第12話 剛拳ぶつかる
水のないプールをリングにして獅子堂と坊主頭が睨み合う。坊主頭はよほど腕に自信があるらしく、拳をポキポキ鳴らし、歯を剥き出しにして笑う。
「そこに隠れてたら良いものを、お前は運の無い奴だ」
坊主頭は野太い声で脅しをかける。獅子堂は眉ひとつ動かさず、じっと坊主頭を見据えている。
「お前もどうやら裏社会の人間のようだな。俺は唐沢大悟、聞いたことがあるだろう」
全く動じない獅子堂に同じ匂いを感じ取った坊主頭は、興奮気味に血走った目を見開く。
「本家から破門され、解散した横浜羅刹会の用心棒だった男か。凶暴で、加減を知らない狂犬と聞いている」
獅子堂はその名を聞いて一瞬目を細めたが、こみ上げる不快な感情を押し殺した。唐沢は首を左右に傾け、ゴキリと骨を鳴らした。
「今は鈴村組の犬か。頭の悪い犬は頭の悪い飼い主に懐くらしい」
獅子堂は鼻を鳴らして笑う。坊主頭は目尻とピクリと痙攣させる。こめかみに血管を浮かせた顔は怒りでみるみる真っ赤になっていく。
「減らず口を叩けねえようにしてやる」
唐沢が右フックで獅子堂に殴りかかる。獅子堂は軸足をそのままに、身体の重心をずらして拳をかわす。唐沢は間髪入れず左のアッパーを繰り出す。獅子堂は上体をのけぞらせる。顎に当たる風圧から、拳をまともに食らえばかなりのダメージがあるだろう
獅子堂は身を屈めて唐沢の脇腹に拳をめり込ませる。唐沢は一瞬顔を歪めるが、怯むことなく右ストレートを放つ。拳は獅子堂の頬を掠め、肌には赤い筋が浮かび上がる。
「俺の殺人ストレート、よく避けたな」
唐沢はボクサー崩れだと聞いたことがある。ガタイがデカい割りにスピードがある。拳の威力もハッタリではなく、油断できない。
「この拳で生意気なチンピラ共を二十人以上病院送りにしてやった。お前の全身の骨を砕いてやる」
唐沢はフットワークを使いながら鋭い拳を繰り出す。獅子堂は守りに徹し、じりじりと後退していく。ガードしても重い拳がダメージを蓄積させていく。
「どうした、さっきまでの余裕が無くなってきたぞ」
唐沢は笑いながら拳を振るい続ける。かなり押しているはずだが、獅子堂の青い目は凛とした光を湛えてじっとこちらを見据えている。それは追い詰められた男の目ではない。
「手も足も出ないだろう」
唐沢の動きにキレが無くなってきた。明らかに拳のスピードが鈍っている。獅子堂は左のアッパーを大きく空振りした唐沢の鳩尾に重い拳を突き上げた。
「ぐえっ」
胃をえぐられるような拳に、唐沢は呻いて思わず後退る。胃液が喉元までこみ上げてきたのを飲み込んだ。獅子堂は唐沢の膝にローキックを放つ。唐沢はガクンと崩れ落ち、片膝をついた。獅子堂は間髪入れず右ストレートを放つ。唐沢はそれを両腕でガードした。獅子堂の拳は唐沢にダメージを与えられずに空を切る。バランスを崩した、かに見えたが獅子堂は脚を振り上げ、唐沢の脳天に踵落としを決めた。
「くはっ」
背骨に突き抜ける衝撃に、唐沢は白目を剥いてその場に倒れる。すぐに体勢を立て直そうと起き上がるが、平衡感覚を失って足元が覚束ない。
「クソッタレ、この俺が、何故だ」
唐沢は叫びながら頭を振る。
「お前は弱い者を踏みつけにしてきたに過ぎない。その腐った根性でプロの拳も鈍ったことに気が付かなかったようだな」
獅子堂は拳を下ろし、唐沢を見下げている。唐沢は憤怒の表情で獅子堂を睨み付けている。
「お前、もしかして獅子堂和真か」
唐沢の表情が変わった。
「羅刹会に単身殴り込みをかけ、一夜にして壊滅させた男・・・日系だが金髪碧眼、2メートル近い長身の男と聞いている」
唐沢は獅子堂を見つめながら呆然としている。獅子堂は表情を変えない。唐沢は肩を揺らしながら狂ったように笑い出した。
「俺はあの夜、幹部の用心棒で東京にいた。あのとき俺が事務所にいたら、お前に勝手な真似はさせなかった」
唐沢は思い出す。知らせを聞いて飛んで帰った。ドアを開ければ、組事務所は破壊し尽くされ、見知った構成員たちが床に倒れて血を流し、呻き声を上げていた。まさに阿鼻叫喚の様相だった。
「羅刹会は道義にもとる。お前は運が良かった。あの場にいたらお前も病院送りだった」
「貴様だけは許さねえ」
唐沢は怒りに任せて足元の排水溝の鉄の蓋を持ち上げた。四角い格子状の蓋はかなり重量がある。唐沢はそれを振り回し始めた。
「ぶっ殺してやる」
雄叫びを上げ、唐沢は鉄の蓋を武器に獅子堂に襲いかかる。強力な一撃がプールの壁を抉り、コンクリート片が剥落した。
「うわははは、こいつにはかなわねえだろう」
勢い付いた唐沢は、蓋を振り回しながら獅子堂を追う。獅子堂は反撃も出来ずに避けるだけだ。しかし、その顔に焦りはない。
「どうした、逃げるだけか」
唐沢が大きく踏み出した足が、膝まで埋没した。その弾みで派手に転倒する。排水溝の蓋を取ったために、ぽっかり開いた穴に自ら落ちたのだ。排水溝には長年の泥がつまり、落下することは免れた。
「まさに墓穴を掘ったな」
獅子堂は口の端を吊り上げて笑う。
「ふ、ふざけやがって」
獅子堂は投げ出された鉄の蓋を拾い上げ、ぶん投げた。怒号を上がる唐沢の顔面にヒットし、鼻がへしゃげて前歯が3本飛ぶのが見えた。唐沢は白目を剥いてその場につっぷした。
***
―廃ホテルのラウンジ内。
ホテルプロジェクト中止の声明と、身代金要求のためのビデオメッセージの撮影の準備が進められていた。武藤は魏秀永に扮した伊織の顔をまじまじと見つめる。
「あんた、さっきから一言もしゃべらねえね」
伊織の心臓が跳ねる。京劇の化粧で誤魔化せるとは思っていなかったが、案外時間を稼ぐことはできた。しかし、もうダメだ。
「彼はとても恐ろしくて、ショックを受けているんだよ」
ライアンがフォローを入れる。しかし、武藤は唇をへの字に曲げて首を傾げている。
「これは怖がっている奴の目じゃあねえな」
顎を撫でながらニヤリと笑う。魏秀永は無言だが、じっとこちらをまっすぐに見据えている。怯えた人間がこんな強い目をしているわけはない。
「おい、こいつの化粧を落とせ」
武藤は部下に命令する。黒スーツの部下たちがバケツに水を汲んできた。
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