第5話


 自宅マンションの駐車場を出て五分と行かぬうちに三島のフィアット・パンダは渋滞に捕まった。朝の八時半だというのに幹線道路は通勤のマイカーとそれに混じるトラックや営業車両で混雑している。始業時間には間に合うだろうが、三島は憂鬱な気分になった。

 助手席の魔犬は無言だ。昨夜の怒りが尾を引いているのか、今朝は中央の頭の声をまだ聞いていない。のろのろ進む渋滞の中での静寂は時間の進みを遅く重苦しくさせる。音楽でも流したいが、どうも気後れがする。逡巡していると携帯が鳴った。これ幸いとパンダを路肩に寄せ、電話に出る。

 「もしもし、おはよう!」

 真理だ。元気な声が心持ちをさっと明るくした。

 「零時さん、いいかしら。会わせたい人がいるの。今日、お仕事帰りに本部庁舎に来られる?」

 魔犬の視線を気にしつつ、三島は話に応じた。

 「会わせたい人?」

 「アメリカのカトリック教会の推薦で派遣された神学者よ。UNFALLSを宗教の側からも分析するために力を貸してもらうことになったの」

 一旦明るくなった気持ちがまた落ち込んだ。三島は先の浜名湖畔での事件をひどく気にしていた。真理と志郎の期待に応えられなかったことが遺憾だった。その後に起こった思いもかけぬ出来事によってUNFALLSと呼ばれる組織の正体を知った今も、それを語ることができないために何となく二人に対しての面目なさが消えぬままでいた。しかも、新たな研究者をわざわざ米国から呼び寄せることになってしまったのかと思うと声は沈んだ。

 「そう…」

 「あら、もしかしてこの前のこと気にしてる?違うわよ、それとは全然別」

 察しの良い真理は三島の心情をあっさりと見抜いて否定した。

 「この人は元々零時さんとは違う分野から助言をもらうために探してたのよ。テロ組織の成り立ちって宗教的な思想が影響してることがあるじゃない。だからそっちの方面から協力してもらうことになったの。ハーバードの神学大学院卒で京大にも二年留学してたんですって。日本語ペラペラよ。まだ若いのに向こうからぜひって推薦されたの。会いたいでしょ」

 興味が湧いた三島は応えた。

 「それは一度会ってみたいな」

 優秀な神学者がどんな意見や考察を述べようと三島には無意味だが、両親がキリスト教と少なからぬ関わりを持っていたことでその分野の専門家への関心はあった。だが今の自分にはのっぴきならない事情がある。返答の前に断りを入れねばならなかった。

 「あ、真理ちゃん、ちょっと待って」

 三島は携帯のマイクを押さえ、魔犬に声をかけた。

 「今日の仕事帰りなんだが」

 「聞いていた」

 中央の頭の声だ。やりとりが聞こえていたらしい。

 「知り合いか」

 「幼馴染みなんだ。警察官で、仕事でも協力してる」

 「いいだろう。行くと言え。断って詮索されても面倒だ」

 今日は〝狩り〟に出かけずに済むのだと気が楽になった三島はすぐさま真理に返事をした。声が弾む。

「行くよ、真理ちゃん」

 「誰かいるの?」

 気配を感じ取ったのか真理に訊かれ、慌てて答える。

 「いや、車を移動したんだ」

 「運転しながら電話はだめよ」

 「分かってるよ。六時頃になると思うけどいいかな」

 「ええ。その人、クーンさんっていうんだけど、五時に打ち合わせに来る予定だから零時さんのこと話しておくわ。じゃ、待ってるから」

 どんな人だろう。アメリカを代表して派遣された日本をよく知るらしい若い神学者とは。興味が高まった。それに、昨夜の出来事で未だざわめきが落ち着かぬ心を癒やすだろう真理との対面が待ち遠しい。三島はついカーオーディオのボタンを押した。今ではスタンダードになったフランス映画のテーマが流れる。魔犬はほんの僅か面食らったような表情をしたが、不愉快そうでもなく目を閉じて黙っている。三島は安心してパンダを発進させた。


 研究室で出前の蕎麦を受け取り、三島はテレビのスイッチを押した。仕事の後にもう一つの任務を得た今は、終業時間後できるだけ早く退所するため、昼休み中も外出を避けて食後すぐに仕事を続けることにしたのだ。

 テレビは正午のニュース放送を始めた。

 『昨夜午後十時頃、港区六本木付近で爆発がありました。近隣住民の爆発音がしたとの通報で警察が調べたところ、雑居ビル一階の倉庫兼事務所で小規模な爆発が起きたと見られ—』

 三島は箸を持つ手を止めてトップのニュースを注視した。通報は三島自身によるものだ。あの場を離れた後、公衆電話から近隣の住民を装って警察に知らせたのだった。

 『事務所内では十数名の男性が意識不明の状態で発見され、救急搬送されました。何名かは骨折などの重傷ですが、全員命に別状はない模様です。また、内部には多数の拳銃や刃物が散乱していたということです。現場は六本木の繁華街近くで、ここ数年は治安の悪化が問題となっている地域です。今回の爆発は、現場の状況から反社会勢力組織同士の抗争事件の可能性もあると警察は見ており、男性達の回復を待って調べを進めることに—』

 「どうせ何も聞き出せやしないがな」

 魔犬が言った。右の頭の声だ。声の主は続けて三島に尋ねた。

 「おまえの名前はレイジだったな」

 「そうだよ」

 「憤怒RAGEとは変わった名だな。似合ってないぞ」

 思いの外気さくな口調だ。

 「違うよ。一日の始まりの、午前零時の零時だ。日々新たにという意味で父が付けたんだ」

 「コリント人への手紙か」

 聖書から引いた自分の名の出所をすぐに言い当てた魔犬の知識に三島は驚いた。

 「凄いな。なぜそんなことを知ってるんだ」

 魔犬はどうと言うことはないとばかりに答えた。

 「俺はおまえ達よりずっと長く生きてると言ったろう。天界から人間の世界まであらゆる事を冥王様に教えられてきた」

 「人間の言葉も?」

 「人間の言葉など簡単だ」

 そう言って魔犬は三つの声で三種の言語を話した。右の声はイタリア語、中央はドイツ語、左はやや不明瞭だがロシア語か。どれも悪人への呪いの言葉のようだ。

 少し間を置いて魔犬が言った。

 「おまえの父親はキリスト教徒だったのか」

 「信仰は持っていなかったが、宗教学者として尊重はしていた。母は敬虔な信徒だった」

 「そうか。それでその名を」

 「それだけじゃないんだ。中国の聖人の言葉でもある」

 零時という名は、新約聖書のコリント人への第二の手紙にある『内なる人は日々新たに』と、古代中国の聖人とされるいん湯王とうおうの『日々に新た、また日に新たならん』という二つの言葉を込めて父が名付けた。共に毎日を新しい精神で生きよという意味である。

 「おまえの両親はいい人間だったんだな」

 魔犬は三島を見つめた。何となく照れ臭く感じた三島は魔犬に話を向けた。

 「ところで、おまえ達の名前は何ていうんだ」

 六つの目を開けて魔犬が妙な表情をした。

 「ケルベロスだ」

 「いや、おまえ達三つの個性にはそれぞれ違った名前はないのかい」

 魔犬はしばらく黙っていたが、右の声が答えた。

 「気にしたこともないな。冥王様にはずっとケルベロスと呼ばれている」

 「どうかな、もし良ければだけど…おまえ達と話すときに分かりやすいように、別々の呼び名を付けさせてくれないか」

 「呼び名だと?」

 思いもかけぬといった様子で魔犬は聞き返した。

 「どんな呼び名だ」

 魔犬が提案に関心を示したので、三島は身を乗り出した。

 「そうだな、右のおまえから順にエドガー、アラン、ポーというのはどうかな」

 「それは何だ」

 「アメリカの作家の名前だよ。恐怖小説の古典を幾つも書いた大家だ」

 「冥界にそんな名の人間はいないな。悪人ではないのか」

 「もちろん。今も愛されてる文豪だ」

 魔犬は少しの間思案顔だったが、三つの声が返答した。

 「いいじゃないか。気に入った」

 「まあ、いいだろう」

 「ふむ」

 三島は微笑を浮かべた。魔犬との距離が少し近付いた気がした。また、ケルベロスがこれまで見てきただろう悪人達とは一線を画す人間として自分を扱ってくれていることが嬉しかった。

 「ありがとう。よろしくエドガー、アラン、ポー」

 魔犬はまた妙な表情になり、まじまじと三島を見た。

 「変わった奴だぜ」


 朝とは異なり、夕方の交通の流れは順調だった。研究所から警視庁本部庁舎はさほど遠くないが、渋滞を予想した三島は早めに退所していた。ところがこのペースなら真理に言った六時までに十分以上余して到着するだろう。パンダは軽快に走っている。

 車内にはパッヘルベルの〝カノン〟が流れ、背もたれを倒した助手席で魔犬が目を閉じ悠然と寝そべっている。音楽は彼等が要求した。カーオーディオに収めたライブラリーからいくつか聴かせると、魔犬はロックは拒否し、ジャズはつまらないと言い、クラシックとイージーリスニングに興味を示した。美しい音楽は彼等の耳にも心地良いようだ。

 庁舎が見えてきた。信号待ちの間に三島は緩めたネクタイを直し、音量を少し絞った。正門には警棒を持った立ち番の若い警官がいた。三島はごくゆっくりとパンダを前に着け、運転席のガラスを下げた。警官は近寄って居丈高に三島を見据えた。

 「どちら様ですか。業者さん?」

 パンダのワゴン風の外観からそう思ったのだろう。三島は愛想笑いして丁寧に答えた。

 「世界歴史研究所の三島と申します。美園警部とのお約束で参りました」

 聞くなり警官は号令を受けたように背筋を伸ばし、語調を変えて返答した。

 「失礼しました!伺っております、どうぞ」

 警官は可動式の車止めを外し、パンダを敷地内の駐車スペースに誘導した。車が停止すると今度は警官が愛想笑いを浮かべながら、申し訳なさそうに告げた。

 「あの、すみませんがワンちゃんは車の中で待たせていただくように」

 「承知しました」

 警官は戻って行き、三島は魔犬に言った。

 「すまないがここで待っててくれ」

 「ああ」

 魔犬は目を閉じたまま憮然と応えた。

 庁舎に入るとすぐに訪問者や見学者を応対する受付がある。三島は女性警官に真理との約束を伝えた。内線電話で連絡を受けて程なく、真理がエレベーターで降りてきた。

 「ごめんなさいね、零時さん。急に呼び出しちゃって」

 笑顔で三島を迎える真理の後ろを付いてくる者がいる。長身の外国人男性だ。

 「こちら、アメリカのカトリック教会の推薦で協力していただくことになった、クーンさん。神学者で司祭でもいらっしゃるの」

 現れた男はにこやかに手を差し出した。

 「こんにちは。初めまして、三島さん。タイラス・M・クーンです」

 日本人と全く変わるところのない流暢な挨拶に三島は感心して男の手を握った。

 「初めまして。日本語がとてもお達者ですね」

 「クーンさんはね、京大の総合人間学部に二年間留学してらしたんですって。日本語お上手でしょ。それにハンサムよねえ」

 真理の言う通り、クーンは希に見る美男だ。死の騎士の冷たく精緻な美しさとは異なり、その容貌はどこからか艶めかしさが滲み出ている。更に、金色に輝いて緩く波打つ長髪を上等な仕立てのスーツの背に束ねた姿はまた、神学者で聖職者という肩書きに似合わぬ優雅さを具えている。

 「Oh、yeah〜!京都で修行したんどす」

 三島と真理にどっと哄笑が湧いた。クーンのおどけた態度は三島の緊張を解いた。三人は旧知の友人のようにしばらく日本とアメリカの文化などの話に興じた。

 「ところで零時さん、来週木曜日の午後一時からクーンさんをお迎えして早速UNFALLSの分析と対策についての会議が本部であるの。出てくれるわよね」

 真理が言った。表情は和やかだが眼差しは警察官の職務に戻っている。

 「ああ、出られると思う」

 無駄だと分かっていても表面上協力はしなくてはならない。それに三島はクーンがあの組織についてどんな見解を持っているのか聞いてみたかった。

 「よかった。クーンさんも零時さんの意見が聞きたかったんですって」

 えっ、と三島は思った。アメリカから来たばかりの神学者がなぜ海外では無名に等しい、しかも畑違いの研究者の考えに興味など持つのか。三島はクーンの意図を計りかねた。

 「日本で最高の若手研究者の一人、そして希望である三島さんのお考えをぜひ伺いたいと思っています」

 クーンは柔らかな物腰で言った。買いかぶり過ぎだと思ったが悪い気はしない。疑問は彼との交流の中で答えが明らかになるだろうととりあえず留め置くことにした。

 「それじゃ、ごめんなさい、零時さん。私これから別の仕事なの。そこまでお見送りするわ」

 警視庁UNFALLS対策班の仕事はやはり慌ただしいようだ。だが激務をてきぱきと笑顔で切り回す姿は痛快で、三島は真理を見るたび憂いを忘れる。

 「では、私もこれにて」

 帰る頃合いだったのか、クーンが同調した。三人は外へ出て、三島のパンダの前で足を止めた。

 「あら、ワンちゃん。どうしたの」

 真理が助手席のケルベロスを見て言った。

 「学会の友達がしばらく外国へ調査に出ることになって預かったんだ」

 お互いの家庭をよく知る真理には友人の犬だということにした。

 「凄ーい。ドーベルマンね。大人しくていい子だわ」

 真理は幼児に向けるような笑顔を窓ガラスに近づけた。魔犬は二つの目を薄く開けて真理を見た。

 「ほう、立派な犬ですね」

 真理の肩越しにクーンが車内を覗いた。すると、まどろみの余韻に浸りけだるそうに蹲っていた魔犬が飛び起きた。はっきりと開いた目の光がクーンの微笑を湛えた瞳を射している。

 「おやおや、びっくりさせてしまったかな」

 クーンは肩をすくめて後退した。魔犬は吠えも唸りもせず、ただ彼を凝視している。

 三島は動揺した。ケルベロスのこの反応は何を意味するのか。

 「この子、女の子でしょ。クーンさんがあんまり美形だから興奮しちゃったのよね」

 「はははは。いや、きっとBOYですよ」

 真理の軽口に明朗に笑って応えるクーンを見て、三島は安堵の言葉を漏らしたくなった。

 『まさかな。こんないい人が』

 「それでは、美園さん、三島さん」

 クーンは日本式に丁重なお辞儀をし、暇乞いをした。

 「御足労ありがとうございました。今後とも御協力よろしくお願いします」

 礼を述べる真理と握手を交わすと、クーンは三島の掌を求めた。

 「またお会いしましょう、三島さん」

 クーンの手を握った後、それは僅か一二秒のはずだが、どうしてか三島には時が静止していたようにその間の記憶が残らなかった。気が付くとクーンは出会ったときからずっと絶やさない端麗な笑顔を三島に向けていた。

 「あっ、失礼。またお目にかかります」

 歩き去って行くクーンの後ろ姿を二人で見送り、パンダに乗り込もうとする三島に真理が念を押した。

 「木曜日よ。また電話するから、予定しておいてね」

 振り向いた三島は自然に笑顔になる。

 「うん、分かったよ」

 車止めを外して待っていてくれた門番の警官に軽く会釈をし、後ろで手を振る真理に運転席の窓から腕を出して応えた。パンダは軽い排気音を残し通りに滑り出た。

 「さっきの男は誰だ」

 庁舎から出た途端魔犬が訊いた。中央の頭、アランの声だ。やはり何か—ぎくりとして三島は答えた。

 「彼に気になることでもあるのか。神学者で司祭のクーンという人だけど」

 「司祭だと?」

 魔犬が驚きの表情になった。三島は慌てて車を路肩に寄せ、後席に置いた鞄を掴んだ。書類と本の下に隠した短剣を急いで取り出す。庁舎を出て100メートルも走っていない。信じたくないが、不安が的中すれば剣はまだ光を帯びているはずだ。三島は鞘を払った。

 二人が視線を集中させる刀身は、その力を鈍い鉄色の奥に隠したままであった。三島は溜めていた息を吐き出し、剣を鞄に戻した。魔犬は沈黙している。

 「彼がどうかしたのか」

 「あの男には匂いがない」

 「匂い?」

 「生きている人間にも魂から出る匂いがある。おまえ達には感じない匂いがな。だがあの男にはそれが全くない」

 「匂いがないって、でも彼は悪人ではないだろう?剣が反応しなかったじゃないか」

 「良い人間、悪い人間、どんな人間にも匂いはある。それで俺は大体判別できる。だがあの男は何者か分からない」

 「彼は警察の要請でカトリック教会から推薦されて日本へ来たんだぞ。少なくとも悪人のはずはないだろう」

 「本当にそうか?」

 三島は黙り込んだ。するとつい先刻、クーンと握手を交わしたときの違和感、記憶のある一瞬が消去されたような薄気味悪さが蘇った。あのとき何が—記憶の仄かな残像を辿る三島の脳裏に突然二つの目が浮かんだ。冷徹に胸の奥を抉る容赦のない視線を放つ。

 『クーンさんの目は笑っていなかった』

 三島は不安が冷たい結晶となって身体の内側に広がっていくのを感じた。

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