第2話 アートギャラリーすばる
「お、結紀じゃないか」
銀座通りを歩いていた高谷は、人混みの中正面からやってきた大学の同期に声をかけられた。
「三井じゃん、今日はデートか」
高谷は軽く手を上げる。1年浪人、1年留年している三井は高谷より2つ年上だ。隣には同じ大学の彼女を連れている。三井は親が裕福らしく、自力で学費、生活費を賄っている自分とは価値観が合わないのでさほど仲が良いわけではない。
「クリスマスにプレゼント買わないといけなくてさ。ところで、隣の人って」
ヤクザか、と三井は小声で訊ねる。高谷の隣に、チャコールグレーのコートに黒のピンストライプのダブルスーツ、ダークグレーのシャツ、紺色のタイの長身の男が立っている。縁なし眼鏡の奥の眼光鋭い瞳が、軽く下ろした前髪の間からのぞいている。
「バカ、俺の兄さんだよ」
高谷に小突かれた三井は目を見開いて驚く。小柄で細身、アイドル顔負けのベイビーフェイスの同級生の兄がこんな強面の男とは。榊は三井を見下ろす。
「言っておくが俺はカタギだ、小僧」
「ひぇ、すみません」
三井は彼女を連れて人混みに紛れるように立ち去った。
「失礼なガキだ」
榊が小さく舌打ちをする。これではヤクザ顔負けだ。高谷はさすがに三井を気の毒に思った。
今日は榊とブルガリのカフェでアフタヌーンティーをすることになっている。榊が愛用の時計、オクトローマの電池交換に行くというので、おねだりをしてみたら乗ってくれたのだ。
「お前には頭が上がらないからな」
榊がグローバルフォース社に訪問するとき、高谷は女性秘書に扮して同行した。予想通り、ライアンは榊との恋仲を社員にアピールして既成事実にするため、手の込んだ嫌がらせを仕掛けてきた。高谷のおかげで榊はバイで二股野郎ということに着地した。全然良くはないが、ライアンのパートナーと思われるよりは多少マシだと思っている。
一階ジュエリー・ウォッチフロアでオクト・ローマを預ける。電池交換とクリーニングのベーシックサービスで1ヶ月。腕元が寂しくなる。
「では、お預かりします」
上品な声音の女性店員が榊の腕時計をトレイに載せてタグをつける。
「これからアフタヌーンティーですか、イル・バールは10階です。どうぞ楽しんでください」
メンテナンスの伝票を受け取り、エレベーターで10階へ案内される。9階はレストラン、10階がバーになっている。
「俺もバーの方は初めてだ」
榊が初めてという店に一緒に来ることができた。高谷は思わず嬉しくなる。
バーはガラス張りで、レースカーテン越しに正面に立つカルティエのビルが見えた。テーブル席は満席だ。時期的にカップルが多いようだ。
「えへへ、一度来たかったんだ」
嬉しそうな高谷の顔を見て、榊も頬を緩める。高谷は十一歳も年の離れた弟だ。父親は同じだが、母親はそれぞれに違う。高谷はいわゆる妾腹で、榊が父の後継を拒否したために連れてこられた。父の不実が原因とは言え、高谷が振り回されたのは自分のせいだ。榊はそう認識している。しかし、高谷は自分を恨むことなく慕っている。榊は何があっても高谷を守ろうと決めている。
ウエイターがやってきて、ドリンクを尋ねる。榊はハーブティーのバニラルイボス、高谷はゴールデンアッサムを注文する。大きなポットと白いティーカップが大理石のテーブルに並ぶ。
「夜ならシャンパンでもいいんだが」
ゆったりと足を組んだ榊は、ハーブティーの香りを楽しみながら口に含む。アフタヌーンティーセットはボックスになっており、黒色の小さなお重がテーブルに置かれる。3つの小箱が展開され、中にはスープ、サンドイッチ、焼き菓子やプリンなどのスイーツが並ぶ。
「すごい、宝箱みたいだ」
高谷は小箱を覗き込んで目を輝かせる。ラズベリーソースのプリンには小さなバラの花びらが散らしてある。スイーツボックスの中央にはブルガリのロゴが入った丸いチョコレート、上には金箔が散りばめてあった。
「あとから腹が減りそうだな」
ハンバーガーやキッシュは一口サイズ、スイーツも小ぶりだ。榊はこのあとラーメンでも食べに行くかと冗談を言っているが、おそらく本気なのだろう。
優雅なティータイムを楽しんで、ブルガリのショップを出た途端、雑踏の中で一際目立つブロンドが見えた。ブラウンのチェスターコートに、グレーのスーツを着こなした長身の欧米人だ。ブルガリタワーの正面にあるカルティエのショップから丁度出てきたところのようだ。高谷は目を見開き、思わず口に手を当てる。
「どうした、結紀」
呑気な様子の榊にも緊張が走った。ライアン・ハンターだ。この間熱海で別れて数日、まだ日本にいたのか。
「英臣、結紀、奇遇だね」
ライアンはこちらに気が付いたようで、にこやかに歩み寄ってきた。
「今、買い物を済ませたところなんだよ、カフェでお茶でもどうだね」
「俺たちはさっき茶を済ませてきたところだ。この後ラーメンを食いに行く」
榊はライアンの誘いをやんわりと断ろうとしている。
「いいね、私も食事をしようと思っていたところだ。一緒にいいかな」
ラーメンだろうが、立ち食いそばだろうがライアンは一緒についてくるというだろう。榊は観念した。高谷は隣でため息をついている。
「ライアン、榊さんとのデートの邪魔しないでよ」
高谷がライアンにくってかかる。
「無粋な真似をしたかな、だが君とは英臣を巡るライバルだ。ここで引くわけにはいかないよ」
物腰は上品だが、ライアンは押しが強い。結局、三人で近くにある榊の画廊に立ち寄ることになった。
銀座通りから1本中のすずらん通りは、古くからの個人商店や喫茶店が並ぶ静かな通りだ。榊がオーナーを務める画廊“アートギャラリーすばる”はすずらん通りの角地に立っている。
ブルガリのアフタヌーンティーが上品なサイズとはいえ、ひとつひとつが濃厚でさすがにまだ腹は減っていなかった。画廊の商談スペースはくつろげるし、近くの喫茶店からコーヒーの出前を頼める。
「あれ、榊さんに高谷くん、ライアンも」
すずらん通りの店から出てきた伊織と顔を合わせた。曹瑛も一緒だ。何の店かとショーウインドウを見れば、刀剣を扱う店だ。日本刀や戦国時代の日本の鎧がディスプレイされている。曹瑛は小脇に書籍を抱えていた。ナイフを武器とする曹瑛は、刃物に興味があったのだろう。
「そこにうちの画廊がある、休憩でもどうだ」
伊織が頷く前に曹瑛が首を横に振る。
「いや、帰る」
「野暮なことを言うな、すぐ近くだ」
ライアンに構われたくない榊は曹瑛を巻き込んでおきたいらしく、語気を強める。その姿はまるで脅しだ。しかし、関わりたくない曹瑛はフンと顔を背けている。
「画廊横の喫茶店から出前を頼んでやる。プリンとフルーツが乗ったパフェが名物だぞ」
榊の策に曹瑛はあっさり落ちた。
寒空にサイレンが鳴り響く。大通りの方からだ。消防車と、遅れてパトカーのサイレンもついてきた。通りは騒然としている。
「火事か、多いな。さっきもどこかでボヤがあったようだ」
榊はすばるのドアを開き、皆を中へ招き入れた。
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