第13話 大ピンチ
カーステレオから流れる女性シンガーの曲に合わせて、助手席からご機嫌な鼻歌が聞こえてくる。掠われた自社のCEOライアン・ハンターとゲストの魏秀永、に扮した伊織を追って、千弥は赤いワーゲンを飛ばす。
「あなたは気楽でいいわね」
千弥の皮肉に、助手席のシートを思い切り倒して寛いでいる郭皓淳はにっこり微笑む。
「そりゃあ、こんな美人と二人きりでドライブなんて楽しいだろ」
郭皓淳の軽口に、千弥はふいと顔を背ける。自分がトランスジェンダー女性と知ってもこんな軽口を叩くとは。しかし、本気で怒る気にさせないところがこの男の人柄なのだろう。
劉玲からライアンと伊織、誘拐犯たちは熱海の廃ホテルに籠もっていると連絡があった。劉玲たちも向かっているというから心配はない、そう思いながらも気持ちが逸る。
「君のボスが一緒なら伊織も大丈夫だ。あいつはああ見えて根性あるからな」
「そうよね」
そうは言っても、相手は銃を持っている。千弥の表情は曇ったままだ。
「お、もしかして本当に心配なのは孫景のことか」
「何を言っているの、放り出すわよ」
千弥は郭皓淳をじろりと睨み付けた。湾岸線を彩る街の夜景が車窓を流れていく。
背後から猛スピードで迫る車があった。追い越し禁止車線を無視して、ワーゲンを煽るように追い抜いていく。横浜ナンバーの黒塗りのバンが5台、濃いスモークのせいで車内は見えない。
「鈴村組が応援を呼んだのかもしれないな」
郭皓淳は真剣な表情で遠ざかる黒いバンの群れを睨み付けている。
「そうだ、あなたの針でタイヤをパンクさせましょう」
「バカ言うな、俺の針はそういう用途じゃないんだよ」
千弥の提案に郭皓淳は無理無理、と頭を振る。
「もう、使えないわね」
「まったく、厳しい女だぜ」
郭皓淳は肩を落としながら微信で状況を劉玲に連絡した。千弥はアクセルを踏み込む脚に力を込める。
***
廃ホテルのラウンジ内で、京劇の化粧で顔相が分からない魏秀永が本物かを見極めようと鈴村の若衆が水を汲んだバケツを持ち上げる。
「ちょっと待て、彼は大事なゲストだ。そんな失礼な真似は許さない」
ライアンがこれまでにない厳しい声音でそれを制した。その凄みに怯んだ若衆は、思わずその手を止める。
「気にするな、やれ。本物だとしても、その化粧じゃ動画に出ても誰か分からねえだろうが」
武藤が低い声で命じる。若頭の命令は絶対だ。若衆は息を飲み、バケツを構え直した。
正体がバレたら、自分に用は無い。それに腹を立てた野獣たちから何をされるか分からない。伊織は額から冷たい汗が流れるのを感じた。横に座るライアンも緊張感を募らせていた。しかし、その目は怜悧な光を帯びている。
きっと、伊織の正体がバレたら動くつもりだ。そうなれば、ライアンとて無傷では無いだろう。ライアンも伊織も後ろ手に手首を縛られている。周囲には銃を持った黒スーツや詰襟が控えている。
「うぐっ」
不意に、伊織が低い声で呻く。前のめりになり、全身を震わせている。かと思えば、のけぞって苦悶の表情を浮かべ始めた。
「ぐあぁ、うぅ」
魏秀永の様子がおかしいことに、周囲の男たちは慌て始めた。
「彼は重度の不整脈を抱えている。ショックで心臓に負担がかかったんだ。このままでは心停止するぞ」
ライアンが叫ぶ。
「おい、殺しちゃ意味がねえ。何とかしろ」
武藤も大きく舌打ちしながら叫ぶ。
「どうにかしろ」「一体どうするんだ」
若衆たちも右往左往している。
「AED無いのか」
「こんな廃ホテルにあるかよ」
「あっても使い方わからねえだろ」
そうしているうちに、腕を縛られたままの伊織が勢いよく立ち上がった。
「ぐぅううう」
呻き声を上げながらもがき苦しんでいる。ふらふらとよろめきながら、肩で非常灯を支えるポールをなぎ倒した。その衝撃で付近に立てていたポールも倒れて、ライトは明後日の方を照らす。ラウンジが一気に闇に包まれた。
「ライアン、縄を解くよ」
暗闇の中で伊織がライアンに耳打ちする。伊織は手首を縛られるときにわざと抜けやすいよう手首の角度を変えていたのだ。暗闇に乗じてライアンの縄も解いた。
「伊織、君はとても度胸がある」
「ありがとう、とりあえず逃げよう」
ライアンは近くで取り乱していた詰襟の首を締め上げ、胸元から自動小銃を抜き取った。伊織と共に出口へ向かって走る。
パン、と乾いた男が響いた。目の前のガラスに蜘蛛の巣状のヒビが入っている。中央には銃弾が抜けた穴が開いて、冷たい風が吹き込んで来た。ライアンと伊織は足を止め、振り返る。
「待て、お前らふざけた真似しやがって」
武藤が怒りに震えながら銃口をこちらに向けている。周囲に立つ詰襟と黒スーツも銃を構えてこちらを狙っている。ライアンも銃を構える。三人は倒せても、何発かは食らうか。ライアンは伊織を庇うように前に立つ。
「彼だけは逃がしてもらえないか」
穏やかな声でそう言いながら、ライアンは銃を下ろした。伊織は唇を噛みしめながらダメだと首を振る。
「極道を舐めてやがるのか、そんなことが通用すると思うのか」
武藤は歯茎を剥き出しにして、目を細めて笑う。
「ちょっと痛い目見せてやれ」
武藤が吐き捨てるように命じた。黒スーツと詰襟がじりじりと迫り来る。ライアンは銃を再び構える。
不意に、激しい爆音が近付いてきた。テラスの木々が強風に煽られている。何事かと慌てる男たちは一面ガラス張りの窓から飛び込んできた強烈な光に目が眩み、動揺しはじめる。
「うわっ、目がぁ」
男たちは口々に叫ぶ。ラウンジ正面のテラスにヘリコプターが急降下し、ホバリングしている。
ライアンはその隙をついて、正面に立つ赤シャツの鳩尾に拳をめり込ませる。赤シャツは低く呻いてその場に崩れ落ちる。その横に立つ詰襟の顎に肘を食らわせ、脇腹にボディーブローを放つ。
銃口を向けた詰襟の手を、引き金が引かれる前に撃ち抜いた。銃を落としたところに伊織が背中に隠していたフライパンで側頭部を叩き、トドメを刺した。
「何をしている、ぶちのめして掴まえろ」
武藤が怒鳴り声を上げる。黒スーツと詰襟が十人がかりでライアンと伊織を取り巻き、襲いかかる。ライアンは銃を構え、伊織はフライパンを握る手に力を込める。
「ぎゃっ」「ぐうっ」
襲い来る男たちが呻き声を上げて、一斉に床に倒れた。男たちの脚や腕には銀色のスローイングナイフが突き立っている。
「瑛さん」
伊織が振り返ると、ダークレッドの長袍に身を包んだ曹瑛が、暗い怒りの表情を浮かべて立っていた。
「くそっ」
奥のソファから身を乗り出した黒スーツが銃を構える。その肩を榊の銃が撃ち抜いた。
「曹瑛!英臣!助けにきてくれたんだね」
ライアンは感極まって漆黒の長袍姿の榊にハグをしようと両手を広げる。榊はそれを押し留めながら、バーカウンターに隠れてこちらを狙っていた男の腕を撃ち抜いた。
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