事故物件の怪
第1話
―閉店後の烏鵲堂
伊織が珍しく眉間にしわを刻みながらテーブルに広げた情報誌とにらめっこをしている。腕組をして首を傾げたり、頬杖をついてみたり、ずいぶん真剣な様子だ。
「まだ悩んでいるのか」
厨房で仕込みを終えた曹瑛がやってきて、空になったグラスに湯を注ぐ。西湖龍井の柔らかい茶葉が湯の中でふわりと舞う。伊織が読んでいるのは賃貸住宅の情報誌だ。そういえばこの間、長年住んでいる池袋のアパートから追い出されると話していた。
「住む場所を決めるのは難しいね」
伊織は重いため息を漏らす。新卒で東京にやってくるとき、どこに住むのか決めるためにいろんな町へ足を運んだ。東京への憧れと土地勘を掴もうという意欲があり、なにより若かった。
それが今は必要に迫られての引越だ。8年も落ち着いてしまったら移動するのが面倒な気分だった。
しかし、住み慣れた池袋周辺で探すとなれば、今よりも条件が悪い部屋しかない。今の大家さんは良心的だったとしみじみ思った。
「ここはどうだ」
正面に座った曹瑛が指差したのは、駅から徒歩3分、築5年、2LDKの賃貸マンション、文句無しの好物件だ。しかし、伊織は目を見開いて首を振る。
「無理だよ」
「それならここは」
「無理だって」
「わがままな奴だ」
曹瑛はムッとした表情で伊織を見据える。
「俺はしがないサラリーマンなんだよ」
曹瑛の勧める物件は伊織の月給を全額投入しても払えない家賃だ。悲しいかな、金銭感覚の違いに大きな溝がある。
階段を上る足音が聞こえてきた。特徴的な力強い靴音は榊だ。背後には書店の片付けを終えた高谷が顔を覗かせている。
「お、物件探しか」
榊は伊織の隣に腰掛ける。得意分野らしく、情報誌を取り上げページを捲る。
「伊織の職場は新橋だったな。山手線か京浜東北線の沿線がいいんじゃないか」
「そうだね、職場にアクセスが良い場所がいいかな」
「エリアでいけば、荒川を越えると家賃が安くなる」
榊は学生街なら家賃も安いと的確なアドバイスをくれる。駅前の商業施設の有無や街の治安についてもよく知っていた。
「ありがとう、条件選びの参考になったよ」
伊織の表情が明るくなる。曹瑛は面白く無さそうにあくびをかみ殺していた。
***
JR蒲田駅から徒歩12分、繁華街のはずれにある「サニーサイド蒲田」は築28年の木造2階建てのアパートだ。あれこれ悩んだ結果、京浜東北線と京急線が通っておりアクセスがよく、駅前直結で商店街があることからこの街を選んだ。アパートの部屋は1DKの2階、リビングが八畳あるのが魅力的だ。
家具はもともと最小限で、池袋のアパートでさらに断捨離をしたので身軽に引越ができた。
伊織は引越の手伝いにやってきた曹瑛に榊、高谷にそばを振る舞う。
「引越そばといって、おそばに越してきました、末永くおそばに、という意味があるんだよ。江戸時代に始まった風習で、家主と向こう三軒両隣に配ったんだって」
曹瑛はそばを啜りながら興味深く伊織の話を聞いている。
「今はタオルか菓子折だね」
そもそも若い人は引越の挨拶をしないから、今誰が隣に住んでいるのか知らないと高谷が笑う。
「蒲田か、なかなか面白い街を選んだな」
榊が苦笑する。治安に難あり、というのは伊織も知っていた。
「うん、でもまあ交通も買い物も便利だし、ここは繁華街から少し離れているからね」
それに周辺は住宅街だ、そう心配はしていなかった。
「この辺は飲食店も多いな」
曹瑛もちゃっかりチェックしているようだ。
「羽根つき餃子の有名なお店があるね」
庶民的で美味い飲食店が多いのは確かだ。伊織も新規開拓を楽しみにしている。
***
引っ越して初めての夜だ。シャワーを済ませてベッドに横になる。京浜東北線の通過する音と繁華街の喧噪が微かに聞こえてくるほどで、慣れたら気にはならないだろう。隣に住人がいないので、生活音が気になることはしばらく無い。1階の部屋は単身者と思われて、静かなものだった。
救急車やパトカーのサイレンが夜中に頻繁に鳴り響くのは前の住まいでも同じなので、やむなしというところだ。
なにより、この部屋は池袋の部屋よりも広くて快適だ。新天地蒲田での生活が楽しみになってきた。引越の疲れもあり、伊織はうとうとし始めた。
ふと、どんどんと上階を歩き回る音が聞こえ、ハッと目を覚ました。時計を見れば、夜の12時半だ、こんな時間に騒音を立てるなんて思いやられる。
「いや、おかしいぞ」
このアパートは2階建てで、この部屋は2階だ。つまり、上階は無い。それならばこの音は一体何なのか。伊織は肌が粟立つのを感じた。ふとんの中で身を固くして、天井を見つめる。
ごそごそと這い回るような音が聞こえ始めた。音の感じからしてねずみなどの小動物ではない。実家の天井裏にねずみが住み着いたことがあった。ねずみの走り回る音はトントントンと軽快でかわいいものだ。
一体、天井に何がいるのだろうか。ふと、天井の板がズレていることに気が付いた。昼間に気が付かなかったのだろうか、明日管理会社に連絡しなければ。そう思ったとき、暗い天井裏に影が差す。闇に目を凝らしてみると、二つ並んだ白い目が見えた。誰かが天井から覗いている。
背筋に氷水を流し込まれたように、一気に血の気が引いた。天井裏にいったい何が潜んでいるのか。緊張で身体が動かない。口の中はからからだ。
「きっと気のせいだ」
伊織は自分に言い聞かせる。目をぎゅっと閉じた。お願いだから消えてくれ、そう願ってもう一度目を開けると、影は消えて天井の板は元通りにはまっていた。
天井からガサッと音がした。伊織は身を震わせる。音はだんだん遠くなり、やがて聞こえなくなった。
「気のせい、気のせい」
伊織は念仏のように呟きながら、いつの間にか眠りに落ちた。
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