第3話 宝石店強盗
休日とあって、ギャラリーはお客さんで賑わっていた。“アートギャラリーすばる”は銀座すずらん通りの角地という立地の良さで、通りすがりの人たちの目にもつきやすい。画廊の管理を任せている桐野老人は美術界に顔が利くらしく、いつも目を引く企画を持ち込んでくるためセレブな固定客も多い。展示品についている売約済の札も増えたようだ。
受付に立つスーツ姿の女性が画廊のオーナーである榊を見つけて会釈をする。榊は地下への階段を降りていく。高谷にライアン、曹瑛、伊織が後に続く。コンクリート打ちっぱなしの階段を降りると、ベージュの絨毯を敷き詰めたフロアに瀟洒な応接セットがあった。受付の女性が皆のコートをハンガーにかけてくる。
「楽にしてくれ」
榊はそう言いながら自分もソファに身体を預け、足を組む。榊が隣の喫茶店のメニュー表を取り出し、テーブルに置いた。商談中にコーヒーの出前をよく頼むのだ。
「俺はコーヒーでいい」
榊はブルーマウンテンを選んだ。ライアンも同じものを、高谷はカフェラテ、伊織と曹瑛は紅茶にした。曹瑛はメニュー写真を真剣に見つめ、眉根に皺を刻んでいる。
「これは何だ」
曹瑛が写真を指さしながら訊ねる。
「ああ、これはハニートーストだ」
厚みのある食パンに、アイス、スライスしたバナナ、いちご、たっぷりの生クリーム、滴るほどのチョコレートソースがかかっている。
「これは一人で食べるもんじゃないぞ」
榊が忠告する。曹瑛が横に座る伊織をじっと見据える。
「瑛さん食べたいんだよね。ちょっとなら手伝うよ」
先ほどもんじゃ焼きの店でしこたま食べたのに、こんなハードなものが欲しいとは。伊織は半笑いだ。榊はスマートフォンで全員分の飲み物とチョコレートがけのハニートーストを注文した。
「ニューイヤーの休暇は日本で過ごそうと思っているんだよ」
飲み物とハイカロリーの怪物が届くのを待つ間、ライアンが榊と曹瑛を見比べて微笑む。榊は白目を剥いて、曹瑛は目を合わせようとしない。
「いいんじゃないか、日本の正月を楽しんでくれ」
「それで、箱根に君たちを招待しようと思っている」
ライアンはやんわりと断ろうとする榊に強引にかぶせていく。
「箱根だと」
榊は警戒しながらも興味を惹かれた様子だ。榊は温泉に目が無い。温泉と聞くと釣られてしまう兄と、それを利用するライアンのあざとさに高谷は半ば呆れている。
「箱根に大正時代に建てられた洋館があるんだよ。何度も改修されて綺麗に使われていたようだが、この秋管理者が高齢のために手放したんだ。それをうちが買い取って、高級ホテルとしてリノベーションしようというわけだ」
ライアンはグローバルフォース社というニューヨークを拠点としたコンサルタント会社のCEOを務めており、同社は日本にも法人を持つ。ホテルなどリゾート施設のリノベーションを手がける部門もあり、榊も時々ビジネスパートナーとして協業していた。
今回の話もCEOであるライアンがわざわざ出張る程の案件では無いが、愛しい榊と過ごすために何かと理由をつけているのだ。もちろん、ゲイであるライアンに理解を示すものの、本人は至ってヘテロセクシャルな榊はできるだけ関わりたくはないと常々思っている。
「洋館は電気も水道も問題無い。風呂の湯も出るが、近くに温泉地がある」
榊は腕組をしながら真剣に考えている。
「榊さん、品川にも温泉はあるよ」
高谷が揺れる榊を説得する。
「いや、だがしかし箱根の湯は別格だ。しかもこの時期なら、露天風呂で雪見酒という楽しみもある」
品川にあるのは一応天然温泉だが、日帰りのスーパー銭湯だ。榊はすっかりライアンの手中に嵌まっていた。
すばる隣の喫茶店“マリー”から飲み物とハニートーストが運ばれてきた。ウエイターが慣れた手つきでテーブルに飲み物を置いていく。最後に置かれたハニートーストを見て、全員がおぉ、と感嘆の声を上げた。とりわけ用の小皿とフォークは人数分揃っている。
「すごい盛りだね、俺ももらおうかな」
先ほどまでアフタヌーンティーで甘いものを食べていた高谷も、目の前のゴージャスなハニートーストを見てつまみたくなったようだ。10センチ以上もあるデニッシュ生地のパンに、フルーツやクリーム、アイスがデコレーションされたている。曹瑛も珍しいようで、まじまじと見つめている。高谷が器用に切り分けると、早速曹瑛が手を伸ばした。
「結紀に、曹瑛と伊織、君たちも行こう」
箱根のある意味プライベートホテルで年越しも悪くはない、それに断ればライアンがここぞとばかりに榊にアプローチするだろう、そんなことは許せない。使命感にも似た気持ちで高谷は首を縦に振る。
「俺も、秋のお彼岸のときに実家に帰ったし、年末年始はこっちにいるから一緒に行こうかな」
伊織も乗り気だ。
「きっと良い思い出になる」
ライアンは道連れが増えることに喜んでいる。
先ほどから黙々とハニートーストを口に運ぶ曹瑛に注目が集まった。
「お前はどうする、曹瑛」
榊はブルーマウンテンのコク深い香りを楽しみながら口に含む。コーヒーカップはウエッジウッドだ。通常、出前には無名メーカーの無地の器を使うが、すばるには特別に店で使っているのと同じ器で持って来てくれる。
「考えておく」
曹瑛は無愛想にそれだけ言って、いちごを口に放り込んだ。隣に座る伊織が笑いながら小さく頷く。つまり、曹瑛も同意したということだ。
「では、また連絡するよ」
ライアンはこれから日本法人の幹部たちと会食があると、颯爽とすばるを出て行く。箱根に行けることがよほど嬉しいらしく、見るからに上機嫌だった。
「先ほどの火事は誤報だったようです」
桐野老人が近所の耳聡い画廊仲間から何やら情報を仕入れてきたようだ。
「それは良かった」
「それが、そうでも無いんです。通報があったのは銀座通りの宝飾店“ジュエリーポーラスター”で、ゴタゴタに紛れて盗難もあったようです」
「物騒な話だな」
すばるでもそれなりの高額な美術品を預かっている。火事や盗難は聞きたく無い話題だ。榊は眉根を顰めた。曹瑛が最後の一切れを口に含む。いつの間にか、あれだけの容量があったハニートーストはすっかりたいらげられていた。
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