第2話
「出たんだよ」
伊織が顔を恐怖に凍り付かせ、低い声で呟く。正面に座る榊と高谷は、伊織の只ならぬ迫力に思わず顔を見合わせる。伊織の話では、引っ越し先の蒲田のアパートで怪異が起きるという。
初日は天井裏で物音がして、天井から何かが覗いていた。翌日も、仕事から帰って眠りにつこうとしたら、ベランダ側のカーテンからネオンの明かりに照らされた人影が映っていたという。
「そいつは事故物件かもしれないな」
腕組をしながら神妙な顔で聞いていた榊は、曹瑛がグラスで淹れた南京雨花茶を口に含む。爽やかな黄緑色の水色の茶で、上品で濃い香りが特徴だ。
「事故物件」
不穏な響きを伊織が反芻する。
「住人が自然死や不慮の事故以外で死んだ物件、つまり自殺や他殺というやつだ」
榊が縁なし眼鏡をくいと持ち上げる。
「ええっ、そんな」
伊織はショックで蒼白になり頭を抱える。自分が見たのは不慮の死を遂げたかつての住人の怨霊なのだろうか。せっかく引越を終えて新たな気持ちで生活しようというのに、怪奇現象に遭うなんてついてないにもほどがある。
「そういえば、条件が良かったって言ってたよね」
追い打ちをかける高谷の言葉に、伊織は唇を引き結ぶ。駅から近い住宅街で、部屋は広くてリニューアルされて快適だった。
「他の物件と比べて2割から3割程度相場よりも家賃が安いと相応の理由があるかもしれないな。事故物件の見分け方のひとつだ」
榊が高谷の意見を肯定する。
「お祓いにいくことにするよ」
深刻な顔で呟く伊織を、曹瑛が鼻を鳴らして笑う。明日の仕込みが終わったらしく、南京雨花茶を手に隣のテーブルについて、足を組む。
「笑い事じゃないよ、瑛さん」
伊織は不満げに曹瑛を見やる。
「榊の戯れ言を真に受けるな」
「えっ」
伊織が榊を見ると、口の端を吊り上げて笑いを堪えている。
「悪い、お前があまりに深刻だったもんでつい」
榊は堪えきれず吹き出した。伊織は口をへの字にして複雑な表情を浮かべている。
「しかし、“幽霊”はお前の部屋に興味があるようだな」
ひとしきり笑った榊は真顔に戻る。
「そんな、勘弁してよ」
こっちはちゃんと家賃を払っている、伊織はげんなりして頬杖をつく。
「お前の部屋の隣は空室だったな」
「そうだよ」
曹瑛の言葉の意図が分からず、伊織は眉根をしかめる。
***
神保町の烏鵲堂からJR線を乗り継いで蒲田駅へ。駅舎の時計は夜二十時半を指している。東口を出て喧噪まっただ中の繁華街を抜け、呑川の橋を渡る。
一人歩く伊織は背後に気配を感じた。つかず離れず、駅から歩調を合わせてついてくる者がいる。この辺りは住宅街だ。同じ方角へ帰る人かもしれない。
伊織は思いついたように、突然振り返る。橋を渡る手前のコンビニエンスストアに用があるのを思い出した素振りで足早に駆けた。
チラリと様子を見れば、ライトブルーの長袖シャツに白いTシャツ、ベージュのチノパン姿の四十代後半くらいの男だ。一瞬足を留めたが、そのまま歩き去っていった。
誰かに付け狙われる覚えはない、考えすぎだろうか。ドリンクコーナーでペットボトルのお茶を選んでいると、隣に気配を感じた。横目で見やればあの男だ。
「ちょっと、いいですか」
声を潜めて話しかけてきた。伊織は内心動揺するが、平静を装う。
「君と話がしたい」
男はドリンクを選ぶ振りをしながら、小声で続ける。突然他人に話しかけるなんでよほどのことだ、伊織は警戒する。
「なぜ俺と、あなたとは初対面だ」
「君の部屋に関係することだ」
伊織は目を見開く。驚嘆の声を慌てて呑み込んだ。
***
同じ頃、曹瑛と榊は伊織のアパートへ向かっていた。BMWを少し離れたコインパーキングに停める。繁華街の喧噪が遠く聞こえているが、住宅街には人気がない。アパートの階段を上り、一番奥の伊織の部屋、その一つ手前で立ち止まる。
曹瑛はドアノブを注視する。鍵穴に若干傷がついていることに気が付いた。思った通りだ。曹瑛は革の手袋を嵌め、ドアノブを回す。ドアはあっさり開いた。周囲を警戒し、榊とともに部屋に滑り込む。
部屋の中は暗いがブレーカーが落とされているため、電気をつけることはできない。カーテンの無い窓から赤や黄色のけばけばしく移り変わるネオンの反射光が差し込んでいる。
「靴の跡だ」
スマートフォンのライトで部屋を照らしながら曹瑛が呟く。
「行儀の悪いやつだ、土足で上がり込むとは」
榊が鼻を鳴らす。曹瑛はクローゼットへ向かい、その天井をライトで照らした。
「ここから侵入した」
天井の板が破壊されている。クローゼット内にも靴後が残っていた。おまけに吸い殻まで落ちていた。
「屋根裏はひと続きか」
榊も天井を見上げる。ポケットのスマートフォンが振動している。弟の高谷からのラインだ。
「伊織の部屋の前の住人を調べがついた」
高谷は不動産屋のデータベースに侵入し、手早く一仕事終えたようだ
「前の住人は失踪か、キナ臭いな」
榊は口元に不敵な笑みを浮かべる。
曹瑛がベランダを覗き込む。鍵は開いたままだ。ベランダはひと続きで、その気になれば簡単に隣へ抜けられる構造だ。これで伊織が目撃したベランダの人影にも理由がつく。
「ここにもう用はない」
曹瑛は部屋を出る。榊も後に続いた。そのまま駅前の繁華街へ。高谷と待ち合わせをしている店へ向かいながら、榊が伊織の電話を鳴らした。しかし、10コールしても繋がらない。
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