第4話

唐突に三島は目覚めた。しかし眠りの名残が周囲を虚構のようにぼやかして場所も時間も不覚の心理状態に囚われた。焦燥が胸の奥に拡がり始めたとき、聞き慣れたアラームの耳障りな音が意識の曇りを吹き飛ばした。手を伸ばしていつもと同じ時間を表示する目覚まし時計を止め、三島はひとまず安心した。僕の家だ。これまでと変わらぬ一日が始まるのだ。立ち上がりかけた三島だったがふと思いとどまり、ベッドに腰掛けて昨日の出来事を呼び起こしてみた。手繰り寄せるまでもなく記憶は素早く鮮明に頭の中に再生された。けれども三島はそれを苦い笑いで否定した。

 「まさか、夢だろ?」

 だが寝室を出た三島の頬から自嘲気味の微笑がまだ消えぬ内に、待ち受けていた酷薄な現実に迎えられた。再び深い悪夢に落ちたと言うべきかもしれない。

 「起きたか」

 狭いリビングルームのソファーに寝そべっていた大きな犬が人間の言葉で三島に声をかけた。落ち着いた調子の奥に凄味を孕んだ声色だ。縦に並んだ三対の目で見つめられ三島は立ち竦んだ。

 「変な夢でも見たか?」

 魔犬の声と表情がまるで異なった気性に入れ替わり、迫力ある野太い声がからかう調子で言った。ああ、と三島は落胆した。否定すべくもない現実にうなだれた三島だが、すぐに昨夜の決意を思い起こした。

『覚悟を決めたじゃないか。今更逃げられないぞ』

 下を向いたまま深く息を吸い、平静を装った返事をする。

 「おはよう」

 「おまえ、仕事に行くんだろう」

 声が元に返った魔犬が尋ねた。

 「行くよ」

 「俺も一緒に行くからな」

 しかし、と言いかけたが三島は言葉を飲み込んだ。魔犬は監視役でもあると言った。だめだと言っても付いてくるだろう。職場への言い訳を考えた方が得策だ。

 「分かった」

 素直な返答を予想していなかったのか魔犬は少しの間三島の表情を見ていたが、続けて指図した。

 「支度をしろ。閣下から預かった剣を忘れるな」

 「ちょっと待ってくれ。朝食を食べるから」

 煩わしそうに魔犬は横を向いた。一応尋ねてみる。

 「おまえは食べないのか」

 「いらん」

 魔犬は顔を背けたまま素っ気ない返答をした。しかし別の声が後に続いた。さっきのからかい声だ。また入れ替わったようだ。

 「俺達はしばらく食べなくても平気だ。人間は面倒だな」

 コーヒーとトースト、目玉焼きという軽い朝食を急いで済ませ身支度を調える間、魔犬の視線を気にしながら三島は短剣の在処をそこかしこに目で探した。居間のサイドボードの上に古びたペーパーナイフのようなものを見つけ、これだったかと手に取ると騎士から渡されたときとは印象が違う。訝しんで鞘から抜くとやはりただのくろがねの模造刀だ。あの青い光のやいばは見る影もない。

 「その剣は必要なときでないと使えん」

 背後で魔犬が言った。

 「戦うときということか」

 「取り憑かれている人間が近くにいれば元に戻る。そのときどうするかは俺が判断してやる。蚤をつぶすように雑魚を一々相手にするより上の奴等を捜す方がいい」

 「操られている人間は普通の人達の中に紛れ込んでいるのか」

 「そういうのもいるだろうが、殆どはどこかに固まっているはずだ。悪人は群れたがるからな。あの連中はこの世界で組織とやらを作ったんだろう」

 「でも、その場所をどうやって探すんだ」

 「大体見当は付く。それに俺は乗っ取られている人間が分かる。悪い魂には独特の臭いがある。取り憑かれていれば必ず臭う。人間には分からんだろうがな」

 魔犬は六つの目で三島を見据え、続けた。

 「おまえは狩人の役目を負ったんだ。奴等が現れるのを待つんじゃない。追い詰めて狩るんだ。心構えをしておけ」

 三島は緊張して息を呑んだ。幸いにも今はみすぼらしい外観のままの短剣を早鐘を打つ胸の内ポケットに隠し、三島は頷いた。

 「行こう」


 愛用のフィアット・パンダを駐車場に置き、三島が魔犬と共に研究所の正面出入り口へ歩いて来てみると門の外にパトカーが一台停まっていた。魔犬が男達を投げ飛ばした辺りだ。三島と魔犬はちらと目を見合わせた。言葉を交わすまでもなく何事かを承知した両者は中へ入った。

 職場へ魔犬を伴うことへの了解は三島があれこれ考えたよりあっけないほどあっさりと得られた。少数民族研究の権威で文化勲章受章者の所長は高齢のため勤務は週に一日だけだ。事実上研究所を取り仕切るのは三島の上司で副所長の教授である。彼は自室にペットの柴犬の写真を飾る愛犬家だ。長期の海外旅行に出た親戚から預かった犬で、マンションに残しておくと騒いで他の住人に迷惑を掛けるので連れて来たいという三島の要望を疑うことなく了承し、いい犬だねえとケルベロスを散々撫で回したのだった。また幸いにも研究所の11名の職員は殆どが動物好きだった。魔犬はやって来たこの日からまるで以前からそこにいたように受け入れられた。

 「あの男にあまりべたべた触ると噛み付くと言っておけ」

 昨夜のことで中断していた書類の作成を終えて一息ついた三島に魔犬が言った。口吻に皺を寄せて歯を剥き出し、憤懣やる方なしという表情だ。いじり回されたのは誇り高い冥界の番犬の癇に随分障ったようだ。教授だけでなく、今日一日三島の研究室には見物人が入れ替わり立ち替わり訪れて背をさすったり話しかけたりしたが、魔犬は悠揚とした態度を崩さず、唸り声一つ立てなかった。そんな振る舞いに三島は感心していたのだが、実は耐えていたのだと知ると妙に愉快だった。

 「気を付けるように言うよ」

 三島が笑みを浮かべて応えると、魔犬はふんと鼻先を背けた。

 「おまえ」

 魔犬が向き直り、改めて三島に声をかけた。

 「仕事は終わったのか」

 声は物静かな落ち着きを取り戻していたが、三島はその奥に何かを促すような圧力を感じ、壁の時計を見た。あと10分ほどで午後七時だ。既に殆どの者は帰宅し、自分達の他は教授が残っているだけだろう。

 「ああ、今日はこれで」

 「では行くか」

 何気ない物言いだが、三島は意味を理解した。書類を引き出しに入れ無言で席を立ち、あの短剣が入った鞄と上着を手に取った。部屋を出ると魔犬はよく飼い慣らされた犬のように三島の左側に付いた。二部屋隔てた教授の研究室の前で三島はドアをノックして開け、帰りの挨拶をした。教授は難しい顔でパソコンに向かっていたが、ケルベロスに微笑んで手を振った。

 駐車場では研究員の松本が同僚と立ち話をしていた。三島はお先にと簡単な挨拶をして車に乗り込もうとしたが、呼び止められた。

 「三島先生、聞きましたか。今朝門の外に倒れてて保護された男三人って指名手配犯だったそうですよ。窃盗と傷害の常習犯ですって、怖いですよね。でも何でこんな所に倒れてたんでしょう」

 松本は興奮した口調でまくし立てた。魔犬は素知らぬ顔をしている。

 「へえ、そうなんだ。物騒だね」

 三島は適当に相槌を打った。

 「あれ、三島先生夕方のニュース見てないですか。通りかかった人が見つけて通報したらなんと全員お尋ね者で、すぐに逮捕されたらしいんですけど、三人とも記憶が全然ないと言ってるんだとか」

 「へえ…それは不思議だね」

 職場の軒先で起きた事件なのに、鈍い三島の反応に松本はやや訝しげな表情になった。まずい返事だったかと三島が思ったとき、魔犬が一声吠えた。

 「ああ、腹が減ったんだな。それじゃ」

 三島はそそくさと場を離れた。フィアット・パンダのドアを開け、魔犬が助手席に飛び乗ると自分は運転席に乗り込んだ。

 「おまえ、分かってるだろうが—」

 「大丈夫、何も言わないよ」

 魔犬にみなまで言わせず、三島は問いを返した。

 「それで、これからどうする」

 「この街の悪人が集まる場所へ向かえ」

 「知らないよそんな所」

 「盛り場ならそういう連中がいるはずだ。とにかく行ってみろ」

 飲酒をしない三島には歓楽街は縁遠い場所だ。少し考えた後、研究所のある文京区に隣接する新宿区から渋谷、港区と車を走らせてみることにした。どこで停めるかはケルベロスが決めてくれるだろう。

 敷地から車道へ出ると三島はラジオのスイッチを入れた。魔犬は助手席で黙ったまま外を見ている。沈黙で緊張が高まるのを三島は避けたかった。ラジオは午後七時のニュースを放送していた。政治の話題の後、アナウンサーは今朝の指名手配犯三人逮捕について話し始めた。

 『—今朝未明、文京区本郷の国立世界歴史研究所前の路上に倒れていたところを通行人に発見され、警察に保護された上で窃盗と傷害容疑の指名手配犯と判明して逮捕された三人の男はいずれも最近数ヶ月間の記憶が全くないと話しており、保護された場所についてもなぜそこにいたか分からないと供述している模様です。警察では三人が通称UNFALLSと呼ばれるテロ組織の関係者かどうかについても引き続き取り調べているところで—』

 「覚えちゃいないと言ったろう」

 街の様子を眺めていた魔犬が三島に顔を向けた。怪物と会話しているという感覚はとうに持っていなかった三島だが、彼等の言葉の正確さに信頼に似た感情が積み増された。だが、なぜケルベロスはこうも冷静沈着でいられるのだろう。それに人間の世界をこれほど知っているのは意外だ。三島は尋ねた。

 「なあ、どうして人間の世界のことを知ってるんだ。前にも来たことがあるのか」

 魔犬は僅かの間を置いて答えた。

 「来たことはない。だがよく知っている。大昔から現在までな。俺はおまえ達人間よりずっと長く生きてる。冥王様や冥界に落とされた者の何人かからこの世界がどうなっているかを聞いてきた」

 「冥王?冥界の王ハデスか?」

 「そうだ。我が主ハデス様だ。冥王様は人間がエデンを追放されたときから人間のことをよく御存知だ」

 「では死の騎士は?おまえの主人じゃないのか」

 「死閣下はハデス様の主だ。俺にとっては主人の主人ということになる」

 「冥界は悪い人間が落ちる所だろう。悪魔がいるんじゃないのか?死の騎士と悪魔はどんな関係なんだ」

 ケルベロスの語る驚きの事実の数々に刺激され、三島は矢継ぎ早に質問を重ねた。すると魔犬は呆れ気味に一気に言い放った。

 「何を言っているんだ。冥界は地獄とは違うぞ。冥界は神が冥王様に支配の権限を与えられた裁きと償いの場だ。地獄帝国は悪魔が支配する国だ。落ちるのは悪魔と契約し神に背いた人間だ。冥界に悪魔などいない。死閣下は人間が原罪により死を定められたとき、神から直にその命を狩る役目を仰せ付けられた方だ。閣下の主はただ神のみで他の何者も閣下に指図することはできん。並の悪魔などは及びも付かぬわ」

 推察していたとは言え、死の騎士とは斯様かようなまでの存在と知り、三島は改めて心胆が凍りつく思いがした。何というものに見込まれたのか。空恐ろしさが総身に渡るのを感じる。だが一方でそれは奇妙な心強さとなり、勇気が胸に湧いてくるのが不思議だった。

 車は新宿の繁華街に達していた。魔犬は外を見続けている。

 「この街はどうだ。何かありそうかい」

 「感じないな。次の場所へ行け」

 魔犬は時折何かを探す犬のように鼻をひくつかせている。悪人の魂の臭いを感じ取ろうとしているのか。三島は車を走らせ続けた。若葉を思わせる緑という南欧の小型車らしいボディカラーのフィアット・パンダが新宿を抜け、渋谷を通り過ぎ、六本木に差しかかった頃、魔犬が鋭い声で言った。

 「臭うぞ。だが、まだだ。このまま進め」

 車は六本木の繁華街中心部に入った。この辺りは二十年ほど前から急激に都市の性格が変化した。それまでのビジネスとファッションの街という東京を代表するにふさわしい場所が、不況による一般企業の撤退や古くからの住民が離れたことで、入れ替わって進出した風俗営業店舗や反社会勢力関係者達の影響によって今では観光客が安心して立ち入ることが難しい地域と成り果てていた。

 「もう少しだ。街の外れに出たら停めろ」

 魔犬は窓から街並みを睨んでいる。三島は車をゆっくりと走らせていたが、それは魔犬の指示を待つ以外の理由があった。歓楽街の中心部を抜ける道は片側二車線ではあるが、路肩には店舗関係者や客のものと思しい車がびっしりと並んでいる。その殆どは大型高級車だが、風変わりな改造を施されたものが少なくなく、悪趣味を競うようにこれ見よがしに違法駐車されていた。そして見張り番をさせられているのだろうか、一目で安物と判るくたびれたスーツを着た若者達が所在なげに車の周囲の歩道や車道上にたむろしている。彼等は横を通って行く場所柄に似合わない小型車を物珍しそうに眺めていた。

 「ひどいなこの辺は。まともに走れないよ」

 三島は車道に座り込んで煙草を吸っていたり談笑していたりする者達を慎重に避けながら愚痴をこぼした。

 「停めろ」

 魔犬が言った。そこはキャバクラやピンクサロンなどの店舗が密集した場所を数十メートルほど通り過ぎた所で、店を品定めする客やそれに纏わり付く客引きの姿もまばらになっていた。路肩にはまだ駐車車両が目立つが、三島は隙間を見つけてパンダを滑り込ませた。

 「剣を持って行け。他はいらん」

 三島は助手席の足下に置いた鞄から短剣を取り出した。蓄光したように鞘が仄かな色を発している。剣を少しだけ引き出してみると車内に青い光が漏れた。三島は息を呑み、ズボンとシャツの間に短剣を差し込んで上着で隠した。

 「近くにいるな。行くぞ」

 三島はドアを開けて歩道に降り立つと脚の震えに気づいた。助手席から素早く飛び出した魔犬が前に立って歩き始めた。震える脚を踏みしめてぎこちなく後に続く。

 「俺のすぐ後に付いてろ。こっちだ」

 魔犬は繁華街の中心に戻る方向へ歩いて行く。三島はその約50センチ後で歩を合わせた。手ぶらなのが落ち着かず、両手をポケットに突っ込む。魔犬は歩道の中央を進む。先には数人の黒服の客引きや酔客がいたが、魔犬の迫力に気圧されるのか皆そろそろと道を空けた。三島は彼等と視線を合わせないようにして歩く。後ろから、犬は繋いどけという声が聞こえる。

 「おい、まだか」

 三島は小声で魔犬に尋ねた。

 「黙ってろ。そら、あれだ」

 前方10メートル程度の位置に、金色に染めた長髪をオールバックにした男がいた。光沢のあるブルーグレーの細身のジャケットの襟元からピンクのシャツを覗かせ、イタリア風の赤いスウェード靴という伊達男張りの出で立ちだが、大仰に肩で風を切る姿には品がない。年齢は三十代半ばだろうか。身長は177、8センチで三島と同じ位だ。客引きや黒服達が男を見て次々にお疲れ様ですとか御苦労様ですなどと挨拶をするのに、面倒臭そうに軽く手を上げて応えている。

 繁華街の中心部を目前にして、男が右手へ曲がった。魔犬と三島は距離を保ち自然を装って後を付ける。散歩でもしているのか、男は少し進むと再び右へ曲がり、来た方向へと戻り始めた。しばらくして、男が進んだ先はメインストリートから100メートルほど奥まった、閉店した店が立ち並ぶ旧商店街だった。六本木と赤坂という華美な街の狭間に吹き溜まった砂塵に埋もれて化石化したようなその裏通りは、遠い昔の残響が今もシャッターの間を怨めしく木霊している気がした。

 『何だか嫌な所だ』

 三島は朽ちた看板や判読できない壁の落書きを見てつい猫背になった。もう10分近く後を追っているが男はまだ歩き続けている。シャッター通りを過ぎると、密集した建物の中、歯が抜けたような空間が点々と現れ始めた。更地にしたまま放置された空き地や、老朽建造物の隙間に押し込んだ奇妙なコインパーキングが目に付く。人通りはない。尾行が目立たぬよう二人は男との距離を伸ばした。

 男が歩いて行く先に、廃屋らしい建物が見える。その二階建ての住宅の10数メートル手前まで歩いて来たとき、男が急に脇の細い路地へ跳び込んだ。魔犬は低く強い声で三島を呼ぶと男が入った場所まで走り、跳躍して消えた。三島は付近まで来たが、暗い路地のどこに男と魔犬が跳び込んだのか分からず周囲を見回して躊躇した。

 「おい!」

 頭上から怒鳴り声がした。見上げると、消えた男が空き家の二階から三島の背後に飛び降りてきた。男は左手で三島の首を羽交い締めにし、右手を背中に押し付けている。硬い感触がある。何かを持っているようだ。

 三島は幽霊を見たかというほど驚いたが、状況を理解した一瞬の後、波立った心がすっと静まったことが甚だ意外だった。

 「てめえ何だ?刑事か?俺に何の用だ」

 男は耳元で凄んだ。そこへ魔犬が闇の中から跳び戻ってきた。魔犬は状況に動じず、数メートル手前で立ち止まった。威厳に満ちた態度だ。

 「おい、おまえ」

 魔犬が男に向けて声を発した。男は誰が喋った分からない様子で三島の顔を背後から覗き込んだ。

 「臭いな。誰だ?」

 男はぎょっとした顔で魔犬を見た。

 「なっ、何だ、こいつ」

 男はひどく動揺している。首に回された腕の力が抜けるのを感じたが、三島はまだじっと静止していた。

 「俺を知ってるだろう」

 魔犬の額の四つの目がかっと開いた。

 「わっ」

 驚きの声を上げた男は突然震え始めた。

 「分かったか。だが俺はおまえが誰か思い出せない。この呆れるほどの臭いは覚えてるんだがな」

 男は魔犬が余程恐ろしいのか、熱病に罹患りかんした者のような激しい震えが腕から伝わって来る。ここはどう行動すべきかと三島が思ったそのとき、魔犬が言った。

 「おい、そいつをこっちに投げろ」

 投げる?どうやって?だが三島はなぜか考えるより先に試してみる気になった。すっかり力が抜けている男の肩を背越しに掴んで肩幅より広げた両脚の膝を曲げて踏ん張り、上体を低く前傾させると男は三島の背におぶさるように倒れ込んだ。そのまま更に前屈して男を背に乗せ、力を込めた膝に勢いを付けて伸び上がり、前方へ放り出した。男はあっけなく一回転し、魔犬の足下に大の字で転がった。ここまでほんの二、三秒だ。三島は信じられないという表情で自分のしたことに目を見張った。

られないという表情で自分のしたことに目を見張った。

 男は右手に折りたたみ式のナイフを握っていた。しかし魔犬が胸を踏みつけると苦しげに咳き込んであっさり取り落とした。三島は急いでナイフを拾い、たたんで空き地の草むらへ投げた。

 「その要領だ」

 魔犬の声があの野太い質に変わり、からかうような調子で言った。だが声色はすぐに戻り、組み敷いている男を責める。

 「冥界から逃げただろう。俺には分かるぞ。悪人の魂は臭くてな。おまえは特にひどい臭いだ」

 「ケルベロスか?俺を連れ戻しに来たのか?」

 「ふん、やっと察しが付いたか」

 「へっ、そんなことができるのかよ。今はただの犬じゃねえか。やれるならやってみろ。俺に手出ししやがったら仲間が黙ってねえ。犬一匹始末するなんてわけねえぞ」

 男は懸命に虚勢を張った。どうやらある程度の地位の者らしい。

 「おまえを冥界に叩き返すのは俺ではない。そいつだ」

 魔犬が鼻先を三島に向けた。

 「何だと?誰なんだ、こいつ。こんな優男に何ができるってんだ」

 「剣を見せてやれ」

 三島はあたふたと上着の下から剣を抜いた。月よりも青く澄んだ光の塊が闇に現れた。あの古びた短剣は本来の形となって刀身から冷たい炎を噴き出している。煌々と顔を照らす輝きに三島は見とれた。

 「この男は冥界から逃げた奴等を始末する狩人だ。その剣は冥王様が自ら鍛えた物だ。盗んだ身体から魂を切り離す。おまえはまた冥界へ落ちて行くんだ。あがいても無駄だぞ」

 剣の放つ光を浴びた男は、自分が狩人の射程にあると理解したようだ。胸を押さえつけている魔犬の脚を両手で握り、弱々しく声を上げる。

 「やめろ、見逃してくれ」

 「そうはいかん。俺は冥王様の名代でこの世界に来たんだ」

 「頼む、勘弁してくれ。あの世には戻りたくねえ」

 虚勢は消え失せ、男は幼児のように足をばたつかせながら懇願している。

 「仲間がいると言ったな。そいつらはどこに隠れてる」

 赤く燃える目に睨まれた男は狼狽した。

 「おめえ達は俺の仲間も襲う気だろう。だめだ、裏切り者にされちまう」

 「それなら今すぐ冥界へ叩き戻すまでだ。冥王様の恐ろしさはよく知ってるだろう」

 じたばたしていた動きがぴたりと止まり、暗がりの中でも分かるほど蒼白になった男は悲痛な声で応えた。

 「分かった、分かったよ。案内する。だから堪忍してくれ。頼む、この通りだ」

 男は魔犬の脚を放して合掌した。魔犬は男を解放し、三島に指示した。

 「こいつを捕まえてろ。逃げようとしたら刺せ」

 三島は不安が再び胸に湧き起こりそうになるのをこらえ、無言で男の右腕を掴んだ。

 「逃げやしねえよ。あっちだ」

 男は歩いて行こうとしていた方向の先を指差した。廃屋の向こうを言っているようだ。そこには五階建てほどの薄汚れた建物があった。

 「その少し前まで進め」

 魔犬は最後尾に付き、男に命令した。建物の手前5メートル辺りで三人は立ち止まった。そこは雑居ビルらしかった。一階は倉庫を兼ねた事務所風で、正面にシャッターがある。その横がビル玄関だ。シャッターの前は駐車スペースで、ガラスを真っ黒にしたキャデラックの大型SUVが停めてある。うらぶれた外観のせいもあって夜目には分かりにくかったが、近くで見ると大きな建物だ。

 「ここがおまえ達の隠れ家か」

 魔犬が男に尋ねた。

 「ここは六本木支部だ。俺が支部長だ」

 「行け」

 男は玄関の厚いガラス扉を開けた。ロビーの壁には二十件ほどの集合ポストがあるが、どれも表札が剥がれていたり、郵便物やチラシが溜まっていたりと、使われている形跡が乏しい。

 「ここだ」

 ロビー横の一角にあるドアを男は指差した。一階の事務所が六本木支部らしい。鉄製の扉の上には監視カメラが取り付けられている。

 「この上はどうなってる」

 「貸事務所や風俗が入ってたが、大体出て行った。夜は殆ど出入りはねえ」

 「入口はそこだけか」

 「裏口がある」

 「中には何人いる」

 「多分、四人か五人くらいだと思うが、入ってみないと分からねえ」

 要領を得ない返答に、魔犬は不愉快な様子で鼻先をしゃくった。

 「ここから入る。行け」

 男はすごすごとドアへ進む。しかし三島はその腕を掴んで続きながら、どこか釈然としないものを感じていた。怯えているとは言え、冥界からの凶悪な逃亡者のあまりに従順な態度に疑念が募る。

 「入るときは中から開けさせるんだ。カメラで誰か確認してからでないと中へ入れないことになってる」

 男は監視カメラを目で示した。三島は剣をしまう。

 「よし、開けさせろ」

 魔犬の指示で男がインターホンを押した。

 「俺だ。開けろ」

 「お疲れ様でした。米田の兄貴、一緒にいるのはどちらさんで」

 スピーカーから応答する声がした。

 「俺の知り合いだ。ちょっと用があって寄ってもらった」

 「はい、お待ちを」

 すぐにドアが開いた。出てきた男は、米田と呼んだ男の服装が汚れているのと大型犬を連れた面識のない三島を見て変な顔をした。

 「何かあったんで」

 「ああ、これな」

 米田は説明するような手振りをした。だが上げた肘で背後の三島を突き飛ばした。不意を食らってよろけた三島は掴んでいた腕を放した。米田は事務所の中へ走り込み叫んだ。

 「おまえら、こいつらを殺せ!」

 三島が体勢を立て直して踏み込むと、中には十数人の男がいた。疑念は的中していた。まずいと思ったがもう遅い。誘い込まれたのだ。男達は引き出しやロッカーから次々に武器を取り出している。

 「慌てるな。俺の傍にいろ」

 既に出入り口から数メートル奥に進んでいた魔犬が言った。落ち着き払っている。三島は魔犬に駆け寄った。

 「こいつらはあの世から俺達を追ってきたんだ!捕まると送り返されるぞ、殺せ!」

 米田がヒステリックに叫んだ。その言葉がにわかに信じ難いのか、男達の間にざわめきが起きた。魔犬がまた不快な表情を表した。

 「来る場所を誤ったか。まあいい、何かは得られるかもしれん」

 独り言のような呟きを吐くと、突然魔犬が変化し始めた。精悍な姿態が活火山の如く盛り上がり、その輪郭は見る間に凶暴な魔獣を形作った。爪は幾重にも連ねた鎌より厚く鋭く伸び、黒い針が全身を覆った。頭は再び三つに分かれ、牙は口吻に収まらぬ大きさとなった。魔獣ケルベロスの再生である。

 「ケルベロスだ、ケルベロスだ!」

 一人が叫んだ。男達の反応は混乱を極めた。呆然と立ち尽くす者やへたり込む者、武器を投げ出し逃走を始める者もいる。三島は先程まで自分と会話を交わしていたあの賢い犬の真の姿に今またまみえ、この悪人達の恐怖を実感として理解した。変身の仕上げの魔獣の咆哮の轟きに建物が震える。

 「馬鹿野郎、逃げるな!武器があるんだ、行け!」

 米田が手近にいたチンピラ風の男を引っ張り出し、乱暴に前へ押し出している。配下の男達の殆どは武器を手にしてはいるが、予想だにしない状況に判断が付かぬ様子だ。

 「おい」

 魔獣の中央の頭が言った。三島に指示を与えてきた声だ。三島は巨躯の下から見上げた。

 「ここには雑魚しかいないようだが、全部始末する。逃がしたらこいつらの仲間に我々の存在が知られる。警戒して逃げられると捜し出すのが面倒になるからな」

 非情な口調だ。

 「その剣以外の武器は使うな。殺すんじゃないぞ」

 「もちろんだよ」

 三島は当然だという態度で言った。

 「手加減しろということではない。殺してしまったらこいつらを自由にすることになるからだ。乗り移ると奴等は宿主の魂に代わって肉体と結びつく。だが宿主が死んでしまえば奴等もそこにいられなくなる。そうなれば新しい身体を求めて出て行くんだ」

 「じゃあ、自殺して逃げていくんじゃないか?」

 「それはできん。乗っ取っている間は身体の主は奴等だ。自殺は禁忌だ。犯せば否応なく冥界へ落ちる。逃げ出したのに自分で自分を落とす奴があるか」

 「殺し合ったら?」

 「同じことだ。殺し合いをして生き残った者は自殺するのか?自分しか頭にない連中にそんな考えはない」

 魔獣は立て板に水を流すように三島の疑問を退けた。

 「…本当にこの剣なら斬ったり刺したりしても死なないのか?」

 「試してみろ」

 そこへ米田に押された男が走り寄ってきた。自動式拳銃を握りしめ、必死の顔付きだ。この機に功を上げるつもりなのだろう。男は至近距離から仁王立ちで魔獣に連射した。

 「うわあ」

 三島は魔獣の後ろに隠れた。やがて連続した銃声が止んだ。魔獣は微動もない。恐る恐る覗くと男は顔から滝のような汗を流し、銃を構えたまま肩で息をしている。周囲の者達は期待の面持ちで見つめていた。

 「おまえ、いい度胸をしてるな」

 魔獣の右の頭が発砲した男に言った。三島に軽口を言う太い声だ。どこか親しげに聞こえていた声が今は冷たかった。魔獣は鼠を捕らえるように男を踏み倒した。

 「刺せ。どこでも構わん」

 中央の頭が振り向いて言った。剣を抜くと一際光を増している。男は悲鳴を漏らして魔獣の脚の下でもがいた。他の者達は遠巻きで沈黙している。柄を握る掌に力が入らず、指先が震えた。武器で他人を傷つけるかも知れぬことが怖い。だが、自分がやらねば世界中の人々がこれからも苦しむのだろう。三島は勇気を振り絞り、剣を男の太腿に突き刺した。光の剣は雪に刺したように軽く沈んでいく。すると男は苦悶の表情を一瞬見せ、糸の切れた操り人形の如く動かなくなった。苦痛の色は失せ、眠っているようだ。剣を引き抜くと足は無傷だった。灰色の靄が男の身体から立ち上った。

 「どうだ?」

 右の頭が言った。牙が飛び出た口角が上がり、些か笑みが浮かんでいるようにも見える。安堵や確信などが混じった複雑な感情が湧き、三島は思わず表情を緩めた。

 「うん、大丈夫だ」

 「やるぞ」

 言って魔獣は出入り口のドアを前脚で横殴りした。ノブが吹っ飛び、鉄の扉はいびつに変形した。もう開閉できない。

 「裏口があるんだったな」

 魔獣は向き直り、応接セットや机を蹴散らして事務所の真ん中を進んでいく。机の上に置いてあった手持ち金庫が落ち、一千万は下らない札束が床に撒き散らされた。汚い金だろう。三島は顔をしかめた。逃げ惑う男達を無視して魔獣は裏口も破壊した。これで逃げ道はない。どこからか嘆く声が聞こえる。だがそれを打ち消す怒号が上がった。

 「野郎、舐めやがって!死ぬのはおめえらだ。ぶっ殺してやる!」

 錆びた金属音のように不快な米田の叫ぶ声は、拠点を破壊されたうえアガリを踏みにじられた怒りで震えている。壁際に逃げていた米田はロッカーから拳大ほどの何かを取り出し、部下の制止を振り切ってそれを投げた。カーキ色の円筒形の物体が魔獣の足下近くに落ちて転がった。

 いきなり魔獣が後脚で三島を蹴った。三島は数メートル飛ばされ、倒れた机にぶつかった。そして魔獣がすかさず物体に覆い被さると同時に、その下からくぐもった爆発の轟音と閃光、僅かな衝撃波が周囲に走った。三島は無事だった。

 「ケルベロス!」

 蹲ったまま動かない魔獣の三つの頭はいずれも目を閉じている。三島は魔獣の肩を強く揺すった。

 「おい、ケルベロス!」

 魔獣が目を開けた。三島は心の底から安堵した。

 「やったぞ!ケルベロスをやってやったぞ!おまえら、あの男を殺せ!」

 米田が声を張り上げた。配下の者達は身を隠していたソファーや机の影から現れ、各々の武器を再び手に取った。

 そのとき、三島の知覚に変化が起こった。周囲の情景が静止し、パノラマ写真のようにそのことごとくが視界に捕らえられた。更に自分を包囲している十数名の敵の位置と距離が一瞬で記憶された。武器を構える男達の動きはスローモーションとなって両眼に映っている。三島はその俊敏な思考よりもなお速く、行動を開始した。

 「待て、無茶をするな」

 魔獣の声を背に聞きながら、三島は剣を手にまっすぐ米田の元へ走った。米田は驚きで立ち竦みながらも右手で脇のロッカーをまさぐり、再び手榴弾を取り出した。三島は米田の前にある机に飛び乗った。すると下に隠れていた男が大型のナイフを突き上げてきた。空中を駆け上がるように跳んだ三島は男の頭上を跨ぎ、着地しながらナイフを向けた腕に刃を叩き落とす。

 米田は顔面を畏怖で引きつらせ、手榴弾を握ったまま壁伝いに逃げていく。追う三島に三人の男が立ち塞がった。拳銃を持った者が二人と、一人は伸縮式の特殊警棒を握っている。三島は瞬時にそれぞれの位置を読み、左側からスイングしてきた警棒をしゃがんで避け、脇腹の辺りを下から斜めに斬った。倒れてくる男を肩で受け止め、狙いを付けようとしていた右前方の拳銃の男に向けて投げ飛ばし、体勢を崩したところを斬る。ところがその後ろから手が伸びてきて、三島のジャケットの襟を掴んだ。

 「この野郎、覚悟しやがれ」

 仲間を盾にしていた男が拳銃を突き付けた。だが三島が恐怖を感じる間もなく、男は飛びかかってきたケルベロスに踏み潰された。

 「無茶をするなと言うんだ」

 鼻筋に皺を寄せ、中央の頭が三島を窘めた。踏まれた男は意識を失っている。三島はその胸に剣を深く刺した。

 「大丈夫なのか」

 「目眩めまいがしただけだ」

 魔獣は事も無げに答えた。

 「俺からあまり離れるな。勝手に跳ね回るんじゃない」

 男達に落胆の色が拡がった。手榴弾も通用しない怪物にどう立ち向かえばいいのか、そんな思いがどの顔からも見て取れる。しかしまだ諦めていない者がいた。米田がまた耳障りな声を上げた。

 「何やってんだおまえら!殺さねえと送り返されるんだぞ!やれ!」

 仕方ないという感じで配下の男達が散発的に発砲してくる。魔獣は裏口側の隅から事務所の中を見回した。三島は魔獣の後ろにぴたりと付いている。残っている者は十名だ。三島と魔獣の対角線上、最も離れた位置に米田がいた。手榴弾をまだ手に持っている。居場所を察知されたことに気づいた米田は手近の二三人に何事か言い付けた。すると男達は慌てて米田の傍から散った。

 「いけない、シャッターを爆破して逃げるつもりだ」

 三島が言うと魔獣は猛然と飛び出した。銃弾の集中砲火を意に介さず、米田へと突進する。三島は後を追い、身を低くしながら転がったソファーや机の間を走った。先には数人の男がいる。弾倉の交換に手間取っていた男を斬り、先を見ると拳銃とショットガンを持った二人が通せんぼのような格好で行く手を阻んでいた。男達は銃を手にしてはいるが、明らかに腰が引けている。三島は光の剣を大袈裟に振り上げて威嚇し、怯える二人の間に野球のスライディングさながらに滑り込んだ。泡を食った男達は銃を三島に向けようとするがお互いが接近しすぎていて上手くいかない。二人はすり抜けた三島に背を斬られた。

 魔獣の足元に三島が追いつくと、米田と二人の部下がシャッターの前に追い詰められていた。米田は手榴弾を高く掲げたまま動かない。魔獣に手榴弾は通じない。しかも今ここで爆発させれば自死して冥界へ落ち戻るのは免れない。米田は進退窮まったかに見えた。だが、その顔に微かな笑いが浮かんだ。この状況でと三島が訝しんだそのとき、押し殺した足音が迫るのに気付いた。反射的に振り向いた目前で男が日本刀を上段に振り上げた。

 「死ね!」

 切っ先が頭頂に達する寸前、突風が三島の周囲に吹き上がった。刀の男は竜巻に攫われたように高く浮き上がり、床に叩き付けられた。

 死の騎士が出現した。騎士は呻く男の背を長大な剣で貫いた。

 『三島零時』

 騎士は表情を変えず、静かに言った。

 『死んではならぬ。戒心せよ』

 三島はただ驚きの眼差しで騎士を見つめた。そして我を取り戻すと率直に言った。

 「ありがとう、騎士」

 騎士は応えず、魔獣に言った。

 『この者を死なすでないぞ』

 魔獣は米田に目もくれず、騎士の前にひざまずき三つの頭を深く垂れた。

 「し、死神!」

 米田の横の男が小さな叫び声を漏らした。騎士は三島と魔獣に背を向けると隠れていた男を瞬時に三人薙ぎ斬った。すると別の男が一人取り乱した様子で転び出て、持っていた拳銃を捨てて手を挙げた。騎士はその首を掻き斬ると再び口を開いた。

 『三島零時、何が起ころうとも私との約を忘れるな』

 騎士は剣を自らの前に立て、柄の上に両手を置いた。小さな竜巻が騎士を包んで収束していく。死の騎士は消えた。

 米田の両脇の二人は拳銃を投げ、発狂したかの如く言葉にならぬ悲鳴を上げながら左右に走り出した。右の男を斬った三島がもう一人を目で追うと、魔獣が既に捕らえている。魔獣は男を三島へ蹴飛ばした。放心状態の男を斬ったとき、標本の昆虫のようにシャッターに張り付いていた米田が急に動き出した。悪鬼の形相となった米田は手榴弾の安全ピンを抜いた。米田は魔獣を諦めたのか、迷わず手榴弾を三島に投げた。先刻からなぜか鋭くなっている三島の動体視力と反射神経は飛んでくる手榴弾に即座に反応し更に集中力を増した。超解像のスロー映像のようにカーキ色の爆発物が宙に弧を描いて迫る。三島は着地点を正確に予測し、そこへ素早く移動した。手榴弾が落ちる。三島は躊躇することなく拾い、誰も倒れていない隅へ投げた。手榴弾は床に届く間際に爆発したが、三島に矢のように飛び付いた魔獣が爆風から護った。

 「死にたいのか?」

 「分かってる、けど大丈夫だ」

 建物の壁には穴が開いたが、米田はそこへ行かなかった。出入り口付近で横倒しになっているロッカーへ走り、自動小銃を取り出した。

 「死ね!死ね!」

 米田は長髪を振り乱し、銃を魔獣と三島へ向けてでたらめに連射した。魔獣は巧みに三島を背後に隠しながら、のしのしと米田に近付く。弾が尽きた。しかし米田は魔獣の燃えたぎる六つの目に見下ろされながら、反応しなくなった自動小銃の引き金を引き続けている。

 数秒の静寂の後、絶叫が響き渡った。魔獣の左の頭がその牙で銃ごと米田の腕に噛み付き、振り回している。断末魔の叫びとはかくやと思わせる声だ。

 「おい、もうよせ。殺すな」

 中央の頭が左を向いて言う。

 「殺しゃしない。これ以上生意気ができんようにしただけだ」

 痰のように米田と銃を床に吐き飛ばし、左の頭が喋った。初めて聞く声だ。三つのうちでも最も冷酷な音色のその声は冥界の番犬という彼等の職能を思い起こさせた。

 米田は血まみれになった手をかばい、肘で床を這った。指が数本おかしな方向を向いている。魔獣は水を浴びた犬がやるのと同じに巨体を震わせた。身体中から無数の銃弾がばらばらと床に落ちる。そして米田を蹴り、仰向けにして踏みつけた。米田は失禁していた。

 「おまえの親玉はどこにいる」

 中央の頭が冷静な声で問うが、米田は子供のように声を上げて泣くばかりだ。

 「…」

 魔獣の脚に一層力が加わった。胸板から嫌な音がした。米田が苦痛の叫びを上げる。

 「おい、いい加減にしろ。殺しては元も子もないぞ」

 魔獣の身体は三つの頭がそれぞれの意志で代わる代わる動かしているようだ。恐らく左の頭が米田を踏み殺す勢いなのだろう。

 「この身体もどうせ悪人だ」

 脚をやや戻し、平然と左の頭が言った。

 「答えろ。上の奴等はどこだ」

 「知らねえ、知らねえよ。俺はここの責任者をやらされてるだけだ。上のことなんか分からねえ」

 「こいつ、まだ白を切るつもりか」

 右の頭が言った。また脚に力が込められる。米田が泣き喚く。

 「待て、じゃあこうしよう。俺達は死閣下の命令でおまえ達の組織とやらの頭領を探してる。そいつさえ始末できればおまえ達雑魚はどうでもいいんだ。だから上の連中のことを教えろ」

 米田は恐怖と驚愕が混濁した相で魔獣を見上げた。

 「頼む、頼みます。あの世には戻りたくねえよ。まさか死神が追いかけてくるなんて」

 血まみれの手を何度も合わせ、涙を流しながら米田は哀願した。死の騎士を目にしての恐慌がどれほどのものだったかが窺い知れた。

 「では言え」

 「ここはただの出張所みたいなものなんだ。俺は月一回戦費を集めに来る関東統括本部の人に金を渡すだけだ。本当だ。だから俺よりも本部の連中に訊いてくれ」

 「そこの頭はなんて奴だ」

 「会ったことはねえんだ。そうだ、コウ、香村さんだ。名前だけしか分からん」

 「それは冥界から逃げた奴の名前だな?」

 「そうだ。身体の方の名前は知らねえ」

 「その統括本部とかいうのはどこにある」

 「よく知らねえ」

 そう答えた途端、米田がぎゃーっと絶叫して少量の血を吐いた。肋骨を折られたようだ。三島は耐えられず耳を塞ぐ。

 「本当だ!本当だよ、信じてくれ。そうだ、確か川崎のどっかだ。それ以上は知らねえんだ。本部は三ヶ月に一回移動すると聞いてる。来月はまだ川崎のはずだ」

 言い終わると米田は咳き込んで血を吐いた。

 「もういいだろう。この男はこれ以上本当に知らないみたいだ」

 苛烈な責めを見かね、三島が魔獣に言った。左の頭がちらと三島を見、魔獣は脚を放した。もう這う気力も残っていないのか米田は轢死れきしした蛙のように伸びている。

 「ところでな」

 中央の頭の話しぶりが少し変化した。

 「おまえが誰か思い出したぞ」

 魔獣は続ける。

 「おまえは〝女殺しの米田〟だろう。女を何人も犯して殺し、逃げ回ってた奴だな?」

 三島は耳を疑った。そこまでとは思い至らなかったのだ。

 「おまえが冥界に来たときのことは覚えてるぞ。反省などしないと大口を叩いてたな」

 米田は黙っている。

 「けれどもおまえは自殺で落ちてきたんだったな。この世界の牢獄で他の奴等に半殺しにされて、たまらず自殺したんだろう?口ほどにもないな。それに冥界でも強がりは最初だけで、毎日毎日下働きのゴブリンどもに殴られてひいひい泣いていたな」

 米田は指の曲がった手で顔を覆い、屈辱と苦痛で嗚咽した。

 「だがな、おまえが殺した女達の苦しみはそんなものじゃないぞ。若くて弱い女ばかり、子供もいたな。犯して嬲り殺し、切り刻んで他人の墓に隠してはまた繰り返していただろう。おまえなどこの俺が八つ裂きにしてやっても足りん」

 魔獣が峻烈な言葉で米田の所業を明かした。三島の腕がわなわなと震えた。かつて経験したことのない激しい怒りが身体中を巡り、剣を持つ右手に集まって突き抜けていくような衝動を覚えた。

 「おい、こいつを許せるか?」

 三つの頭が三島を見た。そんなことができようか。三島は光の剣を固く握りしめる。

 「待て!待ってくれ、喋ったら見逃してくれる約束じゃないのか?ひでえ、汚えぞ」

 米田が魔獣の脚にしがみつき必死に訴える。三つの頭は揃って哄笑した。

 「おまえ、本当の馬鹿だな」

 六つの目が蔑んだ視線を浴びせた。

 「俺は冥界の番犬ケルベロスだぞ。悪人と取引するなんて思ったのか?」

 魔獣は米田を振り払った。

 「もう一つ思い出したぞ。おまえはこの世界の裁きの場で、俺は悪くない、女達を悦ばせてやっただけだと言っていたそうだな」

 魔獣の言葉に、米田は突然我が意を得たりとばかりに饒舌になった。

 「そうだ、そうだよ!俺は男に相手にされねえ女達を遊んでやっただけなんだ。死んじまったのだって、あいつらが何をしてもいいってんでちょっとやり過ぎただけだ。殺そうなんて思っちゃいねえよ。それどころか皆悦んで」

 突然、うわーっと三島が声を上げた。叫びが空疎な弁解を掻き消した刹那、剣が米田の心臓を貫いた。驚愕に開いた口から青い光を吐きながら米田は胸深くに刺し込まれた剣に手を伸ばしたが、指先が光に触れると苦悶の表情のまま目を閉じた。

 三島は米田を刺したまましばらく動けなかった。自分の行動を追認するのに時間がかかった。これで良かったのか。そして、これからどうなるのだろう。稀に見る悪人とはいえ、死刑執行人のような情動に走った自分の前途に、三島は虞れを感じていた。

 「それでいい」

 中央の頭が言った。三島は魔獣を見上げた。そしてようやく剣を米田から引き抜いた。

 「清々したぜ」

 「よくやった」

 左と右の頭も続いた。六つの目は爆ぜる溶岩の激しさが消え、静かな赤い火になって三島を見ている。その穏やかさは三島の憂愁をいくらか楽にさせたが、三島は米田が乗り移っていた男が気になって視線を向けた。肉体を蝕んでいた毒気が抜けた男の顔かたちは今し方とは打って変わって鎮まっていた。三島は青白い火影が細く消えかかる剣をそっと鞘に収めた。

 「この男達に乗り移っていた魂は冥界でどうなるんだ」

 表情を引き締め、三島は魔獣に尋ねた。

 「冥王様が決めることだが、逃げる前とは比較にならん罰を喰らう。特にこいつのような奴はな」

 魔獣は血に染まった男を見た。

 「くだらん口が二度ときけんようにされ、消えて無くなってしまいたいと願うほどの責めが永遠に続くだろう」

 それはどんな、と三島は言いかけたが、尋ねるのをやめた。知らない方がいいと思った。

 「さて」

 魔獣がいきなりシャッターを蹴った。大きく凹んで勢いよく捲れ上がった鉄の幕はキャデラックのリヤゲートにめり込んだ。十秒とかからず犬の外見になったケルベロスが外へ出た。三島も続き、辺りを見回してみる。遠巻きに騒ぎに気付いたらしい数人の野次馬がいたが、建物の周囲には誰もいなかった。

 「おまえに言っておくことがある」

 月を背にして魔犬が立ちはだかった。暗闇に浮かぶ六つの赤い光が三島を射竦める。

 「俺の役目は子守ではない。言ったはずだ。死にたくなければ指示に従え。好き勝手をしていつも俺が護ってくれるなんて思うなよ」

 三島は背筋に冷気が流れたように硬直した。

 「俺は好きでこの世界へ来たんではない。囚人どもを逃がした罰で冥王様に檻に閉じ込められた俺は、死閣下の命令で狩人を護り助ける代わりに解放されたんだ。俺にも責任はある。しかしな、どこが気に入って閣下がおまえなどを選んだのか知らんが、助けてやると言っても限度があるぞ」

 三島は身が縮んだ。あの場での不思議な感覚、なぜか鋭敏になった感応力と運動能力によってつい根拠の希薄な自信を得てしまっていたのだ。死の騎士の命令とはいえ、危険に身を晒して自分を護っていたケルベロスを顧みなかったのではないか。

 「すまない。おまえの助けのおかげだと忘れていたよ」

 魔犬はうなだれ肩を落とす三島に厳しい眼差しを向けていたが、不意に語調が変化した。

 「そのくらいにしておけ。こいつはいい人間だ」

 右の頭の太い声だ。思わぬ助け船に三島は顔を上げた。

 「けどな、覚えておけ。閣下からおまえを死なせるなと命令されたが、傷一つ付けるなとは言われていない。調子に乗って手足が無くなっても俺の知ったことじゃないぞ」

 三島は固唾かたずを呑んでその言葉を聞いた。緩みかけた頬がこわばる。

 「今日はこれで引き上げるぞ。帰って休め」

 ここでの出来事には何の感慨も表さず、短い言葉で切りを付けて魔犬は帰路を歩き始めた。

 「ケルベロス」

 三島が魔犬を呼び止めた。

 「礼を言ってなかったな。護ってくれてありがとう」

 振り向いた魔犬は意外そうな顔付きで暫く三島を見ていた。

 「礼など言わんでいい」

 ぷいと前を向いて魔犬は歩き出した。その背を追って三島は走った。

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