第2話



 うたかたの眠りから覚めたように、三島は自分が見知らぬ場所にいることに気づいた。周囲を見る。屋外なのか、屋内なのか判らない。風景と言えるものは何もない。曇り空に似たくすんだ白い空間がただ広がっているだけだ。

 『そうだ、バスの外へ放り出されたんだ』

 記憶が蘇った。僕は死んだのか。あの大音響やガラスが砕け飛び散るさま、そして驚きと悲しみが入り混じった真理の顔が次々と想起されるに従い、遠い世界に来てしまったのだと思わざるを得なかった。しかし早世の名残惜しさよりも祖父母や真理、志郎を悲しませることが堪え難かった。三島は膝を突いてくずおれた。

 『三島零時』

 今のは声だったか。三島は顔を上げ再び周りを見た。白い空間は涙で霞んでいたが、誰の姿も見つからなかった。

 『起きよ三島零時』

 聞こえる。呼んでいる。促す声に操られる如く三島は身体を起こし、聴覚に神経を集めた。清流を思わせる澄んだ声色はまた静かでいて岩を貫く強さの冷厳な響きがあった。誰が名を呼ぶのか。でも、死んだのなら、この声は?唯一にして絶対の存在を三島が思い始めたとき、声が鋭く思考を遮った。

 『おまえは私の助けが必要となる。私を希求せよ』

 「あなたは誰ですか」

 意外な言葉に三島は戸惑い、返答は望めぬと思いながらも声の主に問うた。返事はない。声は止み、空間は沈黙の世界へ返った。静寂に取り残された三島は不安に襲われた。僕はこの何もない場所に迷ってしまうのか。誰にも会えぬまま永遠を過ごすのか。取り巻く空間の白さがのしかかり、押し潰されそうだった。

 「助けて!僕を導いてくれ!」

 三島は上方を仰ぎ、焦燥と不安に駆られてふらふらと歩き出した。足は次第に速くなり、気付けば何者かに手を引かれるように走っていた。接地感は希薄になり、雲を踏み分けて空を走るかの如くに身体が軽く感じられる。胸中に希望が湧き起こった。あの声は啓示に違いない。

 そしてどのくらい走ったか、白い景色の遠くに仄かな光が見えた。そうだ、やはり—今や踵には羽が生え、見えざる手が自分を掬い上げてくれるとさえ思えた。光に手が届くかという所へ到ったとき、三島はその一条を掴もうとした。すると光はたちまち量を増し、まばゆい輝きとなって三島を照らした。眩む目を思わず閉じて立ち尽くすと、身体が引き込まれていくのを感じる。抗わず身を投じた。燦然たる光の中を三島は瞳を閉じたまま飛んだ。どこへ行くのか。何も判らなくとも不安は感じない。ただ誰かに導かれているという確信があった。自分を待っているはずの父母か、それとも—。

 そのとき、密やかな音が耳に届いた。名を呼ぶ声だ。それはあの奔流の如く意識に浸入する強い響きではなく、懐かしさと優しさを帯びた囁きだった。

 『零時さん』

 繰り返すその声は遠い波止場の霧笛が海原に迷う船を呼ぶように三島を誘った。すがる思いで三島は両手を伸ばし、声の在処ありかを探した。すると突然手を取った者がいた。探し焦がれた相手を放すまいとするかに強く手を握るその感触は暖かい。三島は驚いて声を上げ、光を避けて閉じていた瞼を開いた。

 「零時さん、零時さん!」

 真理が手を握って懸命に呼びかけていた。紅潮した頬が濡れている。だが悲しみの影が差していた表情に安堵と喜びの色が浮かんだ。

 「零時さん、よかった…」

 一言呟いて真理は三島の顔を見つめた。

 三島は目の前に真理がいることに驚いた。ここはどこなのか。周囲を見回して、ベッドに寝ていることに気づいた。殺風景な白い部屋だが、眩しくはない。記憶の順序が混乱した。

 『僕は死んで—』

 あの光の世界を思い出したとき、三島は今まで自分がいた所とは明らかに違う場所にいることを理解した。

 真理はもう一度三島の手を握った後、俯いて目元を拭った。そして微笑し、また明日来ますと言って部屋を出て行った。

 真理と入れ替わって中年の看護師が入ってきた。気が付きましたか、あなたは丸一日眠っていたんですと告げた。病院と気づき、三島は手足を少し動かしてみた。痛みは感じない。看護師は笑顔でどこにも怪我がなくてよかったと言った。

 『戻ってきたのか』

 三島は手に残る暖かな感触に自分を引き戻してくれたのは真理だったのかと考えた。ところが次の瞬間、厳かで冷たい響きの声の記憶が雷鳴のように頭の中で再生された。

 『違う、僕を呼び戻したのは…』

 漠とした不安が全身に拡がっていく。三島は自分が生の喜びと恐怖のあわいにいることを自覚した。

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