それだ」

 意外な希望に三島は耳を疑った。肉の塊でも要求するかと思ったからだ。ところが聞き返すまでもなくエドガーが弾んだ声で言った。

 「あれは美味かったな!」


 翌朝、三島と魔犬は遅めの朝食を済ませ、十時半頃出発した。前日、帰途で三島はケルベロスのために洋菓子店を三軒回りシュークリームを五十個買った。彼等は上機嫌な様子で昨夜それを半分食べ、残りを今朝の朝食にしたのだった。

 「おまえ達、甘い物が好きなんだな」

 「…」

 助手席で魔犬は黙ったままパーシー・フェイス・オーケストラのメロディーに耳を傾けている。三島の唇に微笑が浮かんだ。しかしそんな感情は一瞬で消え失せた。これから遭遇するかもしれない凶事がふと脳裏に現れ、暗雲が空を塗りつぶすように気を塞がせたのだった。

 車内に流れる音楽がアルバム一枚分終わる頃、ベラクルスに到着した。駐車場は昨日よりも混雑している。パンダが立体パーキングを上る。

 今日は土曜だが、目的の男はここにいると三島は踏んだ。こういった業種に従事する者は繁忙日の休祝日には休みを取らないのが普通だからだ。

 最上階に来てみると、やはりベントレーが昨日と同じ場所にある。三島は通路を挟んだ向かいにパンダを駐めた。時間は十一時を十五分ほど過ぎている。

 「ここで待とう。多分食事を取りに出てくると思う」

 三島の提案に応えて、アランが早速手筈を語った。

 「よし。出て来たら俺が奴を威嚇する。おまえはすぐ後ろに回って剣を突き付けろ。その間は一言も喋るな」

 「どんな奴か知ってるのか?」

 「ああ。大したものじゃない。脅せばすぐに大人しくなるだろう」

 脅し役は魔犬が引き受けるということだ。まあ僕がやるよりその方がいいと三島は思った。

 「ところで、一つ訊いていいか」

 三島は質問を切り出した。ずっと知りたかったが、訊くのをためらっていたことだ。

 「もし話せないことなら言わなくてもいいが、そもそも冥界から悪人の魂が逃げ出せたのはなぜだ。おまえ達がいたのに」

 魔犬は外を向いたまま少しの間沈黙していたが、三島を見て言った。

 「いいだろう。教えてやる。奴等が逃げられたのは、外から手引きした者がいるからだ」

 「手引き?誰が」

 「まだ分かっていない。逃げ道を用意したのは誰か、冥界に残った者達を調べ上げたが、誰一人知らんのだ。しかし、冥界と外の世界を出入りできるのは死閣下と冥王様の他は限られる」

 「それは」

 「天使と悪魔だ」

 三島は驚愕した。アランが話を続ける。

 「天使は時々冥界に下りて来る。償いを終え、神の赦しを求める者を引き揚げにだ。一方悪魔は、冥界に落ちてなお悔い改めない者どもを奴隷にするため誘惑に来る。だが悪魔も死閣下と冥王様は恐ろしい。閣下が人間の命を狩り集めにこの世界へ赴いた隙に、冥王様や俺の目を盗んで広い冥界のどこかに抜け道を作って現れるのだ」

 「そんな、それなら犯人は悪魔に決まってるじゃないか」

 息巻いて質す三島にアランはさらりと返した。

 「そんなことをして悪魔に何の得がある」

 三島は言葉に詰まった。確かにそうだ。契約も取り交わさない悪人の魂を現世に返してやって何の利益があろう。しかしそれでも、まさか天使がこんな事をするだろうか。

 「でも、天使は…」

 「あの方々の意図は俺の考えなど及ぶところではない。それに、誰の仕業かまだ分からんのだ」

 それ以上問えず三島は沈黙した。泳ぐ視線をともかくも時計に落とすと十一時三十分になろうとしていた。まだだなと思ったとき、耳障りな電子音が駐車場に響いた。音の方を見ると、ベントレーの脇の従業員通用口らしい扉から短躯で肥満気味の四十代半ばほどの男が出て来たところだ。キーをポケットに入れ、男は運転席のドアハンドルに指を掛けた。

 「行くぞ」

 三島と魔犬が飛び出た。男は驚き、ロックを解除したドアを開け慌てて乗り込もうとする。だがそれより速く、魔犬が屋根に飛び乗った。

 「ひゃっ」

 仁王立ちの魔犬に圧倒され、男は数歩後ずさった。すかさず三島は男の後ろを取り、右腕を掴んで背に回させた。短剣の鞘の先を男の腰に押し当てる。

 「な、何だおまえは。俺が誰だか分かってるのか?こんな事をして只では済まんぞ」

 男は動揺しつつも声を絞り出して強がった。想像していたよりずっと弱々しい男だ。三島は黙って男の右腕を捻り上げている。

 「やはりおまえか、酒向」

 男の肩が震えた。猪首を後ろや左右に振って声の主を探す。

 「口だけは達者なのは変わらんな」

 酒向と呼ばれた男が三島に倒れかかってきた。重い。三島が一歩下がると酒向はどすんとへたり込んだ。腰が抜けたのか投げ出した脚で床をかいて逃げようとする。三島は両腕を捕らえ、力を込めてその場に立たせた。

 「けちな詐欺師だったおまえが大物の御用を勤めるとは出世したな」

 六つの目を開いた魔犬の冷たい嘲りが頭上から浴びせられる。覗き込むと脂汗にまみれた酒向の顔は恐怖に歪んでいた。

 「米田をやったのはおまえ達だったのか」

 蚊の泣くような声で酒向が言った。

 「これは察しがいい。あいつは始末したが、おまえには特別な用があるんだ。付き合ってもらうぞ」

 「嫌だ、やめてくれ、放せ!」

 突然酒向が身体を左右に揺すって駄々っ子のような抵抗を始めた。三島は思わず掴んでいる右腕を捻った。そして苦悶する酒向を突き放し、ボンネットに倒れ込んだ顔面すれすれに輝く抜き身の刃を突き付ける。酒向はひいと呻いた。

 「ここは場所が悪い。おまえの仕事場で話そうじゃないか。行け」

 アランが天井の防犯カメラを横目に見て命令した。言う通り、駐車場で騒いでいては警備員が来るかもしれない。従業員用スペースなら人目に付かない場所があるだろう。三島は酒向の襟を引っ張り上げ、通用口へ顎で指図した。酒向はうなだれて歩き出す。三島は剣を鞘に収めた。飛び降りた魔犬が後ろに付く。

 「逃げたり騒いだりしたらこの男がおまえを始末する」

 酒向は死刑台に向かうようにのろのろと進む。膝が上がらないのか殆ど摺り足だ。

 酒向が通用口の鍵を開けると、扉の向こうは幅2メートル程の廊下だ。十数メートル先の突き当たりで左右に分かれている。中は意外に静かで、誰もいない。

 「空き部屋に案内しろ」

 三人が入った直後、突然廊下に面したドアの一つが開いた。

 「あら、常務さんまだお食事行ってらっしゃらないの」

 出て来たのは掃除係の中年女性だった。思わず両足を構えた三島はほっとして力を抜き、剣の柄で酒向の背を軽く押した。

 「あ、ああ、従弟が遊びに来たんで」

 「あらあ、大きなワンちゃん」

 「ああ、彼のペットのジョンだよ」

 女性はまあ、と笑って会釈し廊下の先に消えた。

 「その部屋は何だ」

 「トイレだ」

 「よし、そこに入れ」

 中に先客はいなかった。魔犬は酒向を奥の壁際へずいと追い詰めて言った。

 「香村の所に出入りしているな。ならその上の連中のことも知ってるだろう」

 「勘弁してくれ。知らん」

 「ふん、雑魚はやはり役に立たん。なら米田のように始末するだけだ」

 魔犬の視線を受けて、三島はわざと大仰に剣を振り上げた。

 「その剣はおまえを身体から切り離して冥界へ叩き落とす。米田は泣き叫びながら落ちて行ったぞ。おまえ達には永遠の責め苦が待っているからな」

 酒向は壁に張り付いたまま飛び上がった。カッターシャツはぐっしょりと濡れ、まっすぐ立てないほどに震えている。

 「見逃してくれ、頼む。俺はただ戦費を都合しているだけだ。組織を裏切ったら自殺させられてしまう。お願いだ」

 そんな掟で縛られているのかとあの組織が謎に包まれたままでいる訳を三島は理解した。

 突然、背後でドアが開いた。細身のスーツ姿の若い男が入ってきた。

 「あっ、桜田!助けてくれ!」

 酒向が叫んだ。その反響が消える前に、三島の顔を目がけパンチが飛んできた。速い。昨日の強請りとはまるで比較にならない。すんでのところでかわすと男の拳は手洗い台の鏡を粉々にした。

 「桜田、気を付けろ!こいつらは」

 言いかけた酒向がぎゃっと悲鳴を上げた。魔犬が左手に咬み付いている。

 「おまえ何だ?どこかに雇われたもんか?」

 桜田と呼ばれた男はそう言ってポケットから薄い革の手袋を取り出し、血が滲んだ手にはめた。三島は男のリーチを量って間合いを取り、剣を手にじりじり後退する。桜田は未知の武器を警戒しつつ二の矢を放つタイミングを窺っているようだ。

 「桜田、助けてくれ、早く!」

 左手から血を滴らせて酒向が悲痛な声を出した。桜田の視線が一瞬そちらに向いた。三島は見逃さず、フェンシングのように突く。桜田はのけぞってかわしながらもプロボクサー並みのストレートを二発反射的に放ってきたが、青い残光に目が眩んだ当てずっぽうなパンチは空を切った。

 そのとき三島は身をかがめて桜田の脇をすり抜けていた。立ち上がりざま刃を振り上げる。やったかと思った三島の剣もまた虚空を切った。桜田は後方へ飛び退いていた。桜田は酒向のスーツを掴んで壁から引き離そうとしたが、魔犬の牙が今度は桜田を狙う。苦い表情で桜田は手を放し、再び三島に迫る。

 思わぬ強敵に三島は焦った。この狭い空間では高まった身体能力も存分に発揮できない。強力なパンチを俊敏に繰り出してくる接近戦に慣れた相手が圧倒的に有利だ。どうすればと思ったとき、敵が構えた。

 咄嗟に三島は掃除用具入れの扉を自分の前に開け放った。ほぼ同時に、木が砕ける音がして拳が合板の扉を突き破った。驚いて三島は尻餅をつく。桜田は扉を蹴って拳を引き抜いた。

 「くたばれ、この野郎」

 怒りの形相の桜田は腰を落とし、恐るべき速さで三島の顔面へパンチを放った。

 だが三島の動体視力はそれを僅かに上回った。三島は剣を握りしめた両腕を必死に自分の前に伸ばした。

 光の刃が飛んできた拳に吸い込まれ、川の中の杭のように滑らかに腕を切り裂いていく。刀身が肘近くまで達し、拳が三島の鼻先に届こうかというところで桜田は目と口を大きく開いたまま横に倒れた。その向こうでは魔犬が桜田の背に跳びかかろうとしていた。三島は長い息を吐き、立ち上がって剣を収めた。

 「こうなりたいか?」

 魔犬が酒向に言った。酒向が凝視する先では、桜田の魂が靄となって肉体から離れていく最中だった。

 「助けて、何でもする、何でもするから助けてくれ」

 酒向はすすり泣き始めた。

 「李英傑の居場所を言え」

 単刀直入にアランは核心を尋ねた。三島はジャンパーの内ポケットから携帯を取り出してボイスレコーディング機能を起動した。

 「俺が総帥の居場所なんか知ってるわけない。本当だ」

 予想通りの答えだ。

 「ふん。なら香村より上の奴等はどうだ」

 「香村さんは大幹部だ。日本4ブロックのうち関東統括本部長だ。国内ではその上は総帥の日本担当補佐の山本総督だけだ。山本総督は日本総本部にいるはずだ。俺は香村さんの供で本部に行ったときに一度会ったきりだ。海外のことは知らん」

 香村がそれほどの地位と知り、驚きよりも三島はむしろ対決への期待を抱いた。これで李英傑にぐっと近づける。

 「それなら俺達をその総本部へ案内しろ」

 エドガーが平然と言った。

 「そんな無茶な。案内なんかしたら、おまえ達はともかく俺はその場で捕まってしまう。それに総本部は不定期に場所を変えるから今どこにあるかは知らん」

 「何でもすると言ったぞ」

 「許してくれ。本当に知らないんだ」

 「じゃあ関東統括本部はどこだ。米田は川崎だと言っていた。それはこの街だろう」

 酒向は苦しげに俯いた。

 「どこだ?」

 「それは…香村さんの、西川の自宅だ」

 自宅が本部だとは、では西川の家族は?三島はよもやの事態でないことを願った。

 「六本木がやられて、上の人達は敵対勢力が現れたのかと驚いた。組織は今犯人捜しで大騒ぎだ。それで香村さんは敵を見つけるまでの間、本部を一時的に自宅のペントハウスに移したんだ」

 「ペントハウス?屋上にか?」

 エドガーが意外そうに訊く。

 「そうだ。屋上に広い部屋があって、そこへは庭からも直接入れるようになってる。香村さんは西川の家族に、重要な案件を請け負ったので時間外もスタッフとそこで仕事をすると言ってるらしい」

 「組織の連中が集まるということだな。山本は来るか?」

 アランが鋭い目を向けた。

 「まさか。総督に用があるときはこちらから行くんだ。面会許可を取って」

 「やはり香村を押さえなきゃならんな」

 エドガーが言った。アランが尋ねる。

 「香村が乗っ取った奴の家族はいつも家にいるのか」

 「いや、そんなこともないが…」

 なぜか酒向は答えにくそうだ。

 「何だ?まだ隠し事か?」

 ポーがもてあそぶように言った。酒向はきゅっと身を縮め、せわしく喋った。

 「実は統括本部では月に一度会議がある。だが六本木の事があって今月は急遽二度やることになった。次は来週の火曜だ。関東の各支部長も集まる。香村さんはその日西川の家族は旅行にやると言ってた」

 「ほう、あつらえ向きだ」

 ポーはにっと口角を上げた。

 「その日に決まりだ。香村の家を教えろ」

 エドガーが詰め寄る。

 「勘弁してくれ。自殺させられる」

 酒向が懇願する。そこへ三島が出し抜けに口を開いた。

 「今までの会話は全て録音した。協力しないなら音声データを香村の事務所へ送る」

 三島は携帯のボイスレコーダーアプリを再生して掲げた。酒向の顔色が死人そっくりに変わる。流れる脂汗が溶け落ちていく蝋のようだ。

 「分かった、分かったからやめてくれ」

 泣き崩れる酒向にアランが言った。

 「その会議の前に香村の家を下見する。場所を言え。案内はいらん」

 突っ伏して泣いていた酒向が顔を上げた。

三島が携帯を向けて言い付ける。

 「香村の住所を正確に話すんだ。録音する。それから、免許証と携帯を出してくれ」

 「分かった。川崎市麻生区桃ヶ丘…」

 言い終えると酒向は携帯と免許証を取り出した。記載には〝竹田昇一〟とある。三島は携帯のカメラで撮影して免許を返した。

 「携帯は預かる。通話可能のままにしておくこと。それからもう一つ携帯を用意して、今日中にこの携帯に連絡しろ。今後の指示をする。いいね」

 「ああ。あんた達のことは誰にも言わない。信用してくれ」

 すがるように酒向は三島を見た。視線を外し三島は腕時計を見る。あと数分で十二時だ。はっとして魔犬に言う。

 「もう昼になる。人が来るぞ。行こう」

 魔犬は酒向に質した。

 「ここに冥界から逃げた奴は他にもいるか」

 「いない。俺と桜田だけだ」

 「おまえ達の役目は何だ」

 「戦費の調達だ。この男はカジノの日本法人で経理担当役員だった。本部がアメリカで目が届きにくいのを利用して経理操作で私腹を肥やしてた。それを俺が乗り移って組織に金を回してる。桜田は香村さんの指示で俺の用心棒をしてた」

 「もう一つ訊くことがある。おまえ達が冥界から逃げるのを手引きしたのは誰だ」

 「知らない。本当だ。俺達はただ李先生、総帥に従えば逃げられると聞いてその通りにしただけだ。だが、神に反逆した何者かが総帥を助けたという噂だ」

 ふんと鼻を鳴らし、アランが念を押す。

 「忘れるな。言う通りにしなければ冥王様の前に落としてやるぞ」

 酒向は無言で何度も頷いた。

 「アラン、早く」

 三島と魔犬はドアを開け、足早に駐車場へ向かった。後ろで数人の足音が聞こえる。振り返らずに通用口を出てパンダに乗り込むと、時計は十二時を一分過ぎていた。追ってくる者はいない。三島はパンダを発進させた。


 帰宅して三島は酒向から取り上げた携帯を調べた。三島と同じオリーブ社のスマートフォンだ。

 三島はこの中に酒向と彼が乗り移っている男の様々な情報があるに違いないと見ていた。彼等は中身が別人になったことを周囲に気付かれぬよう、乗り移った人物について充分に把握しておく必要がある。携帯は情報の暗記帳にしているはずだ。

 メモやノートのアプリを起動していくと、やはりあった。竹田昇一の履歴と、家族全員の情報が事細かに記してある。更に、スケジュールに会議の予定、電話帳には西川邸と香村の携帯の番号も見つかった。

 「凄いぞ。これは情報の倉庫だ」

 ソファーに寝そべっている魔犬に三島は興奮気味に声をかけた。

 「今の人間はそういう物に覚え書きを入れておくのか」

 エドガーが興味深そうに言った。

 「人間はすぐ忘れるからな」

 ポーが言い、無関心に顔を背けた。そのときぱっと画面が変わり、呼び出し音が鳴り出した。

 「もしもし」

 「あっ、俺だ、酒向だ」

 三島は魔犬に合図した。

 「すまん、遅くなった」

 「今どこにいる」

 「車の中だ。カジノの駐車場にいる。あんたにやられた桜田が救急車で搬送されたのに同行して今戻ってきた。誰かに聞かれないよう車内だ」

 「分かった。そのままちょっと待て」

 三島は携帯を置き、魔犬に尋ねる。

 「どうする」

 「まずは明日の夜俺達とおまえとで香村の家を調べる。建物の具合を見て踏み込む段取りを考える。酒向にはそのときの手引きをさせる」

 「よし、じゃ会議まで香村に気付かれないように普段通りにさせよう。あの用心棒のことも伏せさせておこう」

 「うむ」

 三島は携帯を取り、酒向に当座の指示をした。会議前日の月曜に次の指示をすると伝えた後、万一従わない場合は覚悟しろと付け加えておく。酒向は怯えた声で同意した。

 三島は携帯を置くと、魔犬に尋ねた。

 「あの酒向って男は何をしたんだ」

 「詐欺師だ」

 エドガーが答えた。

 「それがどうかしたか」

 「いや、あんな奴だったのが意外で…子供のように泣いてばかりいるのを見て、それほど悪人なのかと」

 とつとつと三島は話した。そこへアランが割って入った。

 「あの男はな、助けを装って弱い者から奪っていた奴だぞ。報いを受けるべき悪人に情けなど掛けるな」

 三島は二の句が継げなかった。しかしながらアランの思慮もまた充分に理解できた。ためらいが光の剣の切っ先を鈍らせることがあってはならない。今やこの自分の微力にあまたの人々の運命が課されているのだから。

 「分かってるさ」

 机の上の静かな剣を見つめて、三島は応えた。

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