第2話

 比嘉ひが 翔平しょうへいは獅子堂と伊織を道場に案内する。雑居ビルの階段を上がり、ガタつくサッシ扉を開くと畳張りの道場だ。今日は稽古日ではないため、生徒はいないらしい。

「ビールでいいか」

 伊織は下戸、獅子堂はバイクでここに来ているらしく二人揃って首を振る。比嘉は奥の事務所から折りたたみテーブルとペットボトルの緑茶を持って来た。

「二人には悪いが、俺にはこいつが水みたいなもんだ」

 そう言いながら自分はオリオンビールのプルタブを開ける。畳の上にあぐらを掻いて座り、美味そうに一気飲みする。


「しかし、助かった」

 口元についた泡を拭いながら比嘉が頭を下げる。褐色の肌に太めの眉、二重まぶたの大きな瞳、高い鼻梁は遠い祖先に異国の血が混じっているような雰囲気を与える。黒いランニングシャツから覗く見事な胸筋は、彼が格闘家であることを示していた。


「君は和真の友達か」

 翔平は伊織の顔をまじまじと見つめる。一体、どういう縁なのか不思議でたまらないという顔だ。

「宮野伊織です」

「俺は比嘉翔平。和真とは幼馴染みなんだ。沖縄の宮古で育った。小さな島で、俺と気が合うのはコイツしかいなくてな。よくやんちゃをしたもんだ」

 翔平は豪快に笑う。獅子堂も脳裏に思い出が過ぎるのか、フッと唇を緩めた。


「和真は最近どうしてる」

「この間まで中国にいたが、日本に戻った。今は横浜にいることが多い」

 獅子堂は地元の高校を卒業後、沖縄から本州に渡り、一時は中国東北地方を拠点とする組織、八虎連に所属していたこともある。現在フリーの用心棒で定住の地は決めていないが、劉玲や孫景と仕事を共にすることがあるので、最近は横浜に滞在することが多いという。

 翔平とは中華街の食堂でたまたま顔を合わせ、いつか道場を覗きに行くと約束していた。


「自分の空手道場を持つのは夢だったんだよ」

 ビールを片手に翔平がしみじみ呟く。

「俺のオヤジはひでぇ暴力オヤジだった。今じゃドメスティックバイオレンスっていうのか、すぐに警察が来てくれるらしいが、当時は家族だから殴られても我慢しろって風潮でな」

 翔平の母は暴力に耐えきれずに失踪。残された翔平は小さな弟と妹を守りながら、父親と戦わなければならなかった。父親は漁師をしていたこともあり、腕っぷしが強い。翔平はいつも生傷が絶えなかったことを獅子堂は覚えている。


「オヤジから弟妹を守るには俺が強くならなきゃって思ってな」

 年上の不良少年によくケンカを売っていた。彼らは集団で弱いものをいじめる。翔平にはそれが許せなかった。そんなとき、獅子堂と出会い、意気投合したという。

「お互いに強くなろうって、空手道場をこっそり覗きに行ったよな」

「ああ、懐かしい」

 獅子堂は穏やかな笑みを浮かべながら頷く。獅子堂の格闘スタイルは空手がベースにあることを伊織は思い出す。

「俺は高校に上がる頃にオヤジを叩き伏せた。それ以降、オヤジは俺たちに手を上げることはなくなった。俺は目標を失った。強さを求めても空しいだけ、俺の心は空虚だった」

 ビールを飲み干した翔平は天井を見上げる。


「だが、“空手に先手なし““人に打たれず、人打たず、事なきをもととするなり“、琉球空手の精神は俺の人生の標となった」

「翔平は酒が入るといつもこの話だ」

 獅子堂が伊織に耳打ちするが、伊織は聞き入っていた。

「それで、若手にもこの精神を伝えたいとこの道場を開いた」

 翔平は道場を見渡す。古い雑居ビルのオフィススペースをぶち抜いて作った手狭な道場は、大事な彼の城なのだろう。道場の正面には琉球空手の伝える精神が達筆な文字で額縁に納まっていた。


「それが、不景気だ少子化だでなかなか生徒が集まらなくてな。日中は運送屋のバイト、夜は稽古日だけここを開けている」

 翔平は渋い顔で腕組をする。

「それで、あの三人組がやってきたんですね」

 ヤクザたちは道場の家賃を滞納していると言っていた。それにもう一つ気になるのは、伊織は思い切って訊ねる。

「試合って、一体何のことですか」

 翔平はその言葉に唇を噛む。獅子堂は翔平をじっと見つめている。


「あいつらは素手でのケンカを見世物にする、いわゆる地下闘技場で資金を得ている」

「地下闘技場」

 伊織は目を丸くした。まるで映画や漫画、フィクションの世界だ。獅子堂には予測がついていたのか、切れ長の目を細めただけで動揺する気配はない。


「道場の家賃の滞納を待つ、という条件で俺は一度だけ出場した。地下といっても、モグリって意味だ。横浜にある廃倉庫の中で開催される」

 闇賭博と、試合の様子を会員制でネット配信をすることで利益を上げているらしい。それが潤沢な資金源になっており、横浜の組織のパワーバランスが危ういという話もあるそうだ。


「俺の試合は視聴率も良く、賭けの利益が大きかったらしい。裏社会の常連客からまた出場させろと声がかかっているとよ」

 翔平はおどけているが、もう出場するつもりはないという。暴力がヒートアップするほどに会場は沸く。相手が戦意を喪失してもまだ殴れと命じられる。そんなことはしたくないとも。

「それで奴らが脅しに」

 深刻な顔の伊織を見て、翔平がその背中をバシンと叩いた。

「俺はそのくらい強いんだ。あんな奴ら、いつだって追い返す」

「違いない」

 豪快に笑う翔平に、獅子堂も頷いた。


 翔平に別れを告げ、道場を後にした。伊織と獅子堂はしばし無言で裏路地を歩く。

「まずいな」

 獅子堂がぼそりと呟く。

「あの手合いが翔平のような選手を放っておくはずがない」

「ってことは、まだ脅しをかけてくるってこと」

「何としても誘い込もうとするだろう。専任の選手にしておきたいはずだ。ただ、使い捨てだがな」

 勝ち続ければ金は手に入るが、再起不能になったら海に放り投げてサヨナラ、それがやり口だ。獅子堂は唇を一文字に引き結び、拳を握りしめた。


 ***


 翌日、榊に王府井の焼き小籠包を渡すため、伊織は仕事帰りに閉店後の烏鵲堂を訪れた。書店の店番に入っていた高谷も片付けを済ませてカフェスペースにやってきた。

「伊織、ありがとな。これがビールのアテに美味いんだよ」

 榊は上機嫌で伊織から焼き小籠包を受け取る。普段はブランデーを好んで飲むが、夏場はビールらしい。


「榊さん、これ家で一人で食べるの。ビールと一緒に」

 高谷が頬杖をついて榊の顔を覗き込む。

「焼き小籠包か、焼き加減が難しいぞ」

 曹瑛も榊の焼き小籠包をじっと眺めている。

「ったくお前ら・・・わかったよ。曹瑛頼む」

 榊は袋ごと焼き小籠包を曹瑛に手渡した。曹瑛はそれを持って厨房に引っ込んだ。少しして、香ばしい匂いが漂ってくる。榊はビール買ってくる、と裏口から出ていった。


 曹瑛が調理した焼き小籠包がテーブルに並ぶ。肉汁を逃がさないためのレンゲも用意されていた。

「いただきます」

 皆でテーブルを囲んで手を合わせる。

「美味しいものはみんなで食べないとね」

 高谷は榊が持ち込みしたビールを片手に焼き小籠包をつつく。ぷるぷるの皮を破れば香り立つ肉汁が流れ出した。焼き加減は丁度よく、タレもパッケージに封入されたものではなく、曹瑛が厨房にある中華調味料を使った本格的なタレを作ったので、まさに本場の味わいだ。


「うん、ジューシーで美味しい」

 伊織と曹瑛は水出しのアイス烏龍茶をお供にしている。プレーンと魚介スープ風味、合わせて30個あった焼き小籠包はあっという間に無くなってしまった。

「また取り寄せをするか」

 榊はビールを傾けながらぼやく。曹瑛が冷蔵庫から作り置きの杏仁豆腐を持ってきた。濃厚な杏仁豆腐が脂っこい後味をすっきりさせてくれる。


「榊さん、日本にも地下闘技場ってあるの」

 伊織は躊躇いがちに切り出す。昨日、獅子堂に会ったことをかいつまんで話をした。

「聞いたことはある、場所は横浜か。結紀、裏サイトを調べられるか」

 榊はスマホを取り出してラインでメッセージを投げた。高谷はタブレットで何やら検索をかけている。

「サイトを見つけた」

 5分もかからず高谷は闇サイトを見つけ出し、パスワードをすり抜けてコンテンツを表示させた。


 黒を基調にしたデザインのサイトには試合スケジュール、各選手のプロフィール、掛け率が表示され、投票もできる仕組みになっている。

「あ、この人」

 伊織が驚いて画面を指さす。選手プロフィールに比嘉翔平の顔が出ていた。

「なかなか男前だな、オッズもいい。花形選手じゃないか」

 榊の言葉に伊織が勢いよく振り返る。榊は思わず怯んだ。


「花形って、比嘉さんは一度しか試合に出ていないって」

「何を言っている、ここを見てみろ。八試合中、七KOって書いてあるぞ」

 榊は翔平のプロフィールを拡大する。伊織はタブレットの画面を信じられない表情で見つめている。

「お人好しなお前は騙された、獅子堂もだ」

 曹瑛は腕組をしたまま冷ややかな目で画面を見つめている。榊のラインに返信が来たようだ。

「この試合を裏で仕切るのは横浜鳳凰会島内組か、小さな組だが金回りがいいと聞いていた。これが資金源だったのか」

 情報屋からの信頼できる情報だという。伊織が見た裏路地の三人組は島内組の奴らだろう、と榊は言う。


「島内組は勢力拡大に躍起になっている。どんな汚い手を使ってでものし上がろうという奴らだ」

 地下闘技場で得た資金で武器を買い付け、横浜で戦争を起こすような真似も厭わないだろう、と榊は続けた。

「それに闇試合で再起不能になれば、行き先は病院ではない。火葬場だ。文字通り闇に葬られる」

 曹瑛の言葉に伊織はどんどん青ざめていく。

「比嘉さんが心配だ、それに獅子堂さんも比嘉さんを助けようと」

 伊織は唇を噛んで、拳を握りしめる。

「比嘉が奴らに協力しているなら、獅子堂も危険だな」

 曹瑛が杏仁豆腐を掬いながら呟く。伊織は頭を抱えて唸っていたが、勢いよく立ち上がった。

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