第3話

「俺、行くよ」

「どこにだ」

 勢いだけではどうにもならないだろう、と曹瑛が呆れている。榊にも落ち着けと宥められ、鼻息を荒げていた伊織は椅子に腰を下ろした。

「次の試合は明日の夜だよ。比嘉も出場する」

 高谷が試合スケジュールを示す。試合はトーナメント戦で、比嘉はシード選手に選ばれていた。

「場所は、本牧ふ頭にある倒産した自動車整備工場だ」

 高谷が地図を表示する。


「獅子堂さんもこのことを」

 伊織が不安げに地図を見つめている。

「あいつも用心棒をやっているくらいだからな、裏社会の情報屋とは通じているだろう」

 榊は獅子堂も闇試合のことを調べるはずだという。

「でも、比嘉さんはどうして闇試合に出たと言ったんだろう。隠そうと思えばいくらでも嘘をつけるはずだ」

 伊織は首を傾げる。借金の取り立て屋が来たとだけ言っておけば、終わりだろうに。


「獅子堂を巻き込む気か、あるいは」

 榊が言葉を止める。

「久しぶりに会う友達や知り合いって、注意が必要なんだよ。俺は営業マン時代に知り合った奴に声を掛けられて、マルチ商法の会場に連れて行かれる羽目になったし」

 伊織が深刻な顔で呟く。

「お前がお人好しすぎるから、利用されるんだ」

 曹瑛が鼻で笑いながら伊織の頭を小突いた。高谷も思わず吹き出す。

「よし、俺たちも観戦に行くとするか」

 榊がニヤリと笑う。伊織と曹瑛、高谷も顔を見合わせて頷いた。


 ***


 真っ暗闇に伸びる道路、島影が闇の中に形を変えながら流れていく。夜明け前の国道58号線を獅子堂は黒のヤマハドラッグスターでひた走る。殴られて腫れた頬に冷たい風が吹き付ける。

「もう追ってこないか」

 バックシートに跨がる翔平が背後を振り返る。

「そのようだ」

 獅子堂はサイドミラーを覗き込み、頷く。繁華街のチンピラ同士のケンカに割って入った。明らかに戦意を喪失している相手グループを倍の人数で痛めつけていたのが気に食わなかった。


 地元ではいくつかの勢力が存在した。地元極道の後ろ盾を持つ者たちと本州に拠点を置く極道が送り込んだ者たちで利権争いは激しさを増していた。

 獅子堂と比嘉翔平は名の通った荒くれ者だが、どのグループにも属さない。スカウトもよくかかるが、孤高を気取る態度が気に入らないと日の高いうちから狙われることもあった。

 翔平とは妙に気があった。この日も二人で十五人のチンピラをのした。乱闘が終息する頃に警察が呼ばれ、二人はバイクで逃走、白バイをまいたのだった。


 水平線に光が射す。ほの暗い海と低い雲の立ちこめる紫色の空を隔てる光の筋が伸びていく。獅子堂はバイクを停めて堤防に立つ。翔平も堤防に登り、腰を下ろした。二人は黙ってただ水平線を見つめている。やがて、流れる雲を照らして朝日が昇り始めた。


 朝日の眩しさに、獅子堂は目を細めた。もう一度目を開けると、薄汚れたベージュ色の狭い天井が広がっている。すりガラスの向こうに赤や黄色のネオンが反射し、繁華街の喧噪が聞こえてきた。意識が次第に現実に戻ってくるのを感じる。

 ここは横浜で根城にしているビジネスホテルだ。獅子堂は狭いベッドから身を起こす。ベッドサイドに置いたミネラルウォーターを飲み干し、空のペットボトルをゴミ箱へ投げた。

 獅子堂はアッシュゴールドに染めた髪をくしゃくしゃと掻き乱す。ヘッドボードで充電していたスマートフォンを見れば、メッセージが入っていた。


 ―明日夜十一時、本牧、長尾オートセンター


 長尾オートセンターを調べると、一年前に廃業した自動車整備工場だった。翔平が出場させられたという闇試合について、情報屋からの返事だ。続いて、当日の対戦カードの画面キャプチャが届いていた。そこにはシード選手として翔平の名前があった。

「お前は一体何を考えている」

 獅子堂は低い声で呟きながら、目を閉じる。闇の中に続く国道58号線が瞼の裏に浮かんだ。


 ***


 階段を元気に駆け下りる足音、空手着の少年少女たちが保護者と手を繋いで帰っていく。どの子も額に汗を光らせながら、はつらつとした笑顔を浮かべている。

「今日、俺比嘉先生に勝ったよ」

「先生はわざと負けたんだよ、本当は強いんだぞ」

 そんな会話が遠くなっていく。獅子堂は琉球空手と書かれた看板を見上げた。階段を上がり、道場を覗き込む。もう生徒たちは全員帰ったようだ。


 まだ明かりのついている道場のサッシ扉を開けると、上半身裸の翔平が顔を出した。

「おう、和真か」

 翔平の表情は一瞬引き攣る。

「稽古は終わったのか、これから飯でもどうだ」

 獅子堂はオレンジ色のサングラスをかけており、表情が読めない。翔平は道場にかけた時計をチラリと見る。時間は夜九時をまわっている。

「悪いな、先約がある」

「そうか、残念だ」

 獅子堂の声には感情がこもっていない。やや気持ちが急いている翔平はそれを気にする様子もなく、扉の鍵を閉めにやってくる。


 扉に手をかけた時、その手首を獅子堂が掴んだ。

「これからどこかに行くのか」

 獅子堂の言葉に、翔平は一瞬目を泳がせる。しかし、鋭い視線で獅子堂を睨む。

「お前には関係ない」

 翔平は乱暴に腕を振り払った。獅子堂はすんなり手を離す。獅子堂を残してサッシ扉を閉める。獅子堂がサングラスを取り、まっすぐに翔平の目を見つめた。ブルーの瞳はあの頃と変わらない、深い海の色だ。翔平は思わず目を背ける。


 翔平は扉を乱暴に閉め、鍵をかけた。獅子堂は去って行く背中をじっと見つめている。そして道場の光は落ちた。しばらくして、バイクのエンジン音が唸り、ネオンの街へ消えていった。

 獅子堂は唇を一文字に引き結んで、ゆっくりと階段を降りていく。その拳は爪が食い込む程に強く握られていた。


 ***


 神保町にある烏鵲堂から首都高環状線に乗り、神奈川方面へ。横浜ベイブリッジを越えて本牧ふ頭で降りる。倉庫街の空き地にBMWを停めた。周囲は空き倉庫も目立ち、人気はない。榊と曹瑛、伊織と高谷は車から降り、廃自動車整備場を目指す。海の方を見れば、煌々とライトアップされた大型クレーンが並んでいる。


 長尾オートセンターと書かれたペンキの剥げかけた看板があった。トタン板を並べた壁面からオレンジ色の明かりが漏れている。

「あそこだ」

 伊織が天井の高い大きな倉庫を指差す。空き地には廃タイヤがうずたかく積まれ、褐色の液体が流れ出して周囲の溝に流れ込んでいる。有刺鉄線の向こうは雑草が伸び放題だが、コンクリートで固めた通路の周囲は草が綺麗に刈り込まれ、人の通行があるようだった。


 倉庫の勝手口に耳、鼻、唇に無数のピアスを開けた派手なTシャツ姿の若い男が立っている。高谷が先陣を切り、スマートフォンの画面に表示されたQRコードを示す。

「SSシート、4人ね」

 そう言って何も疑わず道を空ける。中へ入ると、噎せ返るような熱気に伊織は思わず面食らった。中央に設えられたバリケードの周囲を二百名以上の男たちが囲んでいる。見るからに輩といった連中もいれば、スーツを着たサラリーマン風の男の姿もある。派手なメイクの女連れのカップルも何組が見かけた。


 中央に向かってロープが幾重にも張られており、これがシートのランクなのだろうと予測がついた。中央の闘技場に近い方が客の身なりが良い雰囲気だ。天井からぶら下がるクレーンに吊された裸電球がゆらゆらと揺れている。

 倉庫の端ではビールはじめ酒やスナックの販売までやっている。賭け率を書いたボードが立てかけられており、その場でチケットを配布していた。

「こ、こんなことが日本で行われているなんて」

 伊織は唖然とする。一人では絶対に来ない場所だ。

「上海の方が規模が大きかったな」

 周囲を見回してぼやく曹瑛を伊織は二度見した。


「高谷くん、SSシートって高かったんじゃないの」

 伊織が高谷に訊ねる。闇試合のチケット四人分、高谷がネットで購入してくれたのだ。

「SSは一万円だったよ、でもお金なんか一円も払ってないけどね」

 高谷はペロリと舌を出す。偽装QRコードを作ってすり抜けたのだ。

「これだけの観客、ネット中継にギャンブルの利益、それが胴元の島内組に入っているとなると見過ごせない収入だな」

 榊が倉庫の端に立つイヤホンをつけた黒服をチラリと見る。曹瑛も黒服の立ち位置を目で追っている。二階通路にも身を潜めているようだ。


 人をかき分けてSSシートエリアにたどり着いた。バリケードの前はすぐにリングで、選手の顔もよく見えそうだ。花道から男が二人、入場してきた。前座のようだが観客は大声で場を盛り上げる。天井から吊されたスポットライトがリングを照らす。

 ゴングが鳴り、選手が睨み合いを始める。伊織は思わず手に汗を握り、息を呑む。


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