第3話


 帰京して一週間が過ぎた。三島は職務に戻っていた。歴史研究所での調査研究の報告や論文などの執筆に加え、週一度の地元私大での中世ヨーロッパ史の講師の勤めがあり、多忙ながらも変わりのない日々を過ごしていた。

 あの事件は、真理によれば件のテロ組織によるものではなく、模倣犯と見られる男が手製の爆発物を携行して会場近辺を徘徊していたところを警官に発見されて狼狽し、抵抗のあげく爆発させたとのことだった。幸い被害はバスの外装が壊れた程度で、あなた以外は怪我人も出なかったと真理は言ったが、もし零時さんに万一のことがあったら私はどうしたらいいか判らなかったと付け加えた。

 三島は車外で意識を失っていたところを病院へ搬送された。直ちに身体中をくまなく調べられたが、救命医が不思議がるほどどこにも深刻なダメージを負っていなかった。

 三島自身も不思議だった。地面に叩きつけられたなどという記憶はなくとも、数メートルの距離を飛ばされていたのだ。医師は路肩の柔らかい土の上に落ちたのが幸運だったと言うが、痛みの痕跡すら身体に探し当てられなかったことから、あの爆発は不安が垣間見せた白日夢ではという気さえした。

 だが心中に重くわだかまり続けているのはそれではなかった。あの白い空間で聞いた声である。善き人だった父と母が待つはずの楽園へ導く啓示であってほしいと願った。しかし今自分はここにいる。ではあの声は何者か。助けが必要になるとは何事かの暗示か。冷たく美しい声の響きを思うたび、三島の胸の奥には不安が小さく渦を巻いた。

 

 「三島先生、お先に失礼します」

 居残っていた大学院を出たばかりの研究員が書類に目を通していた三島に声をかけた。

 「ああ、さようなら」

 返事を待たず研究室を軽い足取りで出て行く背中に挨拶を返し時計を見ると午後七時だ。彼は新婚だったなと思い出した三島は、待っていてくれる人と暮らすとはどんなものなのだろうと考えた。

 優れた宗教社会学者だったという父を十歳で亡くした三島は父の業績の影を追い、両親に恥じぬ研究者になることを幼い自分に課した。以来勉学を伴としてきた三島は伴侶の暖かさを知らない。

 甘い美男ではないが知性が滲む顔立ちに涼やかな光を帯びた眼差し、また母譲りの優しい物腰は同級生の女子達に好感以上の感情を抱かせるに充分な魅力があった。だが三島の心に根ざして消えぬ悲しみは、寄り添おうとする女達を受け入れるのを拒んできたのだった。

 三島の母は敬虔なキリスト教徒だった。神と信仰、そして人間を愛した。日曜には教会でボランティアやチャリティー活動を行い、恵まれぬ者に尽くした。研究者として宗教を学問の立場から究めようとしていた父が調査と取材で母の教会を訪れ二人は出会った。やがて家庭を築いた彼等の間に三島零時が生まれた。幸せな家庭だった。しかし三島が十歳を数えて間もない日、幸福は突然失われた。三島と父が教会へ母を迎えに出かけた帰途、おやつをねだる息子のため父は洋菓子店の前に車を停めた。後席の零時が待ちきれずに飛び出した直後、トラックが追突した。父の旧いシトロエンは反対車線へ押し出され、運悪く通過中のトレーラーに衝突した。先端部がトレーラー側面にめり込み動けなくなったシトロエンに積荷の廃車が落下し、父と母は屋根のつぶれた車内に閉じ込められた。ひしゃげたドアを必死で開けようとする息子に、両親は苦しい息の下から言った。

 『しっかり生きるんだぞ』 

 『神様と一緒に見ていますよ』

 三島は目の前の出来事を信じることができず、息絶えていく両親を茫然と涙を流して見つめていた。

 追突したトラックは整備不良車でブレーキがきかない状態だった。運転手は日本語の殆ど話せない不法外国人労働者で、彼を雇っていたのは南米人のモグリの業者だった。その雇用主は運転手が逮捕拘留されている間に母国に逃げ帰り行方知れずとなった。そして運転手は数年の懲役を終えた後、強制送還の処分が下された。

 父のような研究者になることを誓った三島だったが、両親の過酷な死を思うと宗教学の道に進む選択は感情がそれを許さなかった。あれほど善き人だった父と母をなぜ救ってくれなかったのか。宗教など所詮頼るべくもない幻想ではないか。三島は懊悩した。だが一方で、母の最期の言葉はそれからの三島にかけ替えのない慰めとなった。母は今生涯を捧げて帰依した神の元で安息を得、父と共に僕を見守ってくれているのだろう。そう考えると両親への激しい思慕と憐憫が和らいだ。

 こうして、三島の神と宗教への意識は次第に変化していった。信仰を持たず、宗教を究めずとも、神そのものを尊重することはできる。三島はやはり母が愛し父が挑んだ神の存在を願わずにはいられなかったのだ。

 『家族を持つっていうのは、楽しいものなのかな』

 家庭の記憶が希薄な三島には、伴侶との暮らしは想像が難しかった。祖父母は充分に三島を慈しんでくれたが、普通の家庭ではないという違和感と悲しみは三島の心に幸福を受容し難いぎこちなさを醸成した。家庭を築く喜びを語る研究員の明るさは三島に複雑な感情を抱かせた。それは幸せな家庭というものの断片しか知らぬ三島にとっては未知の驚きと羨望に他ならなかった。

 『仕方ない。僕の人生だ』

 三島は小さな溜息をつき、再び机の書類を手に取った。物思いの間に見失ったパラグラフを探そうと文字を目で追い始めたとき、出入り口の扉が開く音がした。それに続いてこちらに歩いてくる足音がする。その音は重く、騒々しく重なって聞こえる。

 「松本君?」

 先刻帰宅した研究員の名を呼ぶと音がぴたりと止んだ。数秒の後、研究室のドアが開き二十代後半ほどの三人の男が無遠慮に入ってきた。

 「くそ、まだ人がいやがったな」

 男の一人が表情を歪めて言った。派手な柄の入った上下黒のジャージに坊主頭だ。

 「まあいい、関係ない」

 同じような模様の、こちらは上下グレーのやはりジャージを着た男が言った。色の薄いサングラスを掛け、整髪料で撫で付けた髪がギラギラ光っている。

 「金の場所を聞き出せ」

 立ち止まっていた二人に苛立ったのか、その後ろの男が声を上げた。怒気に押され、坊主頭とサングラスが三島に近寄った。命令したのは黄色い髪を逆立てた凶暴な顔つきの筋骨逞しい男だった。緩いジーンズを浅く履き、ありふれた意匠の洋風の入れ墨をランニングシャツの肩口から誇示するように覗かせている。

 「おいおまえ、金ぁどこだ」

 「早う言わねえと後悔させたるぞ」

 事務椅子に腰掛けている三島を左右から見下ろし、ジャージの男達が凄んだ。鼓動が急激に早まり、手の書類がばらばらと落ちた。もしやこの男達はと忘れかけていたあの組織が三島の頭に浮かんだ。

 「なめとんのかおまえ。俺達を誰だと思っとるんだ」

 坊主頭が顔を更に醜く歪めて怒鳴った。黙っていては却って危険だと三島は対話を試みた。

 「何だ君達は。ここは研究所だぞ。金なんかあるわけないだろう」

 精一杯の強い口調のつもりだったが、声は上ずり、語尾がかすれた。すると坊主頭とサングラスの二人があっけにとられたように顔を見合わせ、哄笑した。

 「何だ君達はだと。あほか、こいつ」

 「俺達が宅配便かなんかに見えるんか」

 二人の男は三島を嘲り、下卑た笑い声を上げ続けた。

 「おい、もういい」

 怒声の一喝に笑い声が静まった。ジャージの二人を押しのけ、入れ墨の男が三島の椅子を蹴った。三島は椅子ごと2メートルほど吹っ飛び、壁にぶつかって床に倒れ込んだ。起き上がろうとすると突然胸に激しい不快感が込み上げ、その場に胃液を吐いた。立ち上がることのできない三島は這って逃げようとしたが、四肢は震え力が入らない。入れ墨の男が重い足音を立てて近づき、三島のネクタイを掴んで強引に持ち上げ引き起こした。

 「俺はこういう利口ぶった奴は好かん」

 入れ墨の男は三島の胸元を握って目の前に立たせたまま、左手でジーンズの尻ポケットから30センチほどのバールを取り出した。侵入に使う工具だろう。男は三島を手荒く床へ突き放し、バールを右手に持ち替えた。

 「ヒデやん、どうすんだ、そいつ」

 坊主頭が入れ墨の男に尋ねた。

 「顔見られたんだぞ。殺すしかねえだろ」

 ヒデやんと呼ばれた男は三島を睨んだまま投げやりに答えた。

 「けどよ、面倒だぞ。カメラあったらどうする」

 サングラスの男がやや不安げに言った。

 「ねえよそんなもん。金がないのにカメラがあるわけねえだろ。こいつ殺ったら次行くぞ」

 入れ墨の男がバールを振り上げた。だが三島の知覚は恐怖と屈辱によって既に正常な機能を失っていた。壁にもたれ座り込んだままぼんやりと三人の賊を眺めるばかりで、頭上の凶器の意味も認識できない。

 『三島零時』

 かの声の轟きが身体を突き抜けた。三島は電流の一撃を受けたように覚醒した。

 『私を希求せよ』

 声は瞬時に白い世界での記憶を蘇らせた。

 『あの声だ、僕を呼び戻した声だ』

 『私と契約せよ。さればおまえを助ける』

 契約?三島は混乱した。思いもかけぬ言葉の意味が計れず返答に窮した。

 「偉そうに、死ねよ」

 入れ墨の男が眉間に皺を寄せて罵った。バールを更に高く振り上げる。正常な感覚を取り戻した三島は生命の危機を実感として理解した。まるで全身を粉々にされようとしているかの恐怖だ。

 「わ、分かった、契約する。助けてくれ」

 三島が叫んだ。入れ墨の男の動きが止まった。理不尽な憎しみの表情が怪訝に変わり、凶器を振り下ろすのを僅かに躊躇した。そのとき、男と三島の間に一陣の風が吹いた。どこから吹くのか風は渦を巻き、一瞬の旋風となって立ち消えた。風が去った後には静寂が続いた。腕で頭を庇いうずくまっていた三島はまだ生きていることに安堵しつつもなぜ入れ墨の男は自分の頭を砕かないのかと、怖々と腕をのけて視界を開いた。男はバールを構えたまま氷結したように三島ではない方向を見ている。驚きの表情だ。男の視線の先、三島の傍らには新たな人物がいた。青光りのする鋼の鎧を身に着けた若者だ。2メートルに近いだろう偉丈夫の若者は体躯の半ばを超える長大な剣を自らの前に立て、両の掌を柄の天辺に置いている。兜の装備はないが、その姿は三島が専門とする歴史考古学の資料文献で度々目にする中世の騎士そのものであった。三島はもしや自分は断末魔の苦悶で悪夢を見ているのかと目に映る光景を疑った。しかし騎士は視線を三島へ落とし、口を開いた。

 『私は来た。三島零時、おまえを助けよう』

 衝撃が再び三島を揺さぶった。あの冷たく美しい声だ。あのときと同じだ。今騎士の発した言葉は白い世界と、また先刻と同様に意識に直接響く感覚を持って語られたのだった。

 「何だおまえ、どこから」

 入れ墨の男が言い終わらぬうちに、騎士は剣で首を両断した。男が倒れたとき、どう動いたのか騎士はその数歩後ろのサングラスの男の胴体を薙ぎ斬っていた。仲間二人を悲鳴を発する間も与えず斬った騎士を気が抜けたように見入っていた坊主頭の男が突然絶叫した。その表情はまさに幼児が何か恐ろしいものを見てしまったときのものだった。男は言葉にならぬ叫びを上げながらドアへ走った。だが数歩と進まず男の声と動きは停止した。騎士の剣が男を背から貫いていた。墓場のような静寂が研究室に立ち籠めた。

 『三島零時』

 騎士の呼ぶ声に、顔を手で覆い恐怖の光景に耐えていた三島はそっと目を開いた。騎士は正面に立っている。あまりのことに三島は畏怖を忘れ、騎士に詰め寄った。

 「何なんだ、あんたは。なぜこんなことを」

 『おまえは私と契約を交わしたのだ』

 騎士は静かに言った。彼は美しかった。盛期ルネサンスの宗教画から現れ出たかの顔貌は、しかしながら彫刻のように無表情だ。肌は白磁の如く透き通り、肩に掛かる白金の髪は少しも乱れていない。けれどそんな人ならざる美を持ちながら、騎士にはまた威風辺りを払う厳しさがあった。

 「契約?あ、悪魔か」

 『〝死〟だ』

 三島は絶望した。死神に魅入られたのだ。彼の言う契約によって、操り人形のように永遠に死の舞踏を踊らねばならないのか。いっそあの男達の手にかかって死んでしまった方が良かったのではないか。しかも、あの白い世界で自分は死神の呼び声を救いの啓示と盲信したのだ。なんて愚かな。三島は悔やんだ。だが、死の騎士は言葉を続けた。

 『我が目的の助けとなれ。それが契約だ』

 「目的って、人間を殺すのか」

 『そうではない』

 「でも、あの男達を殺したじゃないか」

 『死んではおらぬ』

 三島は三人の男達の死体に目をやった。ところが、首を撥ねられたはずの男も、胴を二つにぶった斬られた男も、串刺しにされた男も皆元の姿を留めたままで倒れている。

 『三島零時、おまえは悪しき魂を狩るのだ』

 「魂を狩る?」

 『生前の罪により冥界に捕らわれたあまたの魂が逃げ戻り、この世界の悪しき者どもの肉体に寄り付いたのだ。それらは我を失い悪しき魂の思うがままに支配されている。おまえはその魂を狩り冥界へ送り返すのだ』

 騎士の言葉に、三島ははっと思い当たった。

 「もしや、あの世界中を荒らし回っている連中か?」

 『そうだ』

 三島は驚愕した。人間ではなかったのか。いや、冥府から舞い戻った霊魂が現世の悪人達に乗り移り操っていたのだ。疲れを知らず、倒れず、驚くべき身体能力の訳は、肉体が単なる入れ物として使役されていたからか。疑問が次々に氷解した。

 「魂を冥界に送り返すなんて、どうやって」

 『道具を与える』

 騎士は腰に吊っていた小剣を外し差し出した。彼が身に着ける鎧と同じ青光りする金属の鞘に入ったその小さな剣は、一見してとてもさほどの大役を務めるに資する武器とは思えなかった。

 『取るが良い』

 三島は剣を押し頂いた。刀身は精々30センチ程度だろうか。柄を含んでも三島の肘から先の長さにも満たない小刀だ。

 「こんな…」

 困惑の表情の三島に騎士が指示した。

 『抜いてみよ』

 鞘を左手に掴み、三島はそろそろと剣を引いてみる。刀身が見えてきたとき、三島は声を上げた。そして一気に引き抜き、目の前にかざした。剣は無数の蛍火をその刃先に集めたように青い冷光を放っている。

 「これは、なんて…」

 『悪しき魂を寄りすがる肉体から断つ剣だ。人間の命を取るものではない。我が目的は逃げた魂どもを報いの場に戻すことだ。捨ておけばこの世はいよいよ乱れ人間は命を全うできぬ。私のつかさどる死は神により定められたものだ。それは悪人とて同じ。宿命を変えることは自らにも他者にも許されぬのだ。私は肉体を持たぬゆえ、この世界に留まることはできぬ。おまえは私に代わり冥界へ魂を送り返すのだ』

 「しかし、なぜ僕が?僕には何の力もない。助けにはなれないよ」

 『見よ』

 騎士は質問には答えず、甲冑に包まれた指で斬った男達を指し示した。その身体からは一滴の血も流れていない代わりに、灰色のもやのようなものがすうっと立ち上っている。それは数十センチほど上昇し宙に消えた。

 『あれがこの者どもの身体を奪っていたのだ。肉体から断たれ引き戻されていく。おまえに与えた剣もこれを為し得る』

 これまでの騎士の言葉と、目撃した数々の驚くべき事実に、三島は今人間が踏み込んではならない領域を侵しつつあると、そして神秘の世界の闘技場へ放り出されようとしていることを思い知らされた。

 「あまたの魂って、あの組織を僕が一人で?そんな無茶な」

 『その必要はない。悪しき魂は本来思想も信念も持たぬ弱き者だ。導く者を失えばこの世界に執着する理由を忘れて迷う。指導者を捜し出しその剣に掛ければ良い』

 「いや、やっぱり無理だ。僕は…」

 落胆の表情で訴える三島を騎士が遮った。

 『案ぜずともよい。私との契約をたがえぬ限り、おまえは死なぬ』

 騎士は虚空を指して言った。

 『これがおまえを護る』

 その言葉に呼応したのか、どこからか地鳴りが響いた。続いて、そこにだけ光が届かないかのように床の一部が暗くなった。地鳴りはこの小さな闇の奥底から響いている。急速に音を増し、重機の接近を思わせる響きはその闇さえ震わすほどの間近に迫り、途絶えた。だが次の瞬間、影よりなお黒い物体が隠れていたには小さすぎる闇を突き破って現れた。それは罠に落ちた猛獣の如く研究室を狭しと四本の脚を踏み鳴らし、見得を切るように三つの頭をぐるりと回して咆哮した。

 三島はへなへなと尻餅をつき、そのまま壁まで後ずさった。魔獣ケルベロスの存在自体はもはや驚きではなかった。しかし神話伝説での冥界の番犬などという呼び名より遙かに禍々しい姿が三島を震え上がらせた。さいほどもある巨体には漆黒の針そのものの毛が密生し、尾は風にしなるポプラの若木に似てざわざわとうごめいている。怒れる三つの頭は唸り声を上げつつそれぞれが周囲を睨み、瞳はその中に溶岩が燃えているのか真っ赤な光を放っている。龍さながらの厳つい口吻に収まりきらぬ牙は古代の剣歯虎のようだ。やがて魔獣はひとしきり猛々しく威を示した後、騎士の存在を認めた。魔獣は態度を一変させ、あたかも従順な仔犬の如く身を低くし前脚を揃えて騎士の前に座った。尾は後ろ脚の間に巻き込んでいる。

 『番犬よ。この者が私に代わり冥界を逃れた魂どもを狩る。おまえはこの者を護り、助けとなれ。厳に命ずる』

 「御意、閣下」

 三島はもう一度腰を抜かしそうなほど驚いた。ケルベロスが死神に忠犬のように従っている。しかも言葉を喋った。唖然とするばかりの三島を差し置き、騎士は更に命じた。

 『そのなりではならぬ。控えよ』

 騎士がすいと指差し、魔獣は三つの頭を垂れた。すると巨体がコンピューターグラフィックかとばかりに変化を始めた。三つの頭は中央へ融合して一つになり、尾はしなやかに細く短くなった。猛禽にも勝る鉤爪は丸みを帯び、爛々と光る瞳は鋭さを残したまま深い緋色に落ち着いた。そして黒い巨体はたちまち小さくなり、今や魔獣はまさに犬の大きさとなった。その姿はドーベルマンに酷似しているが、目の上の斑紋が一対でなく二対あるという特徴的な違いがあった。変身を終えた魔獣は一つになった頭を上げ、次の命令を待っている。壁に張り付いて身を小さくしていた三島はようやくそこから離れることができた。

 『三島零時』

 三島は騎士を見た。

 『忘れるな。私とのやくに背けば即座におまえを冥界へ連れて行く』

 騎士は無表情のまま静かに言った。だがその声はこの上もなく非情だった。三島は魂を死の冷たい手に握られたようにおののいた。

 また風が吹いてきた。風は三島をかすめ、騎士へと吹き集まっていく。間もなく旋風が騎士を包み、その姿形がぼやけ始めた。

 「待ってくれ!まだ聞きたいことがある」

 駆け寄ったときには既に騎士は消え去っていた。三島は肩を落としたたずんだ。

 「おい」

 背後で声がした。振り返ると犬の外見になったケルベロスが堂々たる様相で立っている。三島はあっと思い、怖ず怖ずと魔犬に尋ねた。

 「これからどうしたらいい?僕を護ってくれるのか?」

 魔犬は不意に怒りの表情を見せた。それだけではない。額の斑紋がかっと開いた。なんと斑紋は二対の目となり、六つの眼差しが三島を睨んでいる。

 「いい気になるなよ、人間」

 凄味の効いた声で魔犬は三島をおびやかした。更に声は続いた。

 「おまえの飼い犬じゃないぞ」

 この太い声の後、別の声で何らかの言葉があったが聞き取れず、ただ唸り声が耳に届いた。三つの声は全て調子が違った。驚くべきことに一つの頭に三つのパーソナリティーが同居しているようだ。三島は縮み上がった。

 「閣下の命令だ。助けてはやるが、俺に指図しようなどと思うな。死にたくなければ俺の言う通りにしろ」

 「分かった」

 魔獣は意外に高い知性を持っていると判断し、あの恐ろしい姿が目に焼き付いてもいた三島は大人しく従うことにした。死神には忠実なようだから、よもや取って食われはしないだろう。

 「ではおまえの家へ行くぞ」

 「えっ」

 「俺はおまえの監視役でもある。閣下との約束を忘れやしないか見ていてやる」

 死神との契約を反故にする蛮勇など無論三島にはないが、我が家でまで魔獣に監視されるのかと思うと気が滅入った。

 「こいつらを片付けておかないとな」

 魔犬は三人の賊のうちドアの前に倒れている坊主頭の傍に歩み寄った。

 「おまえはその二人を引っ張ってこい」

 そう言って魔犬は男のジャージの襟を咥え、ドアを蹴り開けて軽々と引き摺っていく。

 「えっ、おい、ちょっと」

 三島は慌てて短剣をポケットに差し込み、入れ墨の男の足を持って引っ張った。重い。痩身の三島には骨が折れた。やっとのことで研究所の正面玄関から庭へ出るとケルベロスがじりじりと待っていた。

 「遅いな。もう一人いただろう」

 「いや、重くて」

 肩で息をしながら三島が答えると、魔犬は駆け出してすぐさま研究室から残りの一人を引き摺ってきた。坊主頭と入れ墨の横へどさりと投げ出す。

 「どうするんだ」

 「外に捨てる」

 「警察に連絡した方がいいんじゃないか」

 魔犬は呆れたような表情をした。

 「今までのことを話すのか」

 三島は黙り込んだ。

 「朝には目が覚めるだろうがどうせ何も覚えてはいない。放り出しておけばいい」

 三島は驚いて魔犬に質した。

 「何も覚えていないって、まさか。あんなことをしたのに」

 「こいつらは冥界から逃げた悪人の魂に身体を乗っ取られていたんだ。閣下から聞いたろう。生きてはいるが、乗り移られている間は元の意識や人格は眠っている。だから当然記憶はない。悪い魂が離れたら知らぬ罪で咎められるだろうが、まあこいつらも元々善人ではない。仕方なかろうな」

 「乗り移られた人が悪人じゃなかったらどうするんだ」

 「それは有り得ない。悪人の魂が善人を乗っ取ることはできない。悪人の本性など弱いものだ。所詮同類しか支配できん。善人の強固な魂には近づくことすらできまいよ」

 善良な人を傷つける恐れのないことは分かったが、騎士の言葉にはどうしても気掛かりな事がまだあった。三島は魔犬に尋ねた。

 「死神はあまたの魂と言っていたが、逃げたのは一体どのくらいなんだ」

 「あの方は神ではない。神はただお一人だ。閣下は神が人間に与えた宿命が終わるとき、神に代わって命を狩る役目を掌る方だ」

 質問に答える前に魔犬は厳しい口調で三島を窘めた。三島は決まりの悪い思いをした。魔犬はややおいて言葉を続けた。

 「逃げた魂は数十万というところだ」

 『数十万?』

 驚愕のあまり言葉は声にならず、三島は眼球がこぼれ落ちそうなほど見開いた目で魔犬を凝視した。

 「安心しろ。おまえの相手はその何十分の一にもならん」

 魔犬の言葉は慰めにならなかったが、三島はその意味を問うてみた。

 「どういうことだ」

 「おまえの役目は逃げた奴らの頭目を冥界へ送り返すことだ。それはこの国にいる。その男を見つけ出せばいい」

 「どんな奴か分かってるのか」

 「李英傑という男を知ってるか」

 無論知らぬはずはない。アジア近現代史に巨大な悪名を残した犯罪者である。国籍も本名も不明だが、日本を初め数カ国の血を引き、卓越した頭脳と資金力を武器に1940年代から50年代にかけアジアを暗躍した死の商人だ。体制側、反体制側の両方に取り入って大量の兵器を供給し、自らの利益のためアジア諸国の混乱を裏で長引かせたとされる。日本と複数の国々から国家転覆罪や内乱罪で国際手配された後服毒自殺したが、その正確な素性には今も謎が多い。

 「すぐには辿り着けないだろうから追々言うつもりだったが、少し教えておいてやろう。李英傑が逃亡の首謀者だ。これは冥界で調べが付いている。だが李英傑の魂がどんな人間に乗り移っているのかは分からん。しかし生前足場にしていたこの日本という国にいるのはまず間違いない。何が目的にせよ奴がこの世界中で暴れ回っている連中の指導者である以上、早く冥界へ送り返さなくてはならん」

 『なんてことだ』

 自分が置かれた状況が今完全に明らかになり、三島は死の騎士を恨んだ。恐ろしい人物とそれが率いる世界的な組織と戦わなくてはならないのだ。数えきれぬほどの狼の群れへ踏み込み、その王を狩ろうとする自分の幻が目に浮かんだ。愕然たる表情で沈黙したままの三島に、魔犬が言葉を付け加えた。

 「数ばかりが多くとも、大半はこいつらと変わらん雑魚だ。俺も手を貸してやる」

 三島は今一度魔犬を見た。ケルベロスはその姿であっても冥界の番犬を持って任ずる誇りを凜と表している。三島は背にのしかかる恐怖の重さが少し軽くなった気がした。

 「さて—」

 魔犬が横たわっている三人の男へ近寄った。

 「この向こう側はどうなってる」

 鼻先をしゃくって研究所の敷地と公道を隔てる植木を魔犬が指した。

 「道路だ」

 「そこに誰かいるか」

 三島は腕時計を見た。既に午後十時近くになっていた。研究所のある文教地区の夜は早い。

 「この時間なら通行人はいないと思う」

 それを聞いた魔犬は入れ墨の男の足首を咥え、相手の首筋に食らいついた闘犬のように後ろ脚を踏ん張り、持ち上げては振り回した。男は人形の如くいとも簡単に2メートル余りの高さの植木を越えて放り投げられた。落下音がして、ぐううと呻き声が聞こえた。

 「おい、死んでしまうぞ」

 三島は青くなった。

 「手加減してる」

 魔犬は続けざまに残る二人も投げた。

 「こうしておけば誰かが見つけるだろう。後はなるようになる」

 「目が覚めたらまた誰かを襲うんじゃないのか」

 「あんな連中は憑き物に操られていなければ大したことなどできやすまい。尤もしばらくは身体がガタガタだろうよ」

 魔犬は事も無げに言い、頭を門へと向けた。

 「行くぞ」

 「あっ、待ってくれ」

 出入り口の鍵を取り出そうとポケットに突っ込んだ手に死の騎士から渡された短剣が当たった。柄を握ってみると掌から伝わる重さが今は心強い。魔犬はもう10メートルも先をすたすたと歩いている。剣を鍵に持ち替えて急いで施錠し、小走りで追いながら三島は考えた。犯罪者達と命懸けで対峙したとき、冥界の番犬が本当に自分を護ってくれるだろうか。信じ難いことだ。そう思うと不安でたまらない。しかしこの怪物に念押しするのも気が引ける。こうなってしまったのだから、魔獣の死の騎士への忠節に期待する他はない。恐怖を増幅させるだけに過ぎない悲観は今は忘れよう。おまえは死なぬと死の支配者が言ったのだから。三島は表情に力を込めた。

 「こっちだよ。車がある」

 三島は魔犬に追いついて針のような毛に覆われた背に軽く触れた。ケルベロスは一瞥して三島の歩く方へ従った。砂利を踏む二人の足音が研究所の庭に響く。やがて足音は同調し、不思議な和音となった。

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